静寂ってのは、案外うるさいんだな。
宇宙には風もないし、声もない。だけど、真空を纏った闇は耐えず何かを囁く。
『もう終わりだ』と、何度も何度も。
…うるさいよ。俺はまだ、まだ終わってないんだぞ。
ロケットの壁に指を滑らせた。
金属の冷たさが、現実を教える唯一の導だ。
隣のカプセルには、最愛の人が眠っている。
無数の管がその身体を貫き、静脈のような光を流していた。
肌は透けるように白く、唇は氷のよう。
それでも、胸はわずかに上下している。
まだ、生きている。
…そう、まだ生きてるんだ。
だから俺は、この宇宙で君を目覚めさせる方法を探すよ。
どれだけの星を越えても、どれだけの時間を失っても。
俺が諦めたら、この世界は本当に終わるんだぞ。
窓の外では、地球の残骸がゆっくりと回っていた。
『地球は青かった。』
そう、青かったんだ。今はただ、煤のような灰色の星。
あれが俺たちの家だったなんて、もう信じられない。
それでも俺はまだ、君と朝食を食べた台所の匂いを覚えている。
まっくろなトーストに、香りだかい紅茶、不貞腐れた顔の君…
「ねぇ、イギリス…」
名を呼ぶ。応える声はない。
その代わりに、遠くで星が爆ぜた。
小さな光の粒子が、まるで涙のように窓を流れていく。
俺は、そのひとつを『奇跡』だと思い込むことにした。
そうでもしなきゃ、頭がおかしくなる…そうだろう?
……いったい、どれくらい経ったんだろう。
時計の針は止まって久しい。
船内に遺されたAIは沈黙し、酸素の循環音すら、今は幻に等しい。
俺は、ずっと彼に話しかけてる。
意識のない君に、昨日の夢を報告して。
味気ない食事も、『おはよう』の挨拶も、全部君のためのもの。
「ねぇ、君はまだ俺の声、聞こえてるかい?」
そう問いかける度、眠る君の胸が少しだけ上下するように見える。
それだけで、俺は今日も生き延びられる。
でもね…もう、限界なんだ。
星の光が、眩しすぎて痛い。
この宇宙はあまりに綺麗で、残酷だ。
どこまでも透明で、どこまでも冷たい。
きっと、君がいなくなったせいだ。
そのとき、
窓の外、暗闇の中に『光』が立っていた。
人の形をして、白く、静かで…
ーどこか、懐かしい。
俺は息を飲んだ。
「…イギリス?」
そう呼んだ瞬間、光はゆっくりとこちらを向いた。
その顔は、確かに彼だった。
でも、彼より少し穏やかで、少し冷たい。
その唇が、微笑んだ。
『ーどうして、泣いているんだ?』
音じゃなかった。
頭の中に直接、降りてくるような声。
思わず、笑ってしまった。
「あぁ、俺……俺、夢でもみてるんだな。
そうだろ?君が喋るわけないんだぞ。」
『夢でもいい。お前が望むなら、俺はなんにでもなってやる。』
その言葉が、胸の奥を締め付けた。
俺は、手を伸ばしていた。
触れられないはずのその光が、指先を包んで、ひどく優しく笑った。
『お前は、もうひとりじゃない。』
その瞬間、イギリスが眠るカプセルの新電波形が、一瞬だけ、僅かに跳ね上がった。
まるで、呼応するように。
君の寝顔を見ていると、時間の感覚がどんどん薄れていく。
夢と現実の境界が、まるで星屑のように、散っていく。
「ねぇ、今日はね、あそこの星…そう、不思議な形の。あそこが、崩壊したんだ。」
「君にぴったりだと思ったんだけどなぁ…」
イギリスのような姿をした『ソレ』は首をかしげて、目蓋を伏せた。
『こいつのことが、そんなに大事か?』
答えられなかった。
目の前にいる、『君に似た誰か』が、どうしようもなく俺の心を支配しているんだ。
『なぁに、もう心配することはない。
お前が失うものなんて、何一つないんだよ。
さぁ、ごらん。』
天使はそう言って、俺の手を取った。
宇宙服のグローブ越しに、温かいものが確かに伝わった気がした。
ハッチが音もなく開く。冷たい空気が頬を撫でる。
「……待って、イギリスがーー」
『…イギリス?
なぁ、お前を置いて眠りこけているやつは、今お前の目の前にいる俺よりも大事なのか?
俺を見つけてくれたのは、確かにお前なのに。
…な、俺の手をとってくれよ』
天使の瞳に、星々の光が反射していた。
あまりに綺麗で、怖いくらいで、俺は気づいたら頷いていた。
『行こう。ここは、お前の”夜明け”だ。』
ロケットの中に眠る君を置いて、俺は外に出た。
重力のない世界で、天使の…君の手に導かれながら漂う。
「……ねぇ、イギリス。見える?
俺、今、君といるんだぞ。」
笑ってみせたその眼から、涙がこぼれた。
君はそれを指で拭って、優しく口づけを落とす。
世界が白く、溶けていく。
身体の境界線も、意識を象る輪郭も、全部。
「アメリカ、起きろ…っ、!」
遠くで誰かが呼んでいる。
それでも、俺は天使の胸の中で。
「ようやく、眠れるんだ。」
目を覚ましたのは、夜明け前だった。
静まり返った部屋の中で、時計の秒針だけが微かな音をたてる。
ベッドの上には、横たわるお前と、温もりが移った毛布。
枕元には、開いたままのノート。
“I’ll find a way to wake you up.
Even if I have to go beyond the stars.”
ペンが途中で止まっている。インクは乾いていた。
机の上には古いロケット模型。
頭の部分が外れかけている。
「目覚めないのはどっちだよ、ばーか。」
アメリカの秘書から連絡を受け、あいつの家に向かったときにはもう遅かった。
こんこんと深い眠りについたお前は、一体どんな夢を見ているのだろう。
コーヒーの香り、読みかけの本。半分だけ開いたカーテン。
どれもあいつらしい、大雑把で、温かい気配。
手を伸ばして、ノートを抱きしめる。
そのとき、耳の奥で微かに声がした。
『……ねぇ、イギリス。見える?
俺、今、君といるんだぞ。』
「…アメリカ?」
声を返したが、案の定、返事はなかった。
時計の秒針が、いつもどおり時を刻んでいる。
再び開かれることのない目蓋にキスをした瞬間、窓の外に星が1つ流れた。
あまりに小さく、けれど、確かに青い光を放っていた。
しかしそれも、白く、まばゆい光に食われて消えてしまった。
朝は、すぐそこまで来ていた。
星の光は、もう痛く感じるものではなかった。
世界は白で満たされ、音も影も、それらを呼ぶ名前もなかった。
これまでにないくらいの穏やかな気持ちだ。
彼の髪はゆらめき、白い花が空から降ってくるよう。
「…ねぇ、イギリス」
呼ぶと、彼は微笑んだ。
「今日は、何をしようか? 」
『もう、怖くないのか?』
「何が怖いのさ。君がいれば、俺はもう、何も要らないや。」
ふと、違和感が落ちた。
手の形、笑い方、瞳の色。
「あれ……イギリスって……」
声が途切れた。
彼が再び微笑む。
「…いや、なんでもないや。」
白い光が全てを包んだ。
俺はまた、君の腕の中で、ゆっくりと目を閉じる。
柔らかな風が吹く。
何もかもが、最初からここにあったように静かだった。
星はもう、光らなかった。
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