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「ごめんな、チヒロ」
いつも快活に笑い、冗談を言う時の楽しそうな顔。刀を作る時の静かで、真剣な表情。だがその時父が浮かべていた表情は、今まで千鉱が見てきたどれでもなかった。何かを堪えるような苦しそうな表情は、父には似合わないと思った。そんな顔をしてほしくなくて、千鉱の口からは自然とその言葉が溢れていた。
「いいよ・・・、父さん」
六平が握っていた一本の刀が淡く輝き、輪郭が溶けていく。金色の粒子となったそれは宙に舞い上がり、目の前の千鉱の体へと入り込んだ。
契約は成された。この日、六平と千鉱の間には血の繋がりとは別の縁が結ばれた。
刀匠、六平国重。戦後もその名が広く知れ渡っているのは、間違いなく妖刀の存在が大きい。彼が生み出した妖刀はその特有の能力で瞬く間に戦況をひっくり返し、戦争を勝利へと導いた。それらを作り出すための特殊な加工法が六平にしか扱えないという事実も、一層妖刀の付加価値を釣り上げている。
世に知られている六本の妖刀。しかし、もう一本──秘匿された七本目の妖刀が存在していた。
六平と千鉱が暮らすこの場所は、結界によって厳重に隠され世間から隔絶されていた。外からの情報は入って来なくても、刀匠の修行を積みながら少し騒がしい父と過ごす毎日。時折訪れる父の友人二人も何かと気にかけてくれる。千鉱にとっては十分満たされていて、色付いた世界だった。
そんな日常の中に、いつの間にか入り込んできた習慣。
「チヒロ」
六平に呼ばれた千鉱は、静かに父の前に立つ。槌を握る大きな手が、千鉱の体へ翳される。千鉱はゆっくりと目を閉ざし、自我を深く沈めるように内側へと意識を集中させた。
千鉱の身体──正確には、鎖骨の下辺りに刻まれた小さな傷のようなものが淡く発光する。それは刀の切先で薄く刻まれたかのように、縦に小さく伸びる痕だった。徐々に光の強さが増し、痕が大きく裂けていく。その空洞にも見える裂け目から、無数の金色の光の帯が宙へ走り出した。立っていた千鉱の身体がぐらりと揺れ、後ろへ倒れそうになったのを六平の片腕が支える。力が抜け、全身を六平に委ねたままになっている千鉱の様子に苦しげな表情をしながら、徐にもう片方の腕が裂け目へと伸びた。そのままゆっくりと、指先が裂け目へと沈んでいく。
力の入っていない千鉱の指先がぴくりと動くも、それ以上の反応はない。千鉱の表情はまるで眠っているかのようで、この異様な光景が二人だけの静謐な儀式のように感じられた。
肘の辺りまで沈んでいた六平の腕が、何かを引き出すように上がっていく。裂け目から姿を現したのは一本の刀──七本目の妖刀、淵天だった。淵天の鞘が完全に千鉱の身体から出ると同時に、光の帯が収束し裂け目へと戻っていく。金色に輝いていた裂け目も色を失い、元の大きさへと縮小していった。
「チヒロ、チヒロ…大丈夫か」
「……ん」
淵天を床に置き、膝を付いた六平が両腕でしっかりと千鉱を抱え直す。心配そうな顔で覗き込んだ六平の呼び掛けに、千鉱はゆっくりと目を開いた。
「父さん」
父の顔を視界に入れた千鉱は、安心させるように薄く微笑む。小さな手でそっと顔に触れると、六平もほっとしたように表情を和らげた。
唯一戦後に作られた淵天は、他六本とは異なる方向性の力を持つ。それ故に作られた当時は力が安定せず、玄力が漏れ出し抜き身のような状態だったという。何とか策を練ろうとしていた六平を尻目に、淵天自身が千鉱を選び、自らの元へ招き入れた。異変に気づいた六平が向かった時には既に遅く、千鉱と淵天の同化が始まっていた。
千鉱は淵天にとって鞘のような存在であるらしく、皮肉なことに千鉱の身体に淵天が納まっている今の状態が、最も安定していた。妖刀と人間の融合という前例のない事態に、ましてや愛する息子を犠牲にしてしまったことに、六平は酷く悔い、己の無力さを嘆いた。妖刀は本来所有者となる者と命滅契約を結ぶ。所有者以外が妖刀を使えぬよう六平が作刀時施した制限機構だった。千鉱は淵天と深く結び付いてしまったが、厳密には淵天の所有者ではない。淵天と同等の存在となった今、千鉱の意思がなければ淵天を顕現することはできないだろう。しかし、もしも千鉱の存在が知られてしまった場合、間違いなく千鉱自身を巡る争いに巻き込まれることになる。巻き込んでしまった責任と何よりも千鉱を守るため、六平は淵天──千鉱と命滅契約を結んだ。
淵天の状態も確認すべくこうして定期的に千鉱から取り出しているが、相性が良かったのか双方に拒絶反応や異常は見られない。千鉱の身体にできた小さな痕も、あの日契約を結んだ後からできた証のようなものだった。
「チヒロ、本当に大丈夫か?何か少しでも違和感あったらすぐ言うんだぞ」
「大丈夫だよ父さん、心配しすぎ」
淵天の状態を確認する時、父はいつも申し訳なさそうな、苦しそうな表情をする。そんな顔は好きじゃなくて、大丈夫だと伝えても六平の顔はあまり晴れない。千鉱にとって淵天との同化は決して望んだものではなかったが、別に不快な気持ちやこの状況を嫌だと思ったことは一度もなかった。目を閉じて意識を奥底に集中すると、淵天の存在を感じることができる。どこか温かくて穏やかな気持ちになれる。父の作った刀を間近に感じられるから安心できるのだと思っていた。
「淵天とも多分仲良くできてるし。それに、父さんが守ってくれるんでしょ?」
その言葉に一瞬目を見開き、六平はようやくいつものように笑った。
「ああ。…ありがとな、チヒロ」
六平の大きな掌が千鉱の頭を優しく撫でる。そのままそっと千鉱を抱き寄せた。二人しか知らない秘密。穏やかで、たまに騒がしいくらいの日常でいい。六平の腕の中で、恐らく世界で一番安心できる場所で、千鉱は緩く微笑みながら目を閉じた。
その日は突然訪れた。厳重なはずの結界は破られ、轟音と衝撃が六平と千鉱を襲った。澄み渡る青空とは対照的な赤い炎が天に向かって上がっている。全身を強く打ち気を失っていた千鉱は、燃えるような左頬の痛みに意識を引き上げられた。瓦礫だらけの部屋から這い出し、痛む体を無理矢理動かし父の姿を探す。
「……っ!」
眼前には襲撃者と思われる三人の人間と、傷を負い血を流す六平の背中があった。
「父さんッ!」
「っ、ダメだチヒロ…!来るな!」
六平の元へ向かおうとする千鉱を、膝を着きながらも襲撃者と対峙する六平が必死に止めようとする。
「おや、そちらが例の子だね」
襲撃者の一人、和装の男の視線が千鉱へ移る。興味深そうに千鉱を眺めるその眼差しに敵意は感じられないが、目が合った途端体が強張り千鉱の足は縫い留められたように動かなくなった。
「妖刀は全て奪った。残る目的はただ一つ。君も貰っていく───七本目の妖刀をね」
ドクンと、大きく心臓が脈打った。何故それを知っている。父の友人二人にさえ教えていない秘密を、どうして。男の体が千鉱の方へ向いたのを見た六平は、硬直し動けないでいる千鉱へ、その中の淵天へ向かって命じた。
「逃げろ・・・、チヒロ!」
六平の声が届いた瞬間、千鉱の体が動き出す。淵天とその所有者にあたる六平の間には命滅契約が結ばれており、六平も例外に漏れず死亡しない限り他者が淵天を使うことはできない。しかし、千鉱というイレギュラーと同化した淵天の命滅契約は徐々に変質し、千鉱と六平の間でも擬似的な契約が結ばれていた。主従関係のようなそれは六平の下した命に千鉱を従わせるもの。行使したのは初めてだったが、今この場から千鉱を遠ざけるためなら何でもよかった。妖術師三人相手に時間稼ぎができるとは思っていない。それでも、千鉱を守るために、逃すために取れる手段はこれしかなかった。
(父さん…!)
