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車の準備は出来ております。と、吉田は言って、一同を玄関へ誘った。
男爵夫妻は、さも当然のごとく、吉田を軽くあしらい、部屋から出ようとしていたが、月子は、びくびくしている。
人に使われる事が当たり前だった月子にとって、目上の吉田にかしずかれるのは、申し訳ないと、すくんでいたのだ。
あぁ、と、吉田が何か言いかけると同時に、
「月子」
と、母の声がする。
月子の、借り物ではあるが、晴着姿を見せようと、吉田が裏側にあるという別屋敷から呼び寄せたようだった。
下男に背おわれた母は、手持ちの寝巻きではなく、おそらく、岩崎家で用意された、着心地のよさそうな寝巻きの上から、上品な袢纏《はんてん》を羽織っている。
側には、落ち着いた感じの女中が立っていた。
「月子、とっても綺麗だよ。母さんが、何もしてあげられなくて……今まで、散々恥をかいてきたからね……今日は、恥ずかしくないよ。本当に、綺麗……」
そこまで言うと、母は、顔をくしゃくしゃにして、涙を流した。
「月子様。ご心配なく。お母様の事は、私どもで、ちゃんと、お世話いたしますから」
どうぞ、存分に──。
付き添っている女中が、一言。そして、ニタリと笑った。
おそらく……、これからの事を、言い含んでいるのだろうが、月子は、様付けで呼ばれた事に、戸惑った。
西条家へ出かける、という意味合いを、皆は、知っているようで、月子の支度を行った女中達も、芳子へ期待のような目を向けている。
ついでに、母まで、下男の背中から、ご面倒をおかけしますと、芳子へ詫びを入れていた。
当然、芳子は、鼻高々で任せておけとばかりに、ほほほ、と、高笑っている。
そんな、一丸となっている皆に、吉田が、淡々と、遅くなりますと、声をかけた。
「では、行くとするか」
男爵が、音頭をとった。並々ならぬ、やる気が溢れている中、岩崎だけが、落ち着いている。
「君……御母上とは、いつでも会える。別に、これが最後というわけでもない。そして、転院しても、見舞いに行けば良いのだから、安心しなさい。ここの者は、看病には慣れている。私の母が、病弱だったからね……」
月子に、気配りを見せているのだろうが、当の月子は、岩崎に言われて、母と暫く離れて暮らすことなるという事、転院の事を思い出した。
肝心な事を忘れてしまうほど、色々な事がありすぎた。
「申し訳ありません、私までご迷惑をおかけして……」
気まずそうに言う母に、月子も、はっとして、頭を下げる。
「いやいや、何を!妻の家族が病気なら、夫としては、放っておけない。そうだろう!京介!」
男爵の勢いに、岩崎も、うっかり、
「ええ、そうです」
などと、答え、すぐに、あっと声をあげた。
「もう!京介さんったら、あっ!て、何?!それに、なんで、いつも、そんなに声が大きいの?!」
皆、芳子の言葉に、クスクス笑い、岩崎を、ちらりと見た。
岩崎は、バツが悪そうにしながら、吉田へ、チェロを片付けるよう言いつける。
「そうだ、岩崎様!素晴らしいチェロの演奏をお聞かせくださいまして、ありがとうございました……」
来る途中、廊下へチェロの音が流れていたのだと母は言った。
「母さん?」
「うん、昔ね、旦那様に、活動写真を観に連れて行って頂いた事があってね……」
まさか、母の口から、チェロ、という言葉が出てくるとは思ってもいなかった月子は、呆然とした。
そして、そこで初めて、岩崎が演奏していた楽器は、大きなバイオリン、ではなく、チェロというものだと知った。確かに、演奏の準備だと、話しているとき、チェロ、という言葉が出てきていたような……。
余りにも、無知な自分に、月子は、うつむく。
そんな、月子の様子を、岩崎は、何も言わず見つめている。
「あらー!京介さん!やっと、月子さんの姿に気がついたのー!まあ、いいわ、見惚れてるんだから!」
芳子につられて、女中達は、ふふふと、笑っているが、男爵は、ふむふむと、何か考え込んでいる。
「芳子、いや、京介。案外、活動写真の楽団に入るのも良いかもしれんぞ?!住まいは、神田にあるわけだし。近場の劇場で雇ってもらうのも、いいんじゃないか?!」
「あら!まあ!じゃあ、京一さん!京介さんが、演奏する、活動写真を観に行きましょう!」
冗談だか本気だか分からない、男爵夫婦の会話に、
「あのですね、確かに、活動写真は、音がありませんから、弁士が台詞を話し、楽団が音楽を演奏しますけど……、私が専門とする交響楽団とは、微妙に異なるわけでして……」
岩崎は、興奮ぎみに語るが、吉田の催促を意味する咳払いに、男爵夫妻は反応し、急ごう、急ごうと、車が待つ、玄関へ向かって行った。
ちょっと、ちょっと、と、話は終わってないと、岩崎は、二人を追いかける。
そんな、慌ただしい様子の中、母が、月子へうなずいた。
月子も、うなずき返すと、吉田の手を借りて、少しだけ足を庇いながら、皆の後を追った。