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カツンカツンカツンカツン。
アパートのコンクリート打ちっぱなしの階段は足音が大げさに響いた。
小さな窓から駐車場が見える。
新谷の車はおおよそ20代の男性が乗らないクリーム色のコンパクトカーだ。たしか母親から譲ってもらったと言っていた。
その見慣れた車は停まっていない。
篠崎は階段を上がり廊下を歩いた。
いないとわかっている新谷の部屋の前で止まると、その郵便受けに乱暴に突っ込まれた新聞を見下ろした。
二つ。
篠崎のベッドの上から消えた、昨日の分と、会社を休んだ今日の分だ。
それを見る限り、新谷は家に帰ってきていない。
その無機質な部屋のドアを見上げる。
きっと新谷ではなく“彼女”が作ったのであろう、ローマ字で「ARAYA」の文字が躍る木彫りのプレートが冷たい風にあおられ、カランと揺れた。
「新谷。どこに行った……」
そのひんやりと静まり返るドアに手をつく。
昨日の朝まで、この自分の手で包んでいたはずの手は、この寒空の下、今どこにいるのだろうか。
「…………」
心のどこかではわかっていた。
新谷に何か思うところがあって、逃げる場所があるとしたら、それは……。
間違いなく、彼女である千晶のところだ。
千晶に篠崎のことをなんと話したのだろうか。
抱きしめて、泣きついて、「また上司に襲われた」とでも言っているのだろうか。
(……まあ、襲ったと言えばそうだけど―――)
抱きしめ返してきた腕に、
応えてきた舌に、
潤んだ瞳に、
漏れだした掠れた声に……。
確かに“愛”を感じたのは、自分のただのエゴだったのだろうか。
ドアを背にしゃがみ込む。
掌で目を擦る。
千晶がいい女なのはわかる。
ゲイとして生きてきた新谷が、惚れるくらいなのだから、当然だ。
同性愛者である彼の辛さや危うさを許して尚、つつみ込む包容力がある。
傷ついた彼に、本当は自分が一番傷ついているだろうに、それを奮い立たせ背中を叩いて送り出す強さもある。
普通の幸せを目指す新谷にとっては、これ以上ないと言い切れる理想の相手だ。
それが痛いほどにわかる。だからこそ……。
「……篠崎さん?」
振り返るとそこには、ピンク色のダッフルコートを着た、千晶が立っていた。
立ち上がり、彼女と真正面から向き合う。
春に展示場で会ったっきりだが、その時の記憶よりも幾分小柄に感じた。
長いボブの髪の毛を綺麗に内巻きにまとまっている。メイクはしっかりしているが、けして濃くはない。
ぶれずにこちらを睨み上げる緑色の瞳の光が、彼女の心の強さを表している。
「何の用ですか?由樹は、土曜日までいませんけど」
冷たく言いながら篠崎の脇を抜けると、慣れた様子でドアのカギ穴に自分のキーケースから取り出した鍵をさし入れた。
「聞いてませんか?親戚に不幸が出たんですよ」
「……聞いたが」
篠崎は小さな彼女の後頭部を見下ろして言った。
「信じてない」
「…………」
千晶が、自分より30センチ近くも背の高い篠崎を、まるで降り出した雨に空を見上げるかの如く、迷惑そうに睨み上げる。
「どうでもいいけど、どいてもらえます?」
篠崎が二、三歩後退すると、彼女は勢いよくドアを開け放ち、暗い部屋の中に入っていった。
そして何やらガタガタと家の中を回ると、また靴を履き、外に出てきた。
「………まだいたんですか」
今度は篠崎と目を合わせることなく、彼女はドアを閉めると鍵を掛けた。
「由樹はちゃんと土曜日まで休みをもらう旨を報告しています。それにあなたはもう上司ではないはずですけ……」
「昨日」
篠崎は千晶の言葉を遮った。
「昨日、新谷に会ったか?」
「…………」
鍵穴から鍵を抜き取った千晶は、再び篠崎を睨み上げた。
「何か、あなたに関係あります?」
「あるから聞いてる。あんたに応える義務はないけどな」
「…………」
千晶は振り返ると、篠崎の正面に身体を向けた。
「じゃあ、私からも聞いていいですか。篠崎さん」
「……?ああ」
「あなた一昨日、由樹に何かしましたか?」
篠崎は、新谷とはとても同い年に思えない、美しい女医を黙って見下ろした。
「答える義務はないですけど」
彼女はピンク色の綺麗な形の唇を歪めて笑った。
「……由樹は昨日の朝早く、私のマンションに駆け込んできました。それはそれは、取り乱して、泣き叫んで。彼と付き合いがそれなりにある私ですが、どうしようもないほどに動揺していました」
「……新谷が?」
取り乱して千晶の小さな体に抱き着く新谷を想像する。
「身に覚えがありませんか?」
千晶は目を細めた。
「なんとか落ち着けて話を聞きました。そしてあなたと由樹の間に何があったかも、それによって由樹がどうして取り乱してしまったのかも、全部聞きました」
千晶は苦虫を嚙み潰したような顔をしながら言った。
「やっと落ち着き、彼が泣きながら眠りについたのを見て、私は朝食と昼食を準備してから病院に出社しました。そして帰ったら、彼は居なくなっていました」
「…………」
つまり、新谷は今朝から何時間かは千晶の部屋にいたが、それからまた行方をくらましてしまったということだ。
「私は、あなたのことが嫌いです。大嫌い」
その緑色の瞳が、篠崎の両の目を突き刺すように睨む。
「あなたを見ていると、最低最悪の殺したくなるほど憎い男を思い出すので」
「……?」
篠崎が眉間に皺を寄せると、千晶はその目つきのまま、口元だけで微笑んだ。
「篠崎さん。どうせ暇なら、私の昔話に付き合いますか?」