何故か声を出すことができず、振り返ることも勝手に動く体も止めることができない。気がつけばあの場から距離が開き、まもなく領域の境界線まで来ようとしていた。襲撃者達が追ってくる気配はない。所詮子供の足では遠くへ逃げられないと踏み、泳がせているのかもしれない。命懸けで逃がしてくれた父はどうなったのだろう。
(まだ、死んでない…!)
そう信じたかった。微かに感じられる父との繋がりを必死に手繰り寄せる。涙が張りぼやけた視界で走る。境界線が見えてきた。外へ出たら柴と薊に連絡を。きっと二人なら駆けつけてくれる。あいつらを倒してくれる。希望を捨てずに走る千鉱の前に、
────音もなく、黒が舞い降りた。
パンッ、と乾いた音が響き渡る。その瞬間、千鉱の体を強制していた力がかき消えていくのを感じた。ようやく足が止まり、肩で大きく息をする。
「こんなところにいたのか」
先程まで確かに誰もいなかったはずの目の前に、一人の男が立っている。黒髪と黒いスーツ。全身を黒で包むその男は周囲の景色と浮いているのに、その場を飲み込む支配者のような雰囲気を漂わせていた。顔に独特の紋様を刻み千鉱へ向ける瞳は、昏く冷たい。視線が絡んだ途端、背中に氷を入れられたかのように血の気が引き、再び体が硬直した。本能的な恐怖だった。
「探したよ、六平千鉱」
はっ、はっ、と浅く呼吸する。千鉱の赤い瞳は目の前の男に絡め取られていて、逸らすことができなかった。
「怪我をしているな」
男の長い脚が千鉱へ伸びる。ゆっくりと歩を進め距離を詰めてくる様は、動けないと知っている獲物を前に余裕を携えた捕食者の歩みだった。男がついに千鉱の前に立ち、炎のような紋様が刻まれた右手で千鉱の左頬に触れる。
「俺と共に来い。その代わり父親は見逃してやる」
「え…?」
大きく目を見開いた千鉱の頬を撫でる。動揺した千鉱を宥めるような優しい手つきで、残酷な条件を宣う。
「お前に興味が湧いた。奴と結んだ命滅契約を破棄し、新たに俺と結べ。そうすればこれ以上手は出さない。だが従わないのなら──六平国重を殺す」
「ッ、やめろ!父さんに手を出すな!!」
先程の怯えていた表情が嘘のように消え、怒りを孕んだ瞳が男を強く見据える。怯えた表情よりも、怒りや憎しみに駆られたこちらの方が好ましい。
「お前について行く。…だから、父さんには絶対手を出すな」
「ああ。俺は約束は守る」
男は笑みを深め、頬に添えていた手を首筋へ下ろす。つ、と爪先で弱く刺激するようになぞり、服で隠れて見えないはずの痕に指先が添えられた。
「お前の全てをよこせ」
男に連れられた千鉱が目にしたのは、妖術と思われる植物で拘束された父の姿だった。
「父さん!」
「…!?チヒロ!」
今にも飛び出して行きそうな千鉱の肩を男の大きな手が押さえつける。
「何だ、来ていたのか」
「待つのは性に合わなくてね。だが来て正解だったな。十分心は満たされた」
男が身を屈め、千鉱の耳元に顔を近づける。
「千鉱」
分かっているな?と言外に通告された千鉱の肩から男の手が離れ、千鉱の背を押す。千鉱はそのまま六平の元へ走った。
「父さん…!」
「チヒロ、何で戻ってきた…!」
先程別れた時よりも傷が増え、拘束され苦しげな父の姿に、千鉱の胸も苦しくなった。生きていてくれてよかった。だがこの出血量はきっと危ない、早く助けを呼ばないと。父との最後の時間が、存外短いことを悟った。
「俺があいつらについて行けば、父さんには手を出さないって約束した」
「!?何を言って──」
「父さんとの命滅契約を破棄すれば、父さんを助けられる。妖刀も、絶対取り返してみせる。…だから、ごめん。父さん」
「チヒロ…!やめろ…!!」
拒絶しようと身動きした六平の拘束がさらに強まる。早く父を解放したい。千鉱は両手を六平の両頬に添え、そっと額を合わせた。契約破棄の方法など知るわけがない。しかし、千鉱の体は自然と動いていた。
意識を奥深くに沈ませ、淵天との繋がりを強める。ずっと繋いでいた、父との縁を刀で一閃するように断ち切った。ぷつり、と音がしたような気がした。六平も感じ取ったのだろう、驚愕と絶望が混ざったような表情をしていた。千鉱は六平からゆっくりと額を離し、そのまま首元に抱きついた。最後となる父の温もりを、忘れぬように。
「チヒロ…!やめろ、行くな!!」
六平の声に、もう振り返ることはない。仲間の妖術師と奪われた妖刀の姿は既にない。ゆっくりと歩を進め、男の前で立ち止まった。
「別れは済んだか?」
誰のせいだと思っている。千鉱は憎しみをのせた瞳で強く男を見据えた。男の手が千鉱へ向けられる。
「俺の所有物ものとなれ、六平千鉱」
奥歯を噛み締め、両手に痛いほど力が込められる。溢れそうになる感情を必死に抑えつけ、両手から力を抜いた。千鉱の左手が男の手に乗せられる。
「……わかった・・・・」
男と千鉱の間で契約が結ばれたのが分かってしまった。父のように温かくて安心するようなものではなく、暗くて冷たい、飲み込まれそうな感覚だった。
男が突如、握っていた手を引く。千鉱の体を引き寄せ、もう片方の手を傷痕へ翳した。
「ぁ…!」
淡く発光した痕が大きく裂け、二人を包むように光の帯が巻き上がる。それと同時に、千鉱の身体から何かが抜け出して失われていくような感覚に陥った。今まで父に委ねた時は一度もこのようなことはなかった。ひどく苦しくて、自分という存在ごと持っていかれそうだった。
男の指先が千鉱の身体へ沈み込む。千鉱は力の入らない手で男の腕を掴み、抵抗しようとした。まるで子猫が引っ掻くような弱々しい千鉱の抵抗を嘲笑うかのように、笑みを深めた男は繋がっていた手を離し、千鉱の背へ腕を回ししっかりと支えた。そしてそのまま、指先しか沈んでいなかった腕が一気に千鉱を貫いた。
「あ…!ぐ、ぅ…ぁ!」
苦悶の声を上げ、千鉱の身体がビクリと大きく震える。衝撃に大きく見開かれた千鉱の瞳から光が失われ、力尽きたように閉じられる。抵抗していた腕も脱力し、重力に従って垂れ下がった。
男の腕が徐々に上がっていき、やがて千鉱の身体からずるりと淵天を引き摺り出した。
「ほう…これが七本目か」
陽光に照らされ光り輝く淵天。人間と妖刀の同化という異質な現象も、こうして目にすると益々興味がそそられる。
「チヒロ…!!」
六平の悲痛な叫び声も、気を失った千鉱には届かない。
「感謝する、六平国重。千鉱という存在を生み出してくれたおかげで、俺の楽しみが増えた」
「チヒロをどうするつもりだ…!」
「さてね。千鉱はもう俺の物だ。どうしようと俺の勝手だろう?」
腕に抱えた千鉱を見下ろした男は、頬の血を掬い千鉱の唇へ紅を引くように色付けた。
「美しく咲かせるのもまた一興だな」
掌印を結んだ男と千鉱の身体が炎に包まれていく。二人の姿が完全に消えた途端、六平を拘束していた植物が塵となって消えた。重傷を負った六平の身体が地に沈む。
「チ、ヒロ」
視界が徐々に狭まっていく。最後に千鉱に抱きつかれた時の、哀しく微笑む表情が忘れられなかった。
水の中に沈んでいる。息苦しさはなく、呼吸する度に口から泡が上がっていく。水面と思われる上方から光が差し込んでいて、千鉱を柔らかく照らしてくれている。水に包まれたこの閉ざされた空間は、昔飼っていた金魚達が過ごしていた金魚鉢の中にいるようだった。
何処からともなく現れた三匹の金魚が、座り込んでいた千鉱に寄り添う。頬や首元、手に尾鰭を擦り付け擽ったい。柔らかくて優しい触れ合いはかつて父と暮らしていた日常を思い出させ、千鉱の心を慰めてくれているように感じた。
父と引き離されたあの日から、千鉱は男の元に軟禁されていた。拘束具の類は付けられていないが、与えられた一室から出ることはできない。殺風景な部屋には窓もなく、時間の感覚はとっくに狂っていた。見えない檻から出される時は、常に男が側にいた。あの後意識を失った千鉱の傷を治し、目を覚ました千鉱に自らを毘灼という組織の統領だと名乗った。男自ら千鉱に玄力と妖刀の扱い方、戦い方を授け、時折実戦という名の経験を積ませるため外へ連れて行く。斬るのはどれも悪党ばかりだが、もう何人殺したのか分からない。外へ出ても事が終わればすぐに連れ戻されてしまうため、千鉱はあれからどのくらい年月が過ぎたのか、父はどうなったのか、世の中がどうなっているのか何も知ることができなかった。
いずれ毘灼を壊滅させることを固く決意し、敢えて残された左頬の傷に触れて、今日も憎しみを研ぎ澄ませていく。
この静かな空間は玄力の扱い方を覚え、淵天との結び付きを強めた千鉱の内に広がる領域だ。一種の防衛本能なのか、擦り切れそうな千鉱の心を守るために同調した淵天が形成したものだった。ここだけは、唯一安心して息を吸うことができた。
『千鉱』
男の呼び声が聞こえる。不本意にも男と契約を結んでしまったことで、男の命には逆らうことができない。以前声を無視していたら強制的に体の自由が奪われた挙句、玄力による干渉を受け痛めつけられたのだ。
深い溜息を吐き、この穏やかな時間が終わりを告げる。立ち上がった千鉱の周りを金魚達が心配そうに泳ぎ回る。目を閉じ意識を外へ向けると周囲の感覚が薄れていった。
ふと、目を覚ます。いつもと変わり映えのない暗い部屋。現実に戻ってきてしまったことにもう一度溜息をつきながら、重い体を持ち上げ唯一の入り口へと向かう。普段は固く閉ざされているこの襖は、男の許可なしに決して開くことはない。引手に手を掛け開くと暗く先が見えない通路が続いている。自らの足でこちらに来いと言わんばかりの景色に、いつものように小さく舌打ちを溢して歩き出した。
千鉱がいるこの拠点は妖術で構成されているらしく、独立した空間の集合体となっている。通路はいつも同じだが、辿り着いた戸の先に広がる景色は毎回違っていた。
無駄に長い通路を歩き続け、ようやく見えてきた襖を開く。畳張の広い部屋と縁側に面した見事な枯山水。鮮やかな色の樹木に囲まれ、こんな状況でなければ美しい光景に感嘆していたかもしれない。庭とは対照的に室内は薄暗く、外の世界と閉じ込められている千鉱との対比を見せつけられているようだった。
「来たか」
部屋の奥、大きな丸窓障子を背にソファに腰掛けている男。声を掛けられるまで気配すらなかった。眉を顰め、男の元へと向かう。
「…何の用だ」
「何、俺の所有物ものを愛でるのも、所有者として当然だろう?」
眉を寄せた千鉱に男が薄く笑い、昏い瞳を向ける。千鉱はこの男の瞳が何よりも苦手だった。昏くて冷たい、奥底まで見透かしているような瞳。ずっと見ていると引き摺り込まれそうで、目を逸らしたいのに逸らすことができない。
「意味が分からない。用がないのなら呼ぶな」
踵を返した千鉱の腕が大きな手に掴まれ、ぐんと体が引かれる。咄嗟のことで抵抗できなかった千鉱の軽い体は先程まで男が座っていたソファに投げ出され、上から抑えつけられた。
「何を…!」
「動くな・・・」
男が下した命に身体は従順に従う。暴れようとした手足はだらりと力が抜け、千鉱の心だけが取り残された。
「全く、いい加減学べ。それとも手酷くされる方が好みか?」
「黙れ!」
憎しみを滾らせた瞳で強く睨みつける。時が経っても簡単に組み敷かれる目の前の子どもは、まだ子猫のままのようだ。男にとって精々千鉱の抵抗は爪で引っ掻かれた程度の可愛らしいもの。強い意志を感じさせる赤い瞳で睨みつけ、毛を逆立てて威嚇する様子が男の嗜虐心を刺激していることを千鉱は知らない。
男が千鉱に見せつけるように掌を広げる。目を見開き、一転して怯えと絶望が浮かんだ表情に変わる。
「っ嫌、だ!やめろ…!」
指先さえ動かすことができないまま、男の腕が千鉱の身体へ沈んでいく。
「う、ぁ…!っや、あ!」
この男に淵天を渡したくない。男を拒絶し、受け入れられない千鉱の心と契約が反発し、千鉱に苦痛を齎す。気まぐれに男が淵天を取り出す度、千鉱の心身が悲鳴を上げていた。
淵天を引き摺り出す。しかし男は一瞥した後、刀を床に置いた。
「は、あ…ぁ、」
虚ろな瞳で天井を見つめる千鉱の頬に手を添える。男の顔が近付き、唇が合わさった。舌を絡め口内を蹂躙する。千鉱の喉がこくりと動き、混ざり合った唾液を嚥下する。従順な姿勢に、男がうっそりと微笑む。千鉱の耳元に唇を寄せ、優しく悪魔の囁きが落とされる。
「俺を受け入れろ。全てを委ねて楽になればいい。そうすれば、お前を蝕む苦しみから解放される」
───本当に?消耗し思考力が落ちた頭にぼんやりとその言葉が染み渡る。淵天を取り出される度、千鉱の身体から何かが抜けていく。自分が自分でなくなるような、内側が欠けていくような感覚に陥っていた。気づかないふりをしていた恐怖が徐々に、確実に千鉱を蝕んでいた。飲み込んだ唾液に混じった男の玄力が、千鉱の身体を巡り穴を埋めていく。
「千鉱、眠れ・・。俺が側にいる」
『チヒロ、おやすみ。父さんが側にいるからな』
今は遠い懐かしい声と重なる。水底に沈んでいくように、千鉱の意識も深く沈んでいった。
妖刀の一振り、刳雲の現所有者である双城厳一。不穏な動きを察知した神奈備によって対刳雲用の特別部隊が編成された。市民を避難させようやく双城を誘い込んだ彼らと、ビルの屋上で牽制する柴と薊。一触即発状態の空気の中突如背後に現れた一人の気配に、振り返った二人が目にしたのは。
「チヒロ、君」
目の前に立つのは、ずっと探していた大切な子。三年前よりも随分背が伸び、精巧な顔付きになっていた。左頬に刻まれた大きな傷跡が痛々しい。
結界が破壊されたあの日、二人が急いで駆け付けた時には何もかも遅かった。無惨にも破壊された住居と燃え上がる炎。血に塗れ倒れる六平。息があることに安心したのも束の間、千鉱の姿が何処にも見当たらなかった。幼い頃から大切に見守ってきた大切な存在。苦い思いで捜索を断念し、重傷を負った六平を治療すべくその場を後にした。
六平が目を覚ましたのは、それから五日後のことだった。その間も秘密裏に千鉱の行方を探していたが情報は得られず。意識を取り戻し、千鉱の名を叫びながらベッドから抜け出そうとする六平を必死に留め、あの日の詳細を聞いた。妖刀が奪われたこと。淵天と同化していた千鉱が自らの身と引き換えに六平を助けたこと。淵天の存在は知っていたが、千鉱の中に封じていたことはこの時初めて知った。衝撃を受けるも、愛する息子を二度も犠牲にしてしまった六平の酷く悔いる表情を見て、二人はすぐに思考を切り替えた。第一に優先すべきは千鉱の救出。六平の情報から毘灼の存在が浮かび上がり、未だ謎の多い奴らと妖刀の情報を追い求める日々が続いていた。
「チヒロ君…!ほんま、無事でよかった…!六平もずっと血眼で探してたんやで…!」
「……」
言葉に詰まりながらも千鉱へ語りかける柴。しかし、千鉱は顔色一つ変えず、冷たい表情でこちらを見据えている。
「チヒロ君…?」
「待て、柴。様子が…」
一歩踏み出そうとした柴を止める薊。二人から目を逸らさないまま、千鉱が口を開いた。
「淵天」
千鉱の左手に光の粒子が集まり、形を成していく。握られていたのは、一振りの刀──淵天だった。
「!!」
「チヒ、」
「涅」
込められた玄力が増幅し、一匹の黒い金魚が具現化する。二人に向けて振り抜いた一閃は、延長線上にある建物ごと斬り抜いた。瓦礫と化した建物が崩れ落ち、轟音が鳴り響く。飛び退いた二人を視界に入れ、再び構える千鉱。紅く輝く瞳は何も映さず、あるのは純然たる殺意のみ。
「チヒロ君の様子がおかしい。何かしら妖術がかけられていることは確かだ」
「…毘灼か」
柴と薊を見ても何も反応しない。記憶を操作されているのか、意識を操られているのか。何にせよ、やっと千鉱を見つけたのだ。多少強引な手を取ってでも連れて帰らなければならない。
その時、下から戦闘音が響いてきた。牽制となっていた二人が動いたことで、双城と特別部隊も戦い始めたらしい。千鉱の気がそちらへ逸れた一瞬を見逃さず、柴が距離を詰める。淵天を千鉱から取り上げようと刀に手を伸ばすも、体を捩り後方へ高く跳躍した千鉱が黒い数十匹の金魚を顕現させる。
「涅、千」
妖術で瞬時に回避した柴。さっきまで立っていた屋上は無数の斬撃によって斬り刻まれた。最初の一閃よりは深く削れていないものの、威力を抑えた分攻撃範囲を広げたようだ。
空中にいる千鉱の背後に、音もなく移動していた薊が迫る。手刀を当てようとした薊の手を右腕で受け止めるが、体勢を崩した千鉱の横腹に加減した、それでも強い蹴りが入る。吹き飛ばされ屋上へ着地した千鉱に続き、降り立った薊が再び肉薄する。玄力を帯びた淵天から三色の金魚が舞い上がった。
「錦」
「!」
玄力を体に上乗せした千鉱の速度が格段に跳ね上がる。薊の前から消え去り、瞬時に背後へと回り込んだ。目の前の敵を斬ろうと振り上げた千鉱の左手は現れた柴の蹴りによって阻まれ、衝撃で刀が手から離れた。柴の大きい掌が千鉱の左手首を強く掴み上げ、身長差も相まって千鉱の踵が僅かに浮いた状態となる。刀を取り上げられ拘束された千鉱は、ようやく動きを止めた。
「チヒロ君、ようやっと落ち着いたか」
「……」
千鉱の剣は間違いなく命を狙ったものだった。戦いとは無縁の場所で暮らしていたのに、たった三年でこの子は殺しの術を覚えさせられてしまった。あの日間に合わず守ってあげられなかった後悔が込み上げてくる。
「ごめんなぁ、チヒロ君。もっと早く助けるべきやったのに」
「チヒロ君、もういい。もう戦わなくていい。六平の、お父さんの所へ帰ろう」
ぴくりと、千鉱の体が揺れる。拘束から逃れようと僅かに抵抗していた左手から力が抜けた。
「とう、さん」
迷子の子どものような小さな声でぽつりと呟いた千鉱だったが、突如目を瞑り苦しみ始めた。
「う、ぐ…ぅあ、うう…!」
「チヒロ君!」
拘束されていない右手で頭を抑え、苦悶の声を上げる千鉱。激しい頭痛に襲われているのか、千鉱を呼ぶ二人の声も届いていないようだった。拘束していた柴の手が緩み、苦しみながら後退る千鉱は自由になった左手でも頭を抑えている。あまりの苦しみように千鉱を連れてこの場から移動しようと、柴が掌印を結び触れようとした瞬間。
千鉱を包むように巻き上がった炎が、二人との距離を強引に開けさせた。
突如介入した妖術に、警戒し構える二人。炎の壁が収まり、気を失った千鉱の背を支えるのは一人の男だった。神奈備のブラックリストにも載っていないその男は、戦争経験者である二人からしても手練れと感じさせる雰囲気を纏っていた。昏い瞳が二人を冷たく一瞥する。
「せっかく眠らせたんだ。起こしてもらっては困る」
「お前、毘灼か」
柴の唸るような鋭い声も意に介さず肯定する。
「俺は毘灼、統領。六平国重を襲撃し、千鉱を連れ去った張本人だ」
その言葉を耳にした瞬間、二人の殺意が膨れ上がる。親友を傷付け、大切な子の人生を奪った悪党が目の前にいる。許せなかった。神奈備に身を置き任務を優先する薊でさえ、この時ばかりは頭に血が登っていた。
「チヒロ君を返せ。その後に殺したる」
「何だ、六平国重から聞いていないのか?千鉱はもう俺の所有物ものだ。返すわけがないだろう?」
煽るように千鉱の体を抱き寄せ、笑みを深くする男。同時に地を蹴った二人が男へ迫る。
「起きろ・・・、千鉱」
虚ろな瞳を開いたと同時に、千鉱の身体に裂け目が現れ金色の光の帯が迸る。千鉱と男を包み込むように広がり、二人はこれ以上近づくことができない。
「何やアレ…!」
「結界か!?クソ、近づけない…!」
男の腕が裂け目へと沈みこむが、千鉱は瞳を開いたまま抵抗する様子はない。取り出したのは、先程千鉱が握っていた淵天。鞘はなく、刀身が剥き出しになっていた。
「淵天と同化した千鉱が戦闘で使うのは写し・・だ。鞘である千鉱は淵天の受け皿。淵天本来の力は所有者である俺にしか引き出せない」
光が収束し掻き消える。男の握る淵天から水滴が舞い上がり、足元から大量の水が湧き出る。刀に巻き付くように集まった水と黒い金魚が場を支配した。
「淵天、涅」
男が振りかぶった瞬間。水を纏い質量を増した斬撃が辺りを一閃した。斬撃が届いた建物は消し飛び跡形もない。妖術で瞬時に消えた柴と薊が、少し離れたビルへ着地する。
「…これは」
「なんつー威力や…」
当たればひとたまりもないだろう。市民を避難させていなかったら、今頃死人が出ていたはずだ。男の様子を伺う。もう迂闊に近づくことはできなかった。
「素晴らしいな」
思わずといった風に、感嘆の声が漏れる。男自らが淵天を振るったのは初めてだったが、威力も期待以上だった。いずれ真打を振るうことは確定しているが、淵天を──千鉱を手放すのが惜しくなってきた。
ふと、淵天の輪郭がぼやける。光の粒子となり男の手から逃げ出した淵天は千鉱の身体へ吸い込まれていった。
「…成程。まだ手懐けられていなかったようだな」
奥底に沈められた意識の中で、柴と薊の声が届いたのだろう。街中での戦闘に抵抗を示し、男を拒絶してみせた。試し斬りとしては及第点だ。放し飼いした黒猫はもう少し躾ける必要があるようだが。掌印を結び炎に包まれ二人の身体が欠けていく。
「精々足掻くといい。お前達が助け出す方が先か、俺が堕とす方が先か──見ものだな」
飛んできた柴と薊を挑発するように、不穏な言葉を残し消えていった二人。男の腕に抱かれていた千鉱の固く閉じられた目に、一粒の涙が滲んでいたように見えた。
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