一番、なにが大切なのだろう。暗い天井を見ながら考える。眠る前はいつも、煩悶している。どうしたら――いいのか。抜け出せない袋小路に迷い込んだようだ。苦しい。――悲しい。
夫とは、仲のよい恋人同士だった。それが、結婚して――子どもが生まれて。冷えた関係になって。円のこと……それか、夫の好きなエンタメの話しかしないようになって。前は、些細なことも相談しあえたのに。
この世で一番大切なのは円だ。可愛い円。髪を伸ばし、毎朝自分で縛り、お着替えも出来る。可憐で、聡明で明るい我が子。こんなにも暗いわたしの腹から生まれたとは思えないくらいに愛おしい我が子。この子のためなら、どんなことだって耐えられる。――衣食住、が大事だとは言われる。住む場所は、食器洗浄機も風呂の追い炊き機能もついた快適なマンション。こんな素晴らしいファシリティに恵まれてしまっては、今更ボロアパートなんか住めやしない。――円とてそれは同じだろう。
隣でママに寄り添って眠る我が子を見て考える。――やはり、離婚という選択肢はない。この子が望むなら、大学だって行かせてやりたい。好きな服も物も買ってやりたい。……となると、わたしの収入だけでは厳しい。
産後、夫の理不尽な仕打ちに我慢が出来ず、実家の近辺で信用金庫がないものか検索してみたが、皆無。離れたところに一店舗ある程度で、わたしは車の運転が出来ない。母と同じで、致命的に運転センスがないのだ。思えば、田舎に車は必須。かつ、給与が安い……。――その時点でわたしは実家に帰ることを諦めた。だが、母曰く、地元ではいまはシングルマザーが多いんだとか。クラスの三分の一の親がシングル……なんて話を聞く。分からなくもない。いや、分かりみが強すぎる。つまり――わたしは。
「引き続き、『耐える』のか……」
なにも知らずに眠る円。すべらかな頬にそっと手を添える。いまだ化粧水の味を知らないこの素肌は、ふっくらとしていて――あたたかかった。せめて、いまだけは安らかに。苦しみを知らないこの肌はどうかどうかこの先もずっとずっと幸せでありますように――と祈りながら目を閉じた。
* * *
「――じゃあ、出かけてくるから。なにか買ってくるものはある?」
コントローラーを握る夫は相変わらず画面から目線を譲らず、「いや。おれ、あとでドラッグストア行くからいい」
「分かった」
翌朝、日曜日。円は――なんと朝の七時十分にお友達がインターホンを鳴らし、元気に公園へと出掛けていった。まさかそんな時間に来るとは驚きなのだが――ともあれ、自宅は静かだ。存分に読書を堪能してから、ちょっと早めに自宅を出る。――夫は、美冬との交際をカミングアウトしてから、サッカー以外の用事では出掛けなくなった。バレるのを恐れてのことか――浮気を告白したいまとなっては失うものなんかなにもないというのに。馬鹿ね。おそらく前は――日曜にこっそり美冬と会っていたっぽいが。あんな男でも思慮や遠慮や分別があるのか。だってわたしの夫だもの。
さて。朝の十時。買い物をしなければならないが――くさくさした気分を晴らしたい。ショッピングセンターに立ち寄って、流行りの服を見てから、コーヒーショップへと向かった。子どもがいるとなかなかカフェなんか行けない。娘はいまでこそ友達と遊ぶようにはなったが、それまでずっとママママで。円をショッピングセンターに連れて行くのはわたしの仕事で、見るのは円の好きなものばっかで、わたしは自分の見たいものなんか一切見られなかったもの。というわけで――カフェ。
「……おお」
古本屋があるのは知っていた。なんと、ここは。絶版の書籍も売っている穴場の本屋なのだ。隣接するカフェがずっとずっと気になっていて、なかなか訪れる機会がなくって行けずじまい……だったのだ。古本屋はわたしがこの花見町に来てからあったが、カフェ自体は三年くらい前に出来た気がする。
ハンドドリップコーヒーを出す店は貴重だ。花見町内にハンドドリップコーヒーを出す店は二店舗のはずだが――わたしはここがずっとずっと気になっており――古本屋に隣接しており、自由に本を読める空気がありがたい。レジでブラックコーヒーを注文してみると、優雅な手つきで店員さんがコーヒーを淹れており、しばし、見惚れた。お会計の後は番号札を渡され、取りに行くシステムだが、結局見惚れたまま過ごしてしまった。――さて。
カウンター席に座り、古本屋で買ったばかりの本を読む。――この作家。一冊しか本を出していないのだ。素晴らしい恋愛小説を書くひとなのに――確かネット小説発で賞を受賞して、それで書籍化されたはずだが――こんなにも見事な伏線を張り巡らされた青春小説をわたしは他に知らない。――奥村冴子。みずみずしい感性に基づく研ぎ澄まされた描写が特徴的な、稀有な作家なのに――その後どうしているのだろう。埋もれるにはあまりに惜しい作家だ。
ブラックコーヒーのかぐわしい香りを嗅ぎ、静かな店内――BGMがピアノ曲なのもまた、良い。この手の店は客に媚びてかJPOPのオルゴール版なんかも流しがちだが――ショパンの曲なのもまた、いい。基本的にはおひとりさまの多い、静かに過ごせるカフェのようで居心地がよい。わたしはゆっくりと――不幸な現実から目を背け、作品の世界に没頭していたのだが。
「――その本、面白い?」
読書に集中していたわたしは、反応が遅れた。見れば――なかなかに爽やかな男が隣に座っていて、どうやらわたしに話しかけている。前髪にパーマをかけており、重めの前髪の下の垂れ目気味の目が、無邪気に光っている。
「面白い、です……」わたしは素直に答えた。しおりを挟むと本の表紙を見せ、「『瑞々しい青』。奥村冴子という作家の小説です。よくある女主人公が男の子ふたりのあいだで迷う……青春ものなのですが、そのこころの機微が見事に描かれていて。90年代のノスタルジーも感じるんですよね。おそらくこちらの作者はわたしと同世代だと思うんです。何故か顔出しはしておらず、そして調べた限りでは出したのはこの一冊……のみなんですが。ネットで小説を公開していたはずがいつの間にか消えていましたし……とにかく、埋もれるには惜しい作家です。絶版になっているのか、わたしは図書館で借りて読みましたが、ついさきほど隣の書店で見つけまして。もう、運命だと思って迷わず……買いました。とにかく素晴らしい作品です」
は、とわたしは気づいた。――わたし、喋りすぎじゃない?
わたしの熱弁に、男はぽかんと間抜けな表情をしていた。やがて――「くっ……」と笑いだす。
「あっはっはっ」
この静かなカフェに不似合いな、能天気とも言える笑い声だった。男は空気を察してか、数秒で笑いを口許に収め、
「いやあ……素晴らしい感想をありがとう」いまだ男の目は潤んでいる。彼は――頬杖をつくと、下からわたしの目を覗き込み、
「――おれが『奥村冴子』。『瑞々しい青』を書いた作者なの」
とんでもない発言をしてのけた。
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