テラーノベル
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気づいたとき、私は畳の上に座っていた。
…見慣れない。けれど、どこか懐かしい匂いがする。沈香と、墨と、少しだけ潮の匂い。
障子は閉じ切られていて、外の気配は一切ない。昼か夜かも分からない。
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「……これは、どういうことでしょうか」
独り言のつもりだった。しかし、その声に応じるように、低く落ち着いた声が返ってくる。
「俺が聞きたいくらいだ」
反射的に顔を上げて、息を詰めた。
そこにいたのは――宋国だった。
背筋の伸びた立ち姿。紅き衣が印象的だった。
大陸の者特有の、揺るぎない重さを纏っている。
「……宋、さん」
自然と敬語になる。
距離を取らなければならない相手だ。私はいつも、そうしてきた。かつての唐朝であれ、時代が変わった今でも…
「そう身構えるな。俺だって状況が飲み込めていない」
彼は部屋を見回し、眉をわずかに寄せた。
「扉がないな。窓もない。……閉じ込められている、ということだな」
「閉じ込められている……?」
言葉を復唱する。
胸の奥が、ひやりと冷える。
私は周囲の情勢に疎い。だからだろうか、こうした異変が何を意味するのか、うまく掴めない。
そのとき、どこからともなく、1枚の紙切れが頭上から降ってきた。
『接吻をしなければ出られない部屋』
「…………」
沈黙。
私は一瞬、意味を理解できず、ただ瞬きを繰り返した。
「……何と書いてある。俺はその細い文字は読めない。代わりに読んでくれ。」
「え~っと……いや…」
宋は煮え切らない返事に少し顔を顰める。
「そんなに人に言えない内容なのか?」
「……せ、接吻をしなければ出られないと。」
思わず漏れた声に、宋が小さく笑った。
「冗談にしては悪質だな」
「ええ、まあ……」
胸の奥がざわつく。
接吻……
そんなもの、物語の中でしか聞いたことがない。
「君は、俺からの書簡には何一つ返事もしないくせに、こういう状況には律儀に付き合うのだな」
皮肉めいた口調。
「……それに関しては、すみません。ですが、私は……」
言葉に詰まった。
正直に言えば、関わりたくなかったのだ。北の脅威も、大陸の政治も、すべて海の向こうの話であってほしかった。
「巻き込まれるのが、怖くて…」
宋は一瞬、目を細めた。
「逃げている、とは思わないのか?」
「……思います」
即答だった。
「ですが、それでも。私は、私自身を守ることで精一杯なんです。あまり人に構っている余裕はなくて。」
彼はしばらく黙り込んだ後、ふっと息を吐いた。
「君らしいな」
「それは、褒め言葉でしょうか」
「半分はな」
そう言って、彼は私の方へ一歩近づいた。
距離が縮まるだけで、胸がうるさくなる。
「安心しろ。俺は君を征服しに来たわけじゃない」
「…分かっています。」
「なら、なぜそんなに怯える?」
答えられなかった。
自分でも、よく分からないからだ。
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少しばかりの沈黙。
「なあ。」
宋が、少しだけ声を低くした。
「これは、夢だろう」
「……え?」
「俺か、君の。」
鼓動が煩わしい。
「な、なぜ……」
「君はいつも、現実から目を背けている。そうだろう?だが、夢の中なら向き合ってみたくなるものだ。」
図星だった。
「それに」
彼は私の目を、まっすぐに見つめる。艶めいた黒の髪。私に向ける眼差しはまるで今にも燃えだしそうな様子で。
「君は、俺に興味がないふりをしているが、完全に無関心なら、こんな夢は見ない」
言葉が、胸に刺さる。
「……そう、でしょうか。」
「ああ」
ずば、と言い切った。私は視線を落とし、袖を握りしめる。
「……では、もし。これが夢だとしたら」
「…お前ならどうする。」
「覚めたら、何も残りません」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……少しだけ、失礼してもよろしいでしょうか」
宋は目を見開き、次いで、静かに笑った。
「君から言い出すとはな」
「夢なので。」
言い訳のように言って、私は一歩踏み出す。
彼の頬にそっと触れる。
唇ではない。
……それは、私なりの精一杯の逃げ道だ。
「……こういうところが、君らしい」
彼がそう言ったのを聞いて、少し笑った。
私は確かに、この手で彼に触れた。
一瞬だけ、そこにあった温度を手に留めたまま、ふらりと意識が混濁する。
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目を覚ますと、そこはいつもの屋敷だった。
静かな朝だ。遠くに見える庭の木々が、何事もなかったかのように揺れている。
「……夢、ですか」
頬に手を当てる。
そこには何も残っていない。
しかし、なぜか海の向こうを思い出して少しだけ、胸が締め付けられた。
「……まあ、少しくらい返事くらいは。」
誰にともなく呟いて、私は文机へ向かった。
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【いつものあとがき】
2作目です。
ちなみに二国は基本的に会わないです。遣唐使船が複数で向かうように、宋代は唐代より後悔技術が上がったにせよ当時の日本海は危険な存在だったので。故によく分からない部屋に閉じ込める羽目になったのですが……。ちなみにキスしないと出られない部屋は友人のリクエストです。リクエストをくれた友人には感謝しています。
中国王朝×日本だったら皆さんどこが好きなんですかね…気になります。
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