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ご提示いただいた小説を、本文の削除や改変を行わず、おおむね1,500字程度でキリの良い場面や展開ごとに4つのパート(各パート約1,300〜1,700字程度)に分割いたしました。
以下のように区切っております。
『桜前線の終着駅で、私は煩悩を取り戻す』 第一部(約1,500字)
「黒川さん、お疲れ様です」
午後三時。エレベーターの扉が開く直前、後ろから声をかけられた。
振り返ると、営業部の佐伯くんが立っていた。ネクタイを少し緩めて、疲れたような笑顔を浮かべている。狭い密室に、清潔な柔軟剤の匂いと、微かなムスクの香りが混ざる。
「あの、もしよかったら、この後、千鳥ヶ淵まで行きませんか? ちょうど満開だって聞いたので。二人で、ゆっくり見たいんです」
「えっ、あ、はい。ぜひ」
頬が熱くなる。人混みの中、はぐれないようにって、彼が私のコートの袖を、壊れ物を扱うみたいに控えめに掴む。夜風は冷たいけれど、触れ合った場所から体温が伝わってくる。街灯に照らされた彼の長い睫毛が、ゆっくりと近づいてきて――。
「……黒川美月さん!」
ひび割れた現実の声が、甘い夢を無残に切り裂いた。
顔を上げると、眉間に深いシワを刻んだ課長が、爬虫類みたいな冷たい視線で私を見下ろしていた。
「数字、一時間前から一件も進んでないじゃないか? 桜に見惚れるのは勝手だが、会社は君の白昼夢に給料を払ってるわけじゃない。二十八にもなって、学生みたいな浮ついた真似はよしたまえ」
「すみません! すぐやります!」
慌ててキーボードを叩く。だけど、震える指が打ち込んでいたのは、売上個数ではなく、意味をなさない「1」の羅列だった。
最低だ。心の中で自分を罵る。
オフィスを支配しているのは、働く人間の生気を少しずつ削り取っていく蛍光灯の青白い光と、天井のエアコンが吐き出す低い唸り声だけだった。デスクに積み上がった終わりのない売上データ。私はその数字の海を漂い、帰るべき港を見失った難破船も同然だった。
ふと、視線を上げる。二十階の窓の外には、残酷なほどの「春」が押し寄せていた。東京の街を埋め尽くすソメイヨシノ。風が吹くたび、数えきれない薄桃色が宙を舞い、重力という呪縛から解き放たれたみたいに自由を謳歌している。
ここでは「感情」はノイズで、「夢」は効率を落とすだけの不純物だった。現実の私は、数字と溜息と「正論」ばかりを積み上げる墓場の住人だ。私をどこか別の場所へ連れて行ってくれる熱量なんて、もう一滴も残っていない。
その日の帰り道、私は逃げるようにオフィスを飛び出した。駅へ向かう人波を避け、近所の古い公園を横切ったとき、彼に出会った。
街灯の下、今にも折れそうなほど老いた桜の傍らで、身の丈ほどもある巨大なバックパックを背負ったまま、跪いている青年がいた。白いマウンテンパーカーの肩には、無数の桜の花びらが、行き場を失った雪みたいに分厚く積もっている。
「……大丈夫ですか?」
声をかけると、彼はスローモーションみたいにゆっくりと顔を上げた。驚くほど整っているのに、血の通っていない石膏像のような無機質な顔。その瞳は、光を反射しない黒真珠のように、深い静寂を湛えていた。
「重いのです。この季節は、特に。空気が膨らみすぎて、私の背中を折ろうとする」
彼の声は、耳というより、脳の奥底にある古びた鐘を鳴らすような、奇妙な響きを持っていた。
「桜前線が北上するたび、至る所で『期待』という名の毒が蔓延します。春になれば恋ができる。春になれば人生が変わる。新しい自分、輝く未来。根拠も実体もない煩悩だけが増え続ける。それらはすべて、私のバッグに流れ込んでくる。私はそれらを回収し、北へと運ぶ。それが私の役目です」
「煩悩? あなた、一体何を……」
「私は、あてのない夢に溺れ、死にかけている魂を救う者。煩悩菩薩、と言えばわかりますか?サキと名乗っています。黒川さん、あなたがさっき仕事中に抱いていた『佐伯くん』との甘い残像。それから、先週買った宝くじが当たって南の島で過ごすあの空虚な妄想も、ここに仕舞ってあげましょうか」
彼は背負っている岩塊みたいなバックパックを指さした。私は凍りついた。なぜこの人が、私の脳内の最もプライベートな領域を知っているのか。
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