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千晶は医学部を卒業し、そのまま大学病院の眼科の研修医として配属された。
由樹はというと、無事4年で大学を卒業し、ダイクウの開発部に入社した。
社会人になっても月一度、集中講義代を払うという名目の飲み会は続いていた。
千晶はどんなに忙しくても、時間を作って会いに行き、彼に目に見えた変化がないか、“観察”し続けた。
行くのはいつも、チェーン店の居酒屋だった。
個室なので話題を選ばなくてもいいし、女にも、男にさえ声を掛けられやすい新谷と、周りの目を気にせずに話すにはちょうどよかった。
夏だった。
由樹はTシャツにGパンという、学生時代と変わらない服装で現れた。
「どう?仕事は楽しい?」
千晶はモスコミュールに口をつけながら言った。
ビールの泡を鼻の下につけた由樹は人懐こい顔でニコニコ笑った。
「楽しいよ。もう夢中で毎日仕事してる」
一言目にはこれ。
そして……
「課長がすごく良くしてくれてさぁ!」
二言目には、これだ。
千晶はお通しの牛筋煮込みを箸でつつきながら聞いた。
「そのいつも話に出てくる課長って何歳?」
「んーと」
ジョッキを持ち上げたまま由樹が天井を見上げる。
「27?あれ、8かな?」
「ふーん」
年齢を即答できないということは、その上司とはまだ特別な関係にはない。
特別な感情もない。
今のところは。
由樹には、ではあるが。
「どんなふうに良くしてくれるの?」
聞いてみると、
「何て言うか、すごくかわいがってくれるんだよね。仕事終わった後もいろいろ教えてくれたり、休みの日に他社の商品発表会のイベントとかに連れて行ってくれたりさ」
「へえ………」
確かに可愛がられてはいるらしい。
だがそれが後輩としてなのか、それ以上なのかはまだ、その段階ではわからなかった。
ジョッキにつけた唇から僅かにビールの雫が垂れる。
由樹は慌ててそれを腕で拭き、それでもなお垂れた水滴を舐めるように、赤い舌で腕を啜った。
「…………」
女である千晶でさえ、その姿におかしな気を起こしそうになるのに、27だか28の油の乗り始めた雄が、こんな可愛い由樹をいつも隣に置いて、何も思わないわけはない。
「ねえ。あんたってゲイなのよね?」
個室とはいえ、周りに聞こえないように声のボリュームに配慮して正面に座る何の警戒もしていない無防備な由樹に聞いた。
「ん。そーだけど?」
どしたの改めて、と由樹は笑った。
「その、上司………課長さん?はどうなの?」
「…………」
由樹は大きい目を伏せて、千晶が取り分けたアボカドのサラダを眺めた。
2.回、3回と、瞬きを繰り返す。
「……特に意識したことはないかな」
少し首を傾げながら答えた笑顔に、千晶はひとまずほっとした。
「タイプじゃないってこと?」
言うと、由樹は頬杖をついた。
「タイプ云々ってか、うーん。何て言うのかな。あ、そうだ。先生っぽい!中学校の時の体育の先生にそっくりだ、そういえば!」
由樹はヘラヘラ笑うと、ジョッキを傾けて金色の液体を飲み干した。
千晶は後ろに手をついて軽くため息をつきながら、その細い喉仏が上下するのを眺めていた。
彼の様子が変わったのは9月の終わりころだった。
いつものように個室に入って、薄いニット調のコートを脱ぐと、由樹は引っかけたグレーのパーカーを脱ごうともせず、ぼーっと掘り炬燵に足を下ろした。
「何にしますか?」
すっかり顔なじみになった店員が聞く。
「……………」
答えない由樹に代わって、千晶は生を2つ注文した。
「なによ。今日は疲れた?」
嫌な予感を振り払うように千晶はわざと明るく言った。
「……疲れた……?うん。疲れた、かな」
由樹はやっと視線を上げると、千晶の目を見つめた。
「でも。千晶の顔見たらちょっと落ち着いた……」
その弱々しい笑顔を見て、直感で何かあったのは分かった。
しかし彼は、それ以上何も言わずに、天気の話や、今年の冬にデビューする、空気清浄機付きエアコンの技術的なアプローチについて、熱弁を奮った。
(……話してこないってことは、まだ大丈夫かな)
千晶は彼の話を熱心に聞くふりをしながら、小さくため息をついた。
由樹の技術的な難しい話を聞いていたら、いつの間にか眠くなってしまい、その日は早めに解散した。
