テラーノベル
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俺たちは、ほぼ同時にスプーンを口に運んだ。
カレーを口に入れた瞬間、くたっと柔らかく煮えたじゃがいもがほろりと崩れ、玉ねぎの甘みとルーのまろやかさが舌の上に広がる。
実家で出てくるカレーと遜色ない。いや、むしろ、こっちのほうがちょっとだけ、優しい味がするかもしれない。
──やった、ちゃんと“カレー”になってる。
弐十の胸の奥に、じんわりと達成感が広がった。
正直、野菜はあんまり上手く切れなかった。
でも、火加減とか、煮込む時間とか──
今までなら適当に済ませてたようなところを、今回はちゃんと気にした。
ルーを入れるタイミングや、隠し味だって調べたし、調理工程を何度も頭の中でシミュレーションして──
そして何より……トルテさんに「うまい」って言って欲しくて。
その結果が今、目の前にあると思うと、なんだか少し誇らしい気持ちになった。
そんなことを思いながら、そっと横目で向かいのあいつを盗み見ると、静かに無表情のまま、ゆっくりと咀嚼を続けている。
眉も動かず、何も語らないその顔に、弐十は一気に不安を覚えた。
さっきまでの自信が、ぐらりと揺れる。
「……トルテさん、どう?」
緊張で少し声が上ずる。
返事がないまま、キルは一度だけ、スプーンを皿に置いた。
それから顔を上げて──
「……弐十くん、ごめん。正直に言っていい?」
低く、淡々としたトーン。
思わずごくりと唾を飲み込んで、弐十は小さく頷く。
「俺、あんま期待してなかったんだけどさ……」
一拍置いて。
「ガチ、めっっちゃ美味いわ」
不意打ちのような言葉に、弐十の目がぱちくりと瞬いた。
キルは、口元を右手で軽く隠すようにして、目だけでちらりとこちらを見る。
照れ隠しなのか、それとも本気で感動しているのか──
その中間みたいな表情が、妙に可愛くて、ふ、と笑いそうになった。そして、
「っ……よ、よかったぁーーー」
思わず漏れた安堵の声。
心の中で「っしゃーーー!」と叫びながら、弐十は内心で何度もガッツポーズを決めた。
その一言が聞きたくて、あの顔が見たくて!
報われた気持ちが、胸の奥からじわじわと湧き上がってきて、視界が一気に明るくなった気がした。
──
「いや、まぁ……いきなり押しかけて料理し出すから、気でも狂ったんかと思ったけど」
カレーを掻き込みながら、キルが思い出したように話し出す。
どうやら、弐十が玄関に現れた時のことを思い返しているらしい。
「だって、びっくりさせようと思ったからね」
麦茶を片手に弐十がにやっと笑う。
「……て言うか、なんでカレーなん?」
「俺でも簡単に作れると思ったから」
「はぁ?カレー舐めんなよ、ほばへ(お前)」
「…はいはい、飲み込んでから喋ろうね、笑」
会話のラリーも、食べ進めるスプーンも止まらない。
気づけば、ふたりとも皿はすっかり空になっていた。
「……まだあんの?」
空になった皿をちらりと見下ろしながら、キルが尋ねる。
「ある!ちなみに、12皿分作った!」
「は?! 作りすぎだろ!!」
「ほんとだよな〜笑」と、他人事みたいに手を叩いて笑う弐十に、キルは呆れたように眉をひそめた。
「おかわり」
そう言って、空の皿をずいっと突き出してくるキル。その仕草が、どこか嬉しそうにも見えて、弐十は思わず破顔する。
「おかわり、ナイス!! もっと食え食え!」
皿を受け取り、張り切って立ち上がる。
鍋の中からルーをすくって、勢いよくよそいはじめる……が、調子に乗りすぎた。
「おい!量、多すぎ!!」
皿の縁まで盛られたカレーに、クレームが入る。俺の胃袋の小ささ知ってるでしょあんた…と、弐十をじと目で睨むキル。
「カレーなら、大丈夫かなって……」
「お前と一緒にすんな!」
キルは文句を言う手前で、冷蔵庫からマヨネーズを取り出した。
テーブルまで戻ってくると蓋を開け、ぐにゅ〜っと、ためらいなくカレーにかけるその姿に、弐十が叫ぶ。
「待っ…!え!?カレーにもかけんの!?笑」
「うまいもんにはマヨネーズって決まってんだろ」
「……いや、お前がいいなら、俺はいいけど…笑」
「ちょ、弐十くんもやってみ?」
「絶対無理!!」
「食わず嫌いは人生損するぞ?」
「お前のことだろそれ、笑」
ふざけて、笑って、適当に言い合って。
カレーの香りがまだ残るテーブルに、そんな時間が、ゆるやかに流れていく──
──
それから少し経って。
気がつけば、キルはおかわりを二回、デザートのピノまで平らげて、ソファに沈んで動かなくなっていた。
弐十も同じくらい食べたはずなのに、空になった皿を重ね、すっと立ち上がる。
「ごちそうさま」の声が重なったテーブルには、ゆるやかに満足した空気が残っていた。
「あー、しんど。三日分は食ったわ……もう動けん……」
ソファに沈み込み、ぽんぽんと腹を叩きながらのけぞるキル。
弐十は休むことなくカレーを黙々とジップロックのタッパーに一食ずつ詰め冷蔵庫へしまい、空になった鍋を流しに運び、そのまま洗い物を始めた。
手際よく、慣れない割にはよく動くその背中。
「ねぇ、トルテさん、今度は何食べたい?」
弐十は唐突に問いかけると、ソファに沈んでいたキルが顔だけこちらを向けた。
「……え、また作ってくれんの?」
「うん、たぶん」
「ん〜……じゃあ、チキン南蛮とか?」
「まだ無理。ちょっとハードル高い」
「は?じゃあ……生姜焼き」
「あー、それならギリいけそう」
「玉ねぎ入ってないやつね」
「え、入れるよ? あの玉ねぎが美味いんじゃん」
「なんだ、おめぇ、テロリストか?」
口を開けば、また、くだらない会話。
でもそのやりとりの中に、次の約束がいつの間にか、当たり前みたいに潜んでいる。
生姜焼きに、ごはん、味噌汁。
定食みたいに揃えたら、こいつ、また喜んで食ってくれるかな──。
そんな少し先の未来を想像しながら、弐十は静かに皿を洗い続けた。
──
洗い物を終え、生ゴミをまとめて、弐十は帰り支度を済ませていく。
鞄とゴミ袋を持ってリビングを出ると、後ろからじっとこっちを見る視線。
「なに?もう帰んの?」
「うん、夜、配信あるし」
「……あっそ」
帰り際はいつも、こんなふうにそっけない。
何度繰り返しても慣れないのに、それでも俺たちは、それ以上言葉を交わさない。
「カレー、小分けにして冷蔵庫入れてあるから。腐らせる前に食い切れよ」
「んー、はいはい」
母親か、おめぇは。そんなツッコミを背に受け、笑いながら弐十はゆっくりと玄関へ向かう。
靴を履いていると、キルが片足だけサンダルを突っかけて、無言で扉を開けてくれた。
「お、サンキュ」
ゴミ袋と荷物を持ち上げ、「お邪魔しましたー」と一言だけ残して、玄関の段差をまたぐ。
その瞬間だった。
「……あのさ」
唐突な声に、振り返る。
「ん?」
「前に……、お前選手権とか言ってたやつ、」
一瞬、なんのことか分からなくて思考が止まる。
お前選手権……?
なんだっけ、それ……と記憶を手繰っていると、
「お前がいんだから……別に、必要なくね?」
その言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
「え、」
反射的に声を漏らしたときにはもう、「じゃーな」と言うあいつの言葉と同時に、ぱたん、と扉が閉じられていた。
音が響いたあとの静寂の中に、ぽつんと取り残される。
──お前がいんだから。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
……あ。
『俺が女だったらねーー、』
『募集しようよ、俺選手権! 女版、俺、探そ?』
一ヶ月ほど前の、コラボ配信中に
あいつに言った、俺の言葉が頭を過ぎる─。
あれは、そう──
俺の心の奥に溜め込んでいた、本音。
叶わないってわかってるからこそ、冗談に包んで、笑ってごまかすしかなかった。
重くて、女々しくて、醜くて……
そんな自分を、見せずに済んだことに、安堵したフリをしていた。
なのに。
『お前がいんだから、別に必要なくね?』
あいつが何気なく口にした、その一言が──
その全部を、そっと肯定してくれた気がして。
──そっか。そうだよな。
他の誰かじゃなくて。
“俺に似た誰か”でもなくて。
ちゃんと、お前には──
俺が、いるじゃん。
誰でもない「弐十」を、ちゃんと「お前が」選んでくれた。
そのことが、ただもう、嬉しくて仕方なかった。
キルシュトルテのそばにいること。
必要とされること。
……それが、今の俺の、静かな幸せなんだと思った。
扉の向こうで、きっと部屋の奥へと戻っていったあいつの姿を思い描きながら、
弐十はふっと微笑む。
胸の奥で言葉にならない想いが溢れて、小さく、「ありがとう」と呟いた。
──そのころ。
閉じた扉のすぐ向こうでは、
顔を真っ赤にしたキルシュトルテが、しゃがみ込んでいた。
耳の先まで真っ赤に染めて、何度も唇を噛みながら、
弐十の背中を思い返す。
黙って、受け止めたわけでもなく──
ただ、反応がなかっただけ。
なのに、あんな言い方をしてしまった。
頭で止めようとしたのに、口が勝手に動いてた。
心の奥底に閉じ込めてたはずの言葉が、喉をすり抜けて飛び出して、
よりによって、あいつの前で、あんなふうに──
「……なに言ってんだ俺……マジきめぇ……」
誰にも聞こえない声で、情けなく呻く。
羞恥と後悔で、胸がきゅうっと苦しくなって、
どこにもぶつけられない気持ちが、じわじわと体の奥で暴れている。
それでも──
それでも口元だけは、どうしようもなく緩んでしまう。
俺を嬉しそうに見つめる“あの顔”が、焼きついたみたいに何度も脳裏に浮かんで、
そのたびに、胸の奥がじんわり熱を帯びる。
「……カレー、うまかったよ。弐十くん……」
ぽつりと漏れたその声は、
誰にも届かないまま、宙に消えていく。
しゃがみ込んだまま、顔を伏せて、
キルシュトルテはひとり、抱えきれなくなった想いの余韻に、そっと目を閉じた。
──
まだ、ふたりの関係に、名前はない。
でもきっと、それでいい。
言えなかった想いと、伝わった気持ちと。
ごちゃ混ぜになったふたりの全部が、
まだカレーの匂いが微かに残る部屋の中で
ゆっくりと、あたたかく、
溶け込んでいった──
*おわり*
コメント
2件
初コメ失礼します!!もうすごく好きです!!!全部の作品を見させていただいたのですが、もう全部指を震えさせながら見ていました…✨本当に言葉じゃ足りないくらいすごくて、情景とか表情とか解像度がめちゃくちゃ高くて…✨もう本当に大好きです!!!素敵な時間をありがとうございます!これからも楽しみにしてます!!!