テラーノベル
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「よし、じゃあ明日提出の範囲、各自で解いてみよう。分からないとこあったら手挙げてな」
放課後の教室に、若井の声が響く。
定期テスト前の恒例、数学の勉強会。
教室にはいつになく集中した空気が流れていた。
とはいえ、静かだからといって全員が真面目にやっているとは限らない。
──少なくとも、大森元貴は違っていた。
前の席の生徒の背中越しに、彼はずっと視線を向けていた。
その先にいるのはもちろん——若井先生。
(……あのときの手の温度、まだ忘れられない)
——数学準備室での出来事。
——授業中の、小さな挑発。
全部、先生をもっと見たくて仕掛けたこと。
でも、足りない。ぜんぜん足りない。
元貴はそっと、教科書の間に紙を挟み、立ち上がった。
そして、あたかも“質問”であるかのような顔をして、若井のもとへ向かう。
「先生。ちょっと、ここ……」
ノートを見せると、若井は立ち上がって近づいてきた。
その瞬間、元貴はタイミングを計ったように身体を傾け、耳元にささやく。
「……先生、俺の家……来てください」
若井の動きが一瞬止まる。
その間に元貴はすかさず追い打ちをかけるように囁く。
「今日、家に誰もいない。……一人じゃ、理解できそうにないんで」
「おい、大森……っ」
声を荒げそうになった若井に、元貴はフフッと笑って目線を逸らした。
「ここ、ですよね?」とわざとらしくノートの式を指差しながら、
机の下では、若井の手に自分の指先をそっと添える。
(バレないように、でも確かに触れて)
「……先生の解説、すっごく分かりやすい。……好きです」
吐息混じりの声は、もはや“教え方”の話ではない。
けれど周囲は、真剣に問題を解いていて誰も気づいていない。
若井の目が一瞬だけ、強く揺れる。
(ダメだ、こんな教室の中で……)
それでも、元貴の指が少しだけ絡みつくように動いた時、
若井はその手を振りほどくことができなかった。
「……じゃあ、終わったら。……ちゃんと勉強、教えに行く」
そう言った瞬間、元貴の口元に満足げな笑みが浮かぶ。
まるで、思い通りに事が運んだとでも言いたげに。
若井はその顔を見ながら、深く息を吐いた。
(あいつ、絶対にわざとだ……)
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