テラーノベル
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「それを取り除けば、あなたは『今』という瞬間を、何にも邪魔されずに生きることができる。明日の不安も、昨日の後悔も、届かない恋の痛みも……。すべてを消し去れば、苦しみのない、透明な現実へと辿り着ける。楽になれますよ、黒川さん」
サキが私の額に、細く長い指で触れた。ひやりとした、永久凍土みたいな冷たさが脳を貫く。次の瞬間、脳裏にこびりついていた佐伯くんの柔らかな笑顔も、ライトアップされた夜景の色彩も、すべてが巨大な掃除機で吸い取られるみたいに消え去った。
「あ……」
視界が晴れる。いや、正確には「世界の彩度が落ちた」のだ。頭の中は、何一つ落書きのない、新品の真っ白なキャンバスになった。驚くほど静かで、驚くほど、何もなかった。
サキは満足そうに微笑み、再びその巨大な重荷を背負って、北の夜闇へと消えていった。
翌日からの私は、精密に調整された機械そのものだった。仕事の手は一切止まらない。余計な雑念が湧かないため、集中力は限界を超えて研ぎ澄まされていた。
佐伯くんがコピー機の前で、後輩の女子社員と楽しげに談笑していても、私の心拍数は一度も乱れない。以前なら「誰と話してるの?」と一時間は悶々としていたはずなのに、今は「同僚が発声による情報交換を行っている」という物理現象が、淡々と網膜に記録されるだけだ。
「黒川さん、最近すごいじゃないか。ミスもないし、スピードも倍以上だ」
あの「ヘビ」課長からも絶賛された。
「見違えたよ。君は無駄を削ぎ落とした、我が社にとって最高の戦力になった」
「ありがとうございます。業務を遂行しているだけです」
口から出たのは、自分の声とは思えないほど冷淡な響きだった。けれど、何かが致命的に、根本から狂っていた。
昼休みに食べるコンビニの鮭弁当。かつては唯一の楽しみだったその食事が、今は砂を噛んでいるような味がした。塩分、タンパク質、炭水化物。単なる栄養素の摂取。それ以上の意味を、私の舌は感知しない。帰り道、あんなに綺麗だと思っていた夜桜を見上げても、「バラ科サクラ属の植物が特定の波長を反射している物体」としか認識できなかった。
私の世界から、「彩り」と「熱」が完全に消失していた。煩悩という不純物を取り除いた結果、残ったのは「純粋で空っぽな現実」という名の広大な虚無だった。
一週間が過ぎた頃、私は鏡を見て驚愕した。そこに映っていたのは、二十八歳の女性ではなく、ただ「機能するだけの死体」だった。瞳から光は消え、表情筋は完全に死に絶えている。
気づけば、私はスマホで「桜前線」の現在地を狂ったように検索していた。サキは言っていた。「前線とともに北上する」と。
自分が一体何を失ったのか、ようやく理解できた。私は、自分を明日へと突き動かす「嘘」を、生きるための「燃料」を奪われたのだ。たとえそれが叶わない夢だとしても、それこそが私の生命維持装置だった。
土曜日、私は無意識のうちに始発の新幹線に飛び乗っていた。向かったのは、宮城県大河原町の白石川堤一目千本桜。残雪を抱いた蔵王連峰を背景にして、狂ったように咲き誇る桜のトンネルがあった。空はどこまでも青く、山は白く、花は一面の桃色だ。
人混みの中に、あの白いマウンテンパーカーを見つけるのは難しくなかった。サキの背負うバックパックは、東京で見た時よりも三回りは大きくなっていて、もはや小さな軽自動車くらいの質量に見えた。彼は地面に足が数センチめり込むような、異様に苦しげな足取りで堤防を歩いていた。不思議なことに、周囲の観光客はその異常な大きさに気づいていない。煩悩を捨てたいと願わない者、あるいは煩悩が見えない者には、その重さもまた見えないのだ。
「サキさん!」
人混みをかき分け、彼を呼び止めた。サキは振り返った。その顔は以前よりも透き通っていて、もはやこの世の物質ではないような危うさを帯びていた。
「……黒川さん。せっかく完全な静寂を与えたのに。あんなに軽やかだったあなたの足で、なぜ、わざわざ不快な重力を求めて追ってきたのですか」
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