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人差し指と親指が触れた唇からは、昨夜のような熱は感じられなかった。
「うにょーん」
指ではさんで引っ張ってみる。
薬用リップの油分で手はすぐに滑ってしまった。
うろたえて家を出たせいか、グロスすらつけてはいないことにようやく気付く。
見上げる空──白く輝く太陽が、今の星歌にはとりわけまぶしく感じられた。
ひとり暮らしの行人の家は、星歌にとって第二の自宅。
化粧品も服も靴も、何となれば愛読書の異世界転生もののラノベだって置いている。
なのに、彼女は昨日着ていたレースの上着の下に男物のジャージ、そしてヒールというちぐはぐな服装で往来に立ち尽くしていた。
行人がこの姿を見ていたらさすがに止めたろうが、彼は最近忙しいらしく星歌が目覚めるより先に家を出ていたのだ。
正直、顔を合わさず済んだことにホッとしている。
弟の顔なんて見てしまって、夕べの唇の感触なんかが蘇りでもしたらどんな顔をすれば良いやら、考えただけで途方に暮れてしまうからだ。
「あれは事故事故。まったく、異世界どころじゃないよ……」
昨夜はあんなに焦がれた金髪王子のいる異世界。
けれども、今は生々しく残るあの感触を消すことに必死だ。
昨日からの一連の悲劇──失恋と失職のダブルパンチですら、遠い過去のように実感が薄い。
心ここにあらずという状態のまま、辞めた職場に「出勤」してしまう始末。
事務室に入った瞬間、己に注がれた視線の痛さに我に返り、そそくさと学校を出てきたところだ。
校門を出る直前、ぽってり太った主任が息を切らせて追いかけてきたので、てっきり留意されるのかと思いきや通行証を兼ねたネームタグを返せと言われた。
普段の星歌であれば「もはや死にたい」→「異世界へ行くしかない」という発想に取りつかれるところだが、学校の前をウロウロしながら思うのは昨夜のキスのことばかり。
「だから事故だって、アレは。だって私のはじめてのキッスが、ジャージのズボンはいてとかありえる?」
色気もなにもないじゃないか!
そう叫びかけ、星歌はふと立ち止まる。