しかし……。
その2週間後、飲み会に現れた由樹は別人だった。
泣きはらしたのか、目の下には隈を作り、唇は血色悪く、弱く震えていた。
(…………遅かっ……た……)
聞くまでもなかった。
千晶は自分の判断力の甘さと決断力の遅さに絶望し、喉元で鳴り出した心臓を抑えるために、運ばれてきたビールを喉に流し込んだ。
「……あれ、乾杯は?」
目の前の由樹が人形のような薄っぺらい笑顔を向けてくる。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け……)
なおも自分に言い聞かせる。
由樹のジョッキに伸ばす指先が震えている。
(……ダメだ、私が落ち着かなきゃ……)
「あれ、どうしたんだろ………俺―――」
「………由樹!」
その震える指先を、千晶は両の手で包んだ。
由樹がピクンと反応した顔に遅れて視線を千晶の緑色の瞳に合わせる。
「なんで、千晶が、泣くの……?」
気が付くと、千晶は目に涙を一杯ためながら、由樹の手を握りしめていた。
ホテルには、自分から誘った。
由樹は一瞬だけ躊躇したが、判断力が低下しているらしく、強引に手を引くと、大人しく付いてきた。
「……俺、思えば、女の子とホテル入るの初めてだ」
自嘲的に笑った由樹を、ラブホテルに入ること自体初めてである千晶は、ベッドに押し倒した。
「…………」
彼は特に抵抗することなく、されるがままにしていたが、千晶が震えながら唇を合わせると、ふっと笑って下から優しく身体を包んでくれた。
「千晶?俺、女の子と、デキないかも」
「うん、知ってる」
「それでもいいの?」
「……いいよ」
千晶は重心をずらして彼の太腿の上に座ると、彼が着ていたパーカーを脱がせた。
柔軟剤の匂いだろうか。
清潔な石鹸の匂いが漂ってくる。
そこで初めて千晶は、彼の顎にうっすら髭が生えていることに気が付いた。
「……最近、会社行ってないの?」
何でもないことのように、彼のチェックのシャツのボタンに手を掛けると、子供にそうしてやるように、上から順に外していく。
「うん。先週から……」
隠すことなく言った由樹は、ふっと弱く笑った。
「千晶……」
「ん?」
「泣かないでね」
「…………?」
千晶は外し終わったシャツを脱がせようとそれを左右に開いた。
「…………っ!」
その白い首には、細い肩には、浮き上がった鎖骨には、無数の内出血と、噛み跡と思われるかさぶたが散らばっていた。
「誰が……?」
言うと、由樹は目を伏せた。
「課長が、さ」
頭をがくんと下げて、由樹は俯いた。
「家に飲みに来いよって……」
「うん」
「んで、俺、酔っ払っちゃって」
「うん」
「気づいたら、俺の上で、課長、腰振ってて」
「…………」
いたたまれなくなって、千晶は口許を抑えた。
でも泣かない。涙は流さない。
自分は最後まで聞かないといけない。彼に何があったのか。誰から何をされたのか。
……これから彼を、救い出すために。
「それからというもの、無理矢理、身体を求められるようになって……」
「うん」
「そのうち関係が、会社の先輩たちにバレて……」
「う………ん」
「先輩たちから、呼び出されて。前から課長に特別扱いされる、俺のことムカついていたらしくて」
「………ん」
「在庫倉庫で、輪姦された」
「………っ」
千晶はその体に抱きつき、押し倒した。
傷ついた胸に顔を押し付け、その傷口、一つ一つにキスをした。
内出血を優しく吸い、かさぶたに舌を這わせると、足を投げ出して寝転がっていた由樹の腰が小さく動いた。
その夜、由樹はおそらく、初めて女を抱いた。
そして千晶は、初めてセックスをした。
◇◇◇◇◇
その名前を聞いたのは、確かこの半年間で一度きりだった。
「坪沼課長がさ……」
由樹が何かの拍子に呟いた名前を、千晶はずっと覚えていた。
……いつかこんな日が来た時のために。
初めて感じる色疲れで気だるい体を奮い立たせ、千晶は起き上がった。
隣には枕を抱きしめるように寝ている由樹の白い背中がある。
その背骨のラインに沿って無数の痣がある。
千晶は奥歯を噛みしめながら、傍らに転がっていたパンツに足を通し、ブラジャーのホックを留めた。
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