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放課後の鐘が鳴った直後。
若井のスマホが震える。
《準備室、来て。》
それは、短くて、あまりにも慣れた文面だった。
差出人は、音楽教師・藤澤涼架。
若井は、しばらくその通知を見つめたまま、微かに唇を噛んだ。
(……また、いつものように)
あれから、何度かストレスや寂しさから身体を重ねるようになっていた。
けれど、もうそれは違う。
俺には、守りたいものがある。
——大森元貴という存在が、心に宿ってしまったから。
「……これで最後にしよう」
そう呟きながら、音楽準備室の扉を開ける。
薄暗い部屋に差し込む西日。
その中で、藤澤がいつものように微笑んでいた。
「お疲れさま。来てくれてありがと」
「……なんですか。用件は」
「んー、そんな冷たくしないでよ」
藤澤が一歩、二歩と近づいてくる。
その距離に、若井の喉が無意識に鳴る。
そして次の瞬間。
不意に藤澤が唇を重ねてきた。
「……っ、やめてください」
若井は、体を引き離しながら声を荒げた。
藤澤の目が細くなる。
「……何で?」
「……大事な人が、できたからです」
静かに、でも確かな意志を込めて言うと、
藤澤の表情がぴたりと止まった。
「……それってさぁ。大森くんでしょ?」
その名前が出た瞬間、若井の視線がわずかに揺れる。
肯定も否定もしない——その沈黙こそが、答えだった。
「……あの子さ、かわいいよね。俺、この前ちょっと話したよ」
若井が目を見開く。
「……なんの話を、したんですか」
藤澤は、くすっと笑った。
「若井センセの感じやすいところ……どこ触れたらいいのかって、ちゃんと教えといたよ」
「……は?」
「手取り足取り、ね。……あの子、ちゃんと覚えてくれたと思うよ」
若井の奥歯がギリ、と鳴る。
「……あの子の真っ直ぐさに、ちょっと感心しちゃってさ。若井センセのこと、本当に好きなんだなって。だから、応援しただけ」
「……親切心って、そういうことじゃないでしょう」
「えー?そんな怒んないでよ。僕たち身体の関係だけなんだから、今さら縛るつもりなんてないよ?」
ニヤリと笑う藤澤の目が、どこまでも無邪気で、無責任で——残酷だった。
若井は、しばらくその視線を見つめたあと、静かに言った。
「……俺、もうここには来ませんから」
その声は、怒りでも悲しみでもない。
ただ、心を決めた人間の言葉だった。
藤澤が何かを言いかけたその瞬間、
若井はすでに背を向けていた。
——扉が閉まる音だけが、音楽準備室に響いた。
放課後の図書室。
静かな空気の中で、元貴は理系の参考書の棚を眺めていた。
指先で背表紙をなぞりながら、心はどこか上の空。
——あの時のことが、ふと脳裏をよぎる。
(……藤澤先生に、あんなことされて……)
指揮棒で触れられたあの感覚。
気づけば、身体が火照っていた自分。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
そのとき、背後から足音が聞こえてきた。
「……大森」
「……っ、あれ、若井先生?」
驚いて振り返ると、いつになく真剣な顔をした若井がそこにいた。
「お前……前に、藤澤に何かされたのか?」
突然の問いに、元貴の心臓が跳ね上がる。
「……え……な、なんで……」
「……あいつ、お前に変なこと言ってた。……だから気になって……」
沈黙。
図書室の奥。
まだ他にも生徒の気配はある。
でもその空間だけ、世界から切り離されたように緊張が張り詰める。
「言えないなら、それでもいい。ただ……」
若井が一歩、二歩と近づいてくる。
「……お前が、心配で」
そう言いながら、元貴を壁際へと追い詰める。
まるで壁ドンのように、腕を突いたその距離は——息がかかるほどに近い。
「……若井先生……」
「……あいつに何かされたんじゃないかって思うと……おかしくなりそうで……」
唇が触れるか、触れないか。
そのギリギリの距離で、若井は言葉を詰まらせた。
「大丈夫です。……それより、近いです。まだ他の生徒がいますよ。」
静かにそう囁かれた言葉に、我に返った若井はすぐに腕を引いた。
「っ……悪い。今のは、忘れてくれ」
早足でその場を離れる若井の背中を、元貴は黙って見送った。
——ああ。
今のは、先生の本音だった。
嬉しかった。
——もっと、僕のこと…見てもらいたいな。