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その週の週末、土曜日、俊はいつも通り8時頃起きてきた。
私が朝食を作っていると、いつものように手伝ってくれた。
娘の食事の補助をふたりで代わる代わる手伝いながら食事をする。
最近では夫婦の会話がほとんどない。
以前は話したいことが山ほどあって俊の休日が待ち遠しくて
たまらなかったというのに。
今では休日になるのが嫌でたまらない。
だけど、今日は違った。
話すべき話題があるので少しだけ気持ちが軽い。
「俊、これから毎週日曜の15時~20時までアルバイトすることにしたから
奈々子のことみててほしいんだけど……どうかな」
「いいよ、桃が帰るまで奈々子と留守番してるよ」
「ほんと? ありがと」
なにもなかった頃の私ならば『お願いします』の一言を絶対言ったはず。
でも今日は……今回は……言わなかった。
意図的に。
「なんの仕事? どこまで行くの?」やっぱり訊かれた。
そりゃあ、普通訊くよね。
私は前もって準備していたセリフを繰り出した。
「受付。デッサン教室の受付なの」
「デッサンって、アレ……絵を描いたりするところだよね」
「うん、そう」
「出勤時間遅くていいんだ?」
「うん、二交代制になってるから」
「奈々子が生まれてからずっと家ばかりだったから、気晴らしにいいかもね」
「うんそうだね」
「桃のいない時間、責任重大だな。
奈々子に怪我させないようにしないとな」
何も知らない夫は、上手く子守ができるかどうかの心配をしている。
奥さんはストリップダンサー気分でお仕事に行くってぇ~のに。
おかしっ。ふふっ。
そんな俊の呑気な様子を見るのも少し留飲が下がる。
でも……この先ずっとこんな気持ちで自分の夫に向き合っていくのかと思うと
我ながらおぞましやと思う。
そんなこんなで下げた留飲もすぐに胸の中から消えてしまった。
『駄目だよ桃、ちょっとの後ろ向きな考えもだめ。捨てるのよ!』
桃美の言葉が頭に入ってきた。
『そうでした、前向きに行くって……自分を守るって……決めたんだものね』
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植木さんからの話を聞いたのがクリスマス月でまだ月の中頃だったとはいえ、
世間はすぐにクリスマスだの年末だのと忙しなく流れていき、その間に一度
大野デッサン教室に出向き担当の講師との面談を終わらせた。
3人いて、あとの2人とは軽く名前を名乗る程度の挨拶で済ませ、
私の担当になる講師とは20分ほど話をして解散となった。
講師はピーター・エフロンというネームの男性だった。
受け付けの女性は20代後半か30代前半に見えた。
ひとまず女性でよかった。
男性だと何かあった時に丸バレで言い逃れも難しいもの。
まぁ、夫が問い合わせしたりここへ見にきたりすることはないと思うけど。
デッサン教室ではお立ち台じゃないけれど……部屋のほぼ真ん中辺りに
高さ20cm前後で畳一枚分ほどの小上がりに似た台が置いてあり、
私はそこで座るポーズをとることになった。
全裸ではあるけれど見方によっては半裸ということになるのだろうか。
生徒たちから見て横向きのポーズで両膝を胸辺りまで折り曲げ、下半身は
薄い半透明のベールを太腿の辺りまでかけてのポージングになる。
そして顔は生徒たちの方を向く。
こちらでも20分ポーズ10分休憩で6ポーズ3時間。
1クラスの定員は14~5名のようだが実際は6~7名ほどで初回は全員
白髪交じりの5~60代の男性ばかり。
途中3回目のレッスンから1名ものすごく熱い視線を向けてくる20代後半と
思しき女性が参加してきたのだが、絡みつくような視線にぎょっと
なる。
後で知ったのだが、彼女は同人誌を出しているらしく、男女のHシーンが
上手く書けないので習いにきたということらしかった。
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彼女は計4回来て、その間講師から裸体の書き方を丁寧に指導してもらい、
大体のところ何とか同人誌に載せられるレベルまで描けるようになったことと
レッスン料の兼ね合いもあり、ひとまず辞めるということで4回目以降
見かけなくなった。
受け付けの女性スタッフに聞くところによると、午前中の男性の裸体モデルのレッスンは
私のクラスとは対照的に生徒さんが女性たちばかりなんだそうで、今回は男女ともに
魅力的でステキなモデルさんたちなので生徒の性がぱっとはっきり分かれたのじゃ
ないかしら、という意見だった。
ちなみに男性モデルのポーズは全裸の立ち姿で局部もさらけ出している
とのこと。生徒の皆さん、どんな真剣な眼で見ているのやら。
自分のクラスのおじさま方のこともそうだけど、女性たちのことも
考えてみるとなんだか可笑しい。
キャバクラやホストクラブに行っても生身の裸は拝めないというのに
デッサン教室や芸大では注視することすら非難されないのだ。
心から真面目に絵の為芸術の為に裸体にふれる
人たちからしてみれば、邪推の域になっちゃうけれども。
だが人間は神や仏ではないので、ふとスケベ心が湧かないとは
言い切れないだろう。
今も昔も神仏に仕えているお坊さんや宮司、神主なども結婚している
わけだからねー。
そういう自分の生活とはかけ離れた場所で出会った人たちのことを
観察したりしているうちに前ほど自分の問題で頭を悩ます時間もなくなり、
以前より苦しみも軽減されているように思う。
自分を守る為に決めた選択は、間違いではなかったことが立証される形となった。
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