テラーノベル
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中学の体育館に、バスケットボールのドリブルが響いていた。バスケ部の練習中、俺は黙々とボールを追っていたけれど、正直、集中しきれていなかった。視線の先には、いつもどこか怯えたような顔をしているくうがいる。ここ数週間、先輩たちのくうに対する態度が目に余った。パスをわざとくうにだけ回さない、シュートを外せば聞こえよがしにため息をつく、「使えねぇ」「邪魔」なんて陰口も日常茶飯事だ。
くうは、そんな嫌がらせにも必死で耐えているようだったが、その顔色は日に日に悪くなっていた。今日も、練習が始まってすぐから、くうの動きは鈍かった。顔は青ざめ、額にはうっすらと汗がにじんでいる。時折、胸元を押さえ、苦しそうにしているのが見て取れた。胃でも悪いのか、それとも別の理由か。俺には分からないが、とにかく様子がおかしかった。
練習は休憩に入ったが、くうは他の奴らと一緒にベンチに座ろうともせず、体育館の隅でうずくまっていた。顔は真っ白で、脂汗が光っている。俺はタオルで汗を拭くふりをして、そっとくうの隣に座った。
「くう、大丈夫か?」
声をかけると、くうの肩がびくりと震えた。俺の存在に気づいていなかったようだ。顔を上げたくうは、焦点の定まらない目で俺を見た。
「…っ、なんでも、ない…」
震える声でそう言ったけれど、その直後だった。くうは急に口元を押さえ、青ざめた顔で立ち上がった。明らかに、吐き気をこらえているのが見て取れた。
「うっ…!」
くうは足元がおぼつかないまま、体育館の隅にあるゴミ箱に駆け寄った。間に合わないかと思ったが、なんとか間に合った。そして、その場で激しく嘔吐した。
「…っ、ゲホッ、オェッ…!」
「うぇ…っ、ごほっ…!」
「うう…っ、うぇぇ…!」
「おえっ…、はぁ、はぁ…」
「ゲェッ…、ぐっ…」
「うっ…、ごぷっ…!」
「オェ…っ、はぁ…」
「うぇえ…っ、ゴホッ…!」
「ぐぇ…っ、はぁ…」
「うっぷ…、ごほっ…!」
十数回も吐き続けるくうの背中は、まるで小動物のように小さく震えていた。吐くたびに、全身が大きく波打ち、膝から力が抜けていくのがわかる。周りの部員たちは、ちらりと見るだけで、誰も近寄ろうとしない。そんな中で、俺はただくうのそばに立っていた。嘔吐が終わると、くうは力尽きたように膝から崩れ落ちた。
「うぅ…」
くうの口から、苦しそうな唸り声が漏れた。
「…っ、きもち、わるい…」
「ううう…」再び、小さな唸り声。
「…っ、ぐぅ…」三度目の唸り声は、ほとんど息のような、か細い音だった。
くうは体育館の床に丸まって、ぐったりとしている。その姿を見て、俺の胸に不思議な感情が湧き上がってきた。普段は強がって、決して弱みを見せないくうが、今は完全に無防備で、俺に全てを晒しているようだった。その小さく震える背中や、苦痛に歪んだ顔が、俺にはなぜかひどく可愛いと思えた。守ってやりたい、この苦しみから解放してやりたい。そんな衝動に駆られた。
俺は静かにくうのそばにしゃがみ込み、その背中に手を伸ばした。熱い体が、俺の掌にじんわりと伝わってくる。ゆっくりと、優しく、その背中をさすってやった。
「保健室行くぞ。立てるか?」
俺はくうを支え、ゆっくりと立ち上がらせた。くうは俺の肩に体重を預け、ずるずると引きずられるように保健室へと向かった。その細い腕が、俺の服をぎゅっと掴むのがわかった。
保健室にて
保健室のドアを開けると、中にいた保健室の先生が顔を上げた。
「あら、どうしたの?」
俺が「くうが吐いてしまって…」と説明すると、先生は眉をひそめた。
「また? 最近多いわね、体調不良の子。はいはい、そこに寝てて。熱測って。どうせたいしたことないんでしょ」
先生は面倒くさそうに体温計を差し出し、くうの顔をろくに見ようともしない。くうは言われるがままベッドに横になった。先生の冷たい態度に、俺は少し苛立ちを感じたが、口は挟まなかった。
体温計がピーッと鳴り、表示された数字は38.5℃。
「うーん、微熱ね。まあ、今日はもう帰りなさい」先生はあっさりと言い放った。
けれど、くうの苦しそうな様子は、熱だけが原因ではないことは明らかだった。嘔吐を繰り返したせいか、くうは今度は胃のあたりを押さえて身体を丸めている。
「…っ、お腹、痛い…」
くうが小さく呟くと、先生はちらりとこちらを見たものの、「安静にしていれば治るわよ」と、またしてもそっけない返事。そして、くうの全身からは、限界まで力を使い果たしたような、だるさと筋肉痛が滲み出ているのが傍目にも分かった。特に腹筋は、吐きすぎたせいで相当張っているだろう。
俺は何も言わず、くうの隣に座り、ただ静かにくうの背中をさすり続けた。くうは、俺の温かい手に、わずかながら安堵を覚えたように見えた。
保健室の静寂、そして
保健室のベッドで、くうは未だ身体を丸めていた。吐き気は収まったものの、腹痛はズキズキと続き、全身を襲うだるさと筋肉痛が、くうの体力をじわじわと奪っていく。先生は他の生徒の対応に追われており、ほとんど気に留めていない。俺だけが、くうの隣に座り、ただ静かにその背中をさすり続けていた。俺の手のひらから伝わる温もりが、冷え切ったくうの体にじんわりと染み渡るのがわかった。
「…蘭世…」
くうが掠れた声で呟いた。その顔はまだ青白いままだが、俺の目をしっかりと見ていた。
「…ありがとう…」
震える声で礼を言うと、くうの目から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。いじめの苦痛、体調不良の辛さ、そして誰にも理解されない孤独が、堰を切ったように溢れ出したのだろう。堪えきれずに、くうは嗚咽を漏らした。
俺は何も言わず、くうの震える肩を抱き寄せた。力強くも優しい腕の中に、くうは身を預ける。俺の制服の匂いが、心なしか安心させてくれるようだった。俺の胸に顔を埋め、くうはただひたすら涙を流し続けた。その背中を、ゆっくりと、一定のリズムでさすってやる。
しばらくして、くうの涙が落ち着いてきた頃、俺はそっとくうの身体を離した。くうの顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになっていたが、俺はそんな顔も気にせず、じっと見つめている。俺の指が、くうの頬を優しく撫で、涙の跡を拭った。
俺の視線が、くうの唇へとゆっくりと降りていく。体育館で嘔吐し、苦痛にうずくまるくうを見た時、「可愛い」と感じたあの感情が、今も俺の胸の中にある。それは、病弱な者を慈しむような、あるいは守ってやりたいと願うような、純粋で温かい感情だった。
俺の顔が、ゆっくりとくうに近づいていく。くうの心臓が、ドクドクと大きく脈打つのが、俺にも聞こえるようだった。くうは目をそらすことなく、俺の視線を受け止めている。拒絶の言葉も、動きもない。むしろ、その瞳には、俺を求めるような、微かな期待の色が浮かんでいるように見えた。
そして、俺の唇が、くうの唇にそっと触れた。
柔らかく、そして温かい感触が、俺の心に安堵をもたらした。それは、慰めであり、労わりであり、そして確かな優しさだった。くうは目を閉じ、そのキスを受け入れた。俺はそっと、もう一度、くうの背中を抱き寄せた。
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