🌈🕒 るむふぉ
 「ng」
 『sr』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 八月十五日。
もうとっくに日は沈んだというのに、辺りには蒸し暑い空気が漂っている。
マンションの階段を駆け上がる私の体からは、汗が止めどなく噴き出していた。
 『さよなら』
 たった4文字の彼からのLINE。
 それが何を意味しているのか、私はすぐに分かった。
 お盆の時期にもかかわらず事務所で仕事をしていた私は、帰り支度をしたあと急いで自宅のあるマンションに向かった。
 そして、マンションの屋上、フェンスの外側に、虚ろな目をした彼が立っているのを見つけた。
 飛び降り自殺を図ろうとする彼の姿を見つけたのは、実はこれでもう4回目だ。
 世の中には二種類の人間がいるという。
 生に対する欲動───「エロス」に支配される人間と、
死に対する欲動───「タナトス」に支配される人間。
 この世界の人間のほとんどは前者だが、彼は紛れもなく後者だった。
 彼が「タナトス」に支配される人間だということは、彼と付き合い始める前から知っていた。
 それもそのはず、私たちが出会ったのは、今のようにマンションの屋上で自殺を試みようとしている彼を、私が助けたのがきっかけだった。
 最近同じマンションに引っ越してきたという彼。
 スラッと伸びた身長に落ち着く声質。綺麗な顔立ちだが、どこか儚げな表情をしている彼は、一瞬で私の心を奪った。
 きっと一目惚れのようなものだったと思う。
 その時から彼とはいろいろな話をするようになり、すぐに仲良くなった。
 忙しい仕事に勤めながら独りきりで寂しく暮らしていた私にとって、彼はまるで天から舞い降りた天使のようだった。
 ひとつ、疑問に思うことがあった。
 彼は自殺を図ろうとする時、決まって私に連絡を入れる。
そして、私が来るまでその場で待っている。
 誰にも知らせずひとりで死んだほうが確実なのではないかと思うが、もしかしたら彼は、出会った時のように私に自殺を止めてほしい、助けてほしいと、心のどこかでそう思っているのではないかと、勝手に解釈していた。
 だから、私は今夜もこうやってマンションの階段を駆け上がる。
 「はぁっ、はぁっ·····」
 マンションの屋上にたどり着く。
 フェンスの向こうに立つ、彼の背中を見つけた。
 「待って·····!」
 フェンスを乗り越え、彼の手を取る。
 彼の手は、蒸し暑い空気に反して冷たかった。
 『はなして』
 鈴の音に似た、儚くて可愛らしい声。私は彼の声も好きだった。
 「なんで、そうやって、あなたは·····!!」
 『はやく、死にたいの』
 「どうして·····!」
 『死神さんが呼んでるから』
 彼には「死神」が見える。
 「タナトス」に支配される人間に稀に見られる症状なのだという。
 そして「死神」は、「タナトス」に支配されている人間にしか見ることができない。
 「死神なんていませんよっ···· 」
『なんで分かってくれないの·····!』
 私が死神を否定すると、彼は決まって泣き叫ぶ。
 死神は、それを見る物にとって一番魅力的に感じる姿をしているらしい。
いわば、理想の人の姿をしているのだ。
 彼は死神を見つめている時(私には虚空を見つめているようにしか見えないが)、まるで恋をしている女の子のような表情をした。
まるでそれに惚れているような。
 私は彼のその表情が嫌いだった。
 「死神なんて見てないで、私のことを見て」
 『嫌·······!』
 彼が私の手を振り払おうとしたので、思わず力強く握ってしまった。
 『痛い·····!』
 「!ごめんなさい·····」
 でも、あなたが悪いんじゃないか。私の手を振り払おうとするから。
私のことを見てくれないから。
 『死神さんはそんなことしないよ········!』
 私の心にどす黒いものが押し寄せてくる。
 「なんで····· 」
なんで、こんなにも私はあなたのことを愛しているのに、あなたは私だけを見てくれないのだろう。
死神に嫉妬するなんて、馬鹿げていると心のどこかでは思っていたが、もうそんなことはどうでもよかった。
『もう嫌なの』
私も嫌だよ
『もう疲れたの』
私も疲れた
『はやく死にたいの』
 「私も死にたいですよ···!!」
 その時、彼が顔を上げた。
 ニッコリと笑っていた。
 彼の笑顔を見た途端、急に心のどす黒いものが消える感覚がした。
 あれ、これってもしかして。
 『やっと·····気づいてくれた?』
 「あぁ·····やっと分かったよ」
 『ほんと······?よかったぁ』
 あぁ、そうか。
 君が自殺を図ろうとする度に私のことを呼んだのは、私に助けて貰いたかったからじゃない。
 あなたは、私を連れて行きたかったんだ。
 私にとっての「死神さん」は、彼だった。
 涼しい風が吹き抜ける。
いつの間にか蒸し暑さなど感じなくなっていた。
 『じゃあ、行こっか』
 「ああ、行きましょうか」
 手を繋いだあなたと私。
 この世が私たちにもたらす、焦燥から逃れるように、
夜空に向かって駆け出した。
 
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ありがとう