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「⋯⋯おい、時也。
呑気に話してる場合じゃねぇぜ?」
ソーレンの声が低く、短く
空気を切るように響いた。
その瞬間、時也の睫毛が静かに震える。
紫煙の先を見つめていた瞳が
するりと冷ややかに細められた。
指先で燻らせていた煙草は
無言で灰皿に押し付けられ
ジュっと短く音を立てて消える。
「⋯⋯熟考し過ぎました。
ありがとうございます」
声音は変わらず丁寧だった。
しかしその奥に潜むものは
もはや喫茶の店主のものではなかった。
穏やかで柔和な仮面が剥がれ
音もなく〝修羅〟の顔が浮上する。
研ぎ澄まされた刀身のような空気が
彼の輪郭を静かに縁取っていく。
風が止んだ。
鳥の囀りも消え
木の葉がひとつ風も無く地に落ちる音すら
耳に障るほどだった。
まるで、世界が呼吸を潜めたかのような静寂。
──囲まれている。
声も気配も無い。
だが、時也とソーレンの神経は確かに
〝それ〟を感じ取っていた。
空気の密度。
風の流れ。
地の反響。
目に映るよりも先に、身体が先に反応する。
空間の縁に
目に見えぬ包囲網が広がっていた。
「⋯⋯随分と、手慣れてやがるな」
ソーレンが煙草を足で踏み潰し
僅かに肩を回す。
その声の裏には緊張と
そしてわずかな愉悦が混じっていた。
戦士としての本能が
目の前の〝敵〟の格を測っている。
枯れ枝を踏み抜く音もさせず
視界の端に〝それ〟が映ったのは
それから数秒後だった。
黒と灰を基調にした戦術装備。
全身を覆う軽量アーマーの上には
温度変化に強い迷彩クロークがかけられ
顔には金属製のバイザー付きヘルメット。
その目元からは
青いデータリンクのラインが点滅している。
銃は
構えの崩れないカスタムカービンライフル。
サプレッサー装着済み
スコープとサイドレーザーサイトを併用し
至近距離にも遠距離にも
即応できる構えをしていた。
その銃口の向きには〝躊躇〟すら
感じられない。
腰にはタクティカルナイフ。
脇には電磁警棒とスタンユニット。
すべての動きは洗練され
呼吸ひとつ無駄がなかった。
一人一人が単独で数人を制圧できる──
そういう〝本物〟の気配。
命のやり取りを生業とし
数え切れぬ死線を潜ってきたものにしか
纏えぬ〝臭気〟
──完全に訓練された部隊。
「⋯⋯面白ぇな。これ、完全にプロだ」
ソーレンは小さく口角を上げながらも
背をわずかに下げて重心を落とす。
その姿はいつもの無骨な青年では無い。
誰よりも速く
誰よりも重く敵を叩き潰す
喫茶 桜の〝番犬〟としての顔だった。
「こりゃあ
ただの脅しじゃ済まねぇかもな⋯⋯」
「ええ、応戦は避けられませんね」
時也もまた
衣の擦れる音すら殺すように
淡々とした動きで足の幅を変え
懐に指を伸ばし──
護札を数枚、指先に挟んだ。
反射する陽光に
護符に記された式は活性化の気配を帯びて
鋭く輝く。
風が再び吹き始めた時──
既に、空気は血と硝煙の予兆を孕んでいた。
身構える二人の前に
やがて一人の男が歩み出る。
「我々はフリューゲル・スナイダー⋯⋯」
他者とは違う
〝指揮系統〟の重みを背負った身のこなし。
「貴様らの手に渡った我らの頭領──
あの御方を返していただこう」
その声は、鉄を擦ったように低く、硬い。
感情の揺れすら抑えたその声には
組織の〝意志〟としての冷酷さが
滲んでいた。
対して、時也は護符を握ったまま
ゆっくりと目を細める。
「⋯⋯その方は、志も半ばに
〝燃え尽きられました〟⋯⋯。
どうか、お引取りを」
一拍の間があった。
それは
怒りの引き金を引くまでの
ほんの刹那の静寂。
そして──
「巫山戯るなっっ!!」
怒号が乾いた空気を裂いた。
男の体から吹き上がる殺気。
声に込められた激情は
訓練された兵の粋すら超えた
熱を孕んでいた。
「あの御方が⋯⋯
易々と貴様らに屠られる訳が無い!」
その言葉が、静寂に火を点けた。
風が唸り、葉が舞い上がる。
次の瞬間には
銃口の先端が閃光を孕んでいた。
⸻
瞬間──
時也とソーレンの間を
白い影が疾風の如くすり抜けた。
──ティアナ。
風圧と共に柔らかな毛並みが閃き
微かに発光しながら
ティアナの身体が結界の展開を始めた
刹那――
空から落ちるように
黒い影が突如として現れる。
その気配は
空間を断ち割るような鋭さだった。
「──にゃ!」
ティアナの首根っこを
ぴたりと鋭く掴んだその手が
ひと振りで彼女の身体を
地面すれすれまで振り下ろす。
そして
彼女が飛び出してきた
リビングに通じる小窓へ向けて
躊躇いもなく投げ入れられた。
白い毛玉の影が、ふわりと舞い
次の瞬間には窓に
吸い込まれるように消える。
「やはり、生きて──」
その言葉を言い切る前だった。
パチン、と
乾いた音が昼の陽光の中に響いた。
指揮官の男の言葉が途切れた瞬間
その指を鳴らしたのは
黒い髪をひとつに束ねた青年。
──アライン・ゼーリヒカイト。
昼下がりの庭先、風も止まぬ穏やかな時刻。
しかしその場にいた誰もが
まるで
映像の一時停止でもかけられたかのように
動きを止めた。
身体だけでなく、瞳の焦点さえも
その場で凍り付いたかのように。
時也も、ソーレンも、指揮官も、兵士達も
皆、表情ごと封じられている。
アラインだけが
ゆっくりと庭に降り立った。
月の無い夜にしか似合わないような
黒を基調とした服装。
それはソーレンが
〝おとなしめ〟と言って
着せたもののはずだったが
丈の合わぬシャツの裾や
ゆるく翻るパンツの裾が
かえって彼の身体の線を
曖昧に浮かび上がらせていた。
本来ならば
無骨で男らしい印象を与えるはずの衣が
彼の手にかかると
どこか異様な色香を孕んでしまう。
それは
気品と違和感が背中合わせに混在する
妖艶な存在のなせる業。
「⋯⋯ふふ。
危ない、危ない。
ここまで律儀に、忠誠心たっぷりで
お迎えに来てくれるとはね?
ああ⋯⋯
ボクがそう〝仕込んで〟たんだったね」
ひとり静かに頷くように微笑み
言葉を重ねていく。
「でもね?
キミ達のボスは〝死んだ〟ってことに
しておいてもらわないと⋯⋯
ボクが困るんだよね?」
そう言いながら
アラインは一歩、指揮官に近付いていく。
だが、誰ひとり動かない。
時也も、ソーレンも、
時の流れを忘れたかのように沈黙していた。
彼だけが
そこに〝在る〟異物のように、軽やかに。
「⋯⋯しかしまぁ、これ」
ふと、彼は自らの袖を少し引いて眺める。
「ソーレンの〝おとなしめ〟の服って
言ってたけど⋯⋯
こんなの着てておとなしいって
言える奴の感性⋯⋯正気かねぇ?」
くつくつと喉の奥で笑いながら
もう一度、指先を鳴らす。
パチン──
それと同時に
無音のまま⋯⋯
武装した集団が膝から崩れ落ちた。
まるで脚に力が入らなくなったかのように
誰ひとり声もなく。
銃も、刃も、構えたままに
ただ静かに力を失っていく。
「⋯⋯チッ!俺の出番、ねぇじゃねぇか」
ソーレンが
肩を軽く回しながら舌打ちを漏らした。
「さすが、アラインさんですね?
一瞬で制圧されてしまうとは⋯⋯」
時也もまた、落ち着いた声で言う。
だが、その声音には微かな警戒と
計りかねる相手への距離感が混じっていた。
「二人の話の邪魔しちゃ悪いかなって
静かに回り込んで正解だったよ。
見事にボクには気付いてなかったからね」
アラインは、楽しげに首を傾げてみせた。
「⋯⋯でも、貴方が
〝殺さず〟に鎮圧だなんて⋯⋯
何を企んでおいでなのですか?」
時也の問いに
アラインはくるりと指先を遊ばせながら
微笑んだまま目を伏せる。
「⋯⋯ふふ。
やっぱり、キミの読心術には敵わないね?
全部、透けて見えてる気がして⋯⋯
気持ち悪いくらいだよ、時也」
日差しが照らす庭先で
ひとりだけ温度を持たない異物のように──
アラインは、凍てついた世界の中心で
ただ笑っていた。