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【Пётр I Алексеевич】
17世紀におけるロシア帝国初代の皇帝
“ピョートル大帝”の名で有名
出生:1672年6月9日(ユリウス暦5月30日)
ロシア・ツァーリ国 -モスクワ
死去:1725年2月8日(ユリウス暦1月28日)
ロシア帝国 -サンクトペテルブルク
人物▼
身長203cmの大男で、ロシア国立歴史博物館には彼の大きな手形が展示されている。
生まれつき筋力が強く、銀の皿を捻って管のように巻き丸めることができるほどの怪力と言われている。その体格と筋力に加えて手先が器用だったことから船大工や花火師など様々な技術に優れており、「職人皇帝」と評されることもあったそう。
また、ツァーリ一行がプロイセン王国を訪れた際には、当時8歳だったバイロイト辺境伯夫人がピョートルについてこう綴った
「とても大きくわりに美男子だが、顔つきに荒々しいところがあり、恐ろしい感じがした」(回想録)
政治▼
露土戦争
→アゾフ占領に成功し、黒海進出に一歩近づく
1696年にクリミア・ハン国への貢納金停止が決定したことで、1238年のモンゴルによる侵攻以来、400年以上の時を経てやっと名実共に”タタールのくびき”を断ち切ることができた
反スウェーデン同盟の締結・大北方戦争
→スウェーデンからバルト海の覇権を奪取し、ロシアをヨーロッパの列強へと押し上げた
ただし国内政治においては、「民衆に対する重い課税」「正教会への徹底した管理と西欧化」など人々の願望に反した政策も多々行ったため、著しく評価の低い側面もある。
生涯・人格▼
ピョートル大帝はその生涯においてずっと精神的疾患を抱えていたとされており、度々発作を起こしていたという記述もある。
実際に彼の発作を目にしたという当時の駐ロシア・デンマーク大使は、発作の様子について次のように描写した
「彼の顔は目に見えて蒼白となり、歪み、醜悪になった。顔をしかめ、妙な動作をした。頭を回転させ、目玉をぐるぐるさせ、腕や肩を痙攣させた。このような発作は、彼が悪い知らせを聞いたり、強い怒りや動揺を感じたりしたときにしばしば起きた。」
その明確な原因は不明とされているものの、
“ピョートルが10歳の時にツァーリの近衛兵である銃兵たちが反乱を起こし、目の前で叔父など母親の親族を虐殺され、その中をじっと耐え凌いだ経験が彼に甚大な精神的被害を与えた”という説もある。
他、彼に関しては抜歯や息子への拷問などの残酷なエピソードが多く残っている。
1:抜歯
前述の通りピョートルは職人皇帝と評されるほど技術力が高く、その中でも自身が身につけている歯治療の技術から臣下のムシ歯を治療してやっていたという。しかし、実際はムシ歯でも健康な歯でも問わず、相手も誰彼かまわず手当たり次第に引き抜いていたそう。
その抜歯施術においても実際はほとんど力任せにペンチで抜き取っていたようで、皇帝の側近は皆抜歯を恐れて逃げ回っていたという話もある。
そのうえ引っこ抜いた歯をコレクションしていたらしく、彼の死後には臣下から抜いたと思われる歯でいっぱいに詰められた袋が発見された。
2:苛烈な処罰
彼の治世において1698年にストレリツィの蜂起(近衛兵による反乱)が起きた際には、蜂起鎮圧のために約1200〜2000人もの兵を公開処刑したという記録がある。
ただしその残虐性が謳われる理由はただその人数だけではなく、拷問や処刑の内容にも起因している。
⑴ピョートル皇帝自らの手で処刑を行う点
→イギリスなどの西欧でも拷問や処刑は一般的に行われていたが、皇帝自らが手を下すことは稀であった
また、ピョートルは公開処刑の見物に多々足を運んでいたという話や処刑の見物が趣味であったという話もある
⑵処刑したストレリツィ(反乱兵)の遺体を街中に吊り下げた
処刑はモスクワの赤の広場やその周辺で公開処刑として行われ、反乱兵たちの処刑後はその遺体をモスクワの街中に長期間吊り下げられた。赤の広場やクレムリンの城壁、モスクワの街道や橋などの人の目が多い場所で遺体を吊り下げ見せしめにしていたそうで、主に「ロープで柱や木にくくる」「頭部だけを切り離して木製の杭や槍に刺して展示」「手足など体の一部のみを展示」などの方法で死体を掲げていたとの記録がある。
吊り下げた遺体の数は文献によってまちまちであり不正確だが、当時オーストリア外交官としてロシアを訪れたヨハン・コルブは著書 “ロシア旅行記”にて次のように綴った。
「モスクワの門や広場は死体で埋め尽くされ、市民は恐怖で震えた」
「遺体の腐臭がモスクワの街を覆った」
また、コルブはピョートルの残虐性について野蛮と評していた。
他にもハノーファーやプロイセンからの使節団、オランダの商人も当時のモスクワの様子を日記や報告書などに綴っていたようで、「タワー・ヒルの晒し首(イングランド)」やフランスの処刑と比較してピョートルの異質さを語っている記録もある。
とあるオランダ商人は「モスクワが死体で埋め尽くされていた」「数十人程度の西欧も処刑とは比較にならない」と表現した。
3:息子アレクセイを拷問・処刑
ピョートル1世と彼の息子アレクセイは血の繋がった親子関係でありながら対立していた。
1716年・アレクセイは父ピョートルの命令を無視し、オーストリア(ハプスブルク帝国)に逃亡。ウィーンやナポリに潜伏していたが、1718年に大帝から国家を裏切ったと見なされロシアに連れ戻された。その後1718年6月になるとピョートルは息子アレクセイを反逆罪として裁くため “モスクワのクレムリン”や “サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞”で尋問を行った。
その際ピョートルは自ら尋問を監督して指示を出し殺すことを許可したうえでの拷問もさせたと記録が残っている。
主な拷問の概要としては、
・クヌート(先端に革や金属がついた鞭で体を繰り返し打つ。筋肉や骨に酷い損傷が残る。)
・ラック(車裂き。四肢を引き裂く装置による拷問で、脱臼や筋肉の裂傷を引き起こす。先述のストレリツィ蜂起のときにも行われた。)
・指の圧迫(爪の下に針を刺したり指を潰したりする)
など
そして1718年6月26日(ユリウス暦)、大帝の息子アレクセイは拷問が行われたペトロパヴロフスク要塞にて死亡した。
臣下への抜歯や息子の拷問、ストレリツィの蜂起における数百体、数千体もも腐敗した死体展示などの残虐なストーリーが多く残る一方で、一部の専門家からは人望が高い人物と評価されることもあるため、一概に冷酷な人物であるとは言えないのがピョートル1世である。
文書作成:淡もち雪だるま
参考文献:ヨハン・コロブロシア旅行記」/ニコライ・カムジン「ロシア国家史」/リンゼイ・ヒューズ「ピョートル大帝:伝記」
/ロバート・K・マッシー「ピョートル大帝」/wikipedia/その他chatGPTからの情報も引用
どっかの個人ブログとかSNSに溢れてるような記事を見てると「身長213cm」って書かれたりしてて正直「213cmなのか203cmなのかどっちやねん怒」って感じなんですけど、とりあえず203cmって書いてるものの方が多かったのでそっちを信用してみました。
てかどちらにせよデカすぎ
ロシア人って確かにデカいイメージあるけど、やっぱり昔は今と比べて平均身長も世界全体として低かったんじゃないんですか
日本でもそうですよね、江戸時代の記録とか見ると130~150cmくらいが当たり前だったり。
だから彼が生きてた17世紀~18世紀に2m超えとか
バケモノめ🙄そんな大男に無理矢理抜歯される臣下たちはどれだけ恐ろしかったことでしょうね
やっぱり当時の技術じゃ綺麗には抜けないから、ピョートルに歯引っこ抜かれた人は歯に膿ができちゃったりとか悲惨だったらしいです
あと追記ですが、ピョートルの存命時のロシアはグレゴリオ暦を採用してなくてユリウス暦の記録が多いので、ロシア史関連のSNS記事を読むときは気を付けてください(上から目線)
それはそうとしてストレリツィの蜂起やばちぃ
人殺しすぎだろ
西欧(イギリスとかフランスとか)でも処刑した遺体の見せしめはあったらしいんですけど、それでもやっぱり見せしめの期間は数日から一週間くらいに留まってたらしいので、腐敗してもなお数か月に渡って遺体晒してたのはアタオカです
そのうえロシアで信仰されている正教会では亡くなった者に対する冒涜をタブーとしていたので、反逆兵とはいえ故人の遺体を吊し上げて残虐に扱うというのは当時のロシア国民にとって凄まじい衝撃と恐怖だったんですって。
あと話は変わるけど大北方戦争でスウェーデン集中攻撃されすぎだろ
スウェカス、スウェカスとはいえスウェーデン。可哀想(それが可愛い)
話があっちらこっちらにとっ散らばって申し訳ないんですが、最後に一旦ピョートルの家族の話を添えておきます。
ピョートルには14歳年上の姉・ソフィアがいまして、個人的にはそのソフィアお姉様というのがなかなか不憫なお方だと思っております。
ピョートル1世とかいう弟が悪い
前述のストレリツィの蜂起が起きた時には、ピョートル1世から何の根拠もなく反乱者の首謀者だと認定されて、修道院に幽閉されちゃいましたからね。
あとシンプルに「太って醜くふしだら」って悪口叩かれてたの可哀想。
いや、んま、まぁ太ってるけどさ、肖像画とかでも太ってるけどさ、そんな見た目を叩いちゃだめだよ。
「容姿に関して言及して良いのは、10秒以内に変えられるところだけ」ってよく言うでしょ(怒)
ちなみロシア最強の女帝と呼ばれているエカチェリーナ2世からは
「ソフィアには正当な評価があたえられていないと思う。ソフィアは誰もがうらやむような英知をもって、長年にわたりわが帝国の国政をになってきたというのに」
と評されていたようです。
他にも、ロシア帝国の皇帝の座に女性が多く着いた歴史の礎となったのがソフィアであるとも評されていますね。
ではおわり
コメント
4件
勉強になります🙇 新大陸の文明で起きるエグい事件なら「まあそういう事もあるかぁ...」と、アジアやヨーロッパ、中東で起きるなら「もうちょっと何とかなったでしょ」と思えますが、ロシアで起こるものはその残虐性も相まってとても不気味です。こう...体が拒絶するタイプ
ありがとうございます!また一つ賢くなってしまった!先輩のおかげで!