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定時――
「お疲れさまです。定時になりましたので、失礼いたします」
「へ? あ、ああ……」
颯斗がふと時計を見ると、サクライウエディングの内勤者の定時である十八時を告げていた。
サロンの閉店時間は二十時であるため、受付やプランナーは二交代のシフト制になっている。しかし、美玲の定時は十八時と、颯斗の父である社長から直接言い渡されていた。美玲には家業の手伝いという重要な事情があり、その点を踏まえての配慮でもある。
だが、その事情を知らされていない颯斗は、どこか不満げな表情を浮かべていた。これまで自分の秘書を務めた女性たちは、颯斗と少しでも長く一緒にいたいという思惑から、定時を過ぎても帰らず、彼が退社するまで無駄に残業を続けていたのだ。いや、正確には仕事の効率が悪く、結果として残業が常態化していただけとも言える。
「本日のミーティングの議事録や改善点はすべてメールで送信済みです。それでは――」
一切の反論を受け付けない調子でそう告げると、美玲は颯斗の返答を待たず、専務室を颯爽とあとにした。取り残された颯斗が渋々メールを開いて確認すると、そこに並んでいたのは隙のない完璧な仕事ぶりで、思わず言葉を失う。とても今日が初出勤とは思えない内容で、父の言葉が誇張ではなかったと認めざるを得なかった。
才色兼備――少なくとも才覚においては間違いない。見た目はさておき、彼女が傍にいることで仕事に集中できるのも事実だった。これまで遅くまで残って片付けていた仕事が、既にほとんど終わりに差し掛かっている。悔しいが、それは美玲の力によるものと認めるしかない。しかも、ユリや海斗と互角にやり合うどころか、むしろ完全に掌の上で転がしているかのような強かさすら見せる。
「クククッ……」
今日一日の出来事を思い返しながら、誰もいない専務室で思わず声を立てて笑ってしまう。笑いを堪えきれないほどに、彼女は颯斗の心を掴んで離さなかった。
***
「お嬢様!」
サクライウエディングを出て歩道を進んでいた美玲の隣に、白の高級車が音もなく滑り込むように停まった。先ほどのワンボックスカーとは異なり、車体の長いリムジンタイプで、通行人の視線を集めている。
「しっ! 京也、何をしているの!?」
「お迎えに上がりました」
「いらないと伝えたはずよ……もう子供じゃないんだから」
海斗の忠告を思い出しながら、美玲は周囲へと鋭く視線を巡らせる。このまま歩道でやり取りを続ければ目立つばかりだ。安全を優先すると判断し、すぐに車内へと身を滑り込ませた。
「お嬢様、その後お困りのことはございませんでしたか?」
「ええ、大丈夫。ただ、私と京也の姿を見られていたようだから、今後はサクライウエディング周辺での接触は控えましょう」
「申し訳ございません! 私の配慮が足りませんでした」
「京也の責任じゃないわ。むしろ素早く動いてくれたおかげで、きちんと着替えることもできたのだから」
美玲は、ユリや海斗と対峙した際の印象から、彼ら自身は黒幕ではないと踏んでいた。あの軽率な行動は、自分たちで練り上げた計画には到底思えない。背後にもっと大きな存在がいる――その可能性を冷静に探っているのだ。
ユリの父親程度ではなく、さらに力を持つ黒幕の影。美玲は今日一日の出来事を改めて順に思い返し、そこに真相を解く手がかりが潜んでいないか探り続けた。
やがて車は、長い塀に囲まれた巨大な屋敷の門前へと到着する。登録済みの車両とナンバーを自動で認識し、重厚な門がゆっくりと開き始めた。
華道の家元らしいその屋敷は、広大な敷地に隅々まで手入れの行き届いた庭園を備え、池には悠然と錦鯉が泳いでいる。
車が玄関前に停車すると、待ち受けていた家政婦が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「美玲お嬢様!」
その表情にただならぬ気配を感じ、美玲は胸の奥に嫌な予感を覚える。
「どうしたの?」
「玲也様が……」
「兄さん? 今日はレッスンの日だったはずよね?」
嵯峨野流の存続のために、家は多岐にわたる事業を展開している。その一つが、週に一度開かれる玲也による華道レッスンだ。セレブなマダムたちを集めたその場は、単なる稽古の域を超え、社交の場として機能している。彼女たちの何気ない会話が、ときに経済界を左右する情報となることさえあるのだ。
華道の腕前自体は美玲の方が上だが、『嵯峨野家の貴公子』として玲也が担う役割は大きい。
「それが……」
「まさか……」
「はい。急用ができたので、あとは頼むとご伝言でした」
「……」
“急用”という言葉が意味するのは、恐らく女性とのデートだ。これまでにも幾度となく繰り返されてきたことで、美玲はそのたびに兄の尻拭いをさせられてきた。
「はぁ……」
深い溜息を吐きつつ、稽古場へと足を向ける。
***
屋敷の廊下を進むと、女性たちの華やかな声が耳に届いてくる。時折響く上品な笑い声が、和やかな空気を物語っていた。
「失礼いたします。お待たせして申し訳ありません」
「まあ、ごきげんよう。美玲さんじゃない。今日からサクライウエディングの長男の秘書になったと伺っているわよ」
正式に発表されたわけではない。だが、今朝から始まったばかりのはずの話を、既に彼女たちは当然のように知っていた。
「はい……その通りです」
「長男の秘書は長続きしないと聞いているの。困ったものね」
「本当に。まぁ、独身だから遊んでいるのでしょうけれど」
「こちらの貴公子も、今日はどこかへお出掛けのようですし」
この場において隠し事など不可能だった。美玲が姿を見せただけで、彼女たちは何もかも察してしまう。
「ところで美玲さん」
「はい」
「その格好……触れてよいものか迷ったのだけれど」
彼女たちの知る美玲は、才色兼備そのもの。普段の凛とした姿ではなく、眼鏡をかけた地味な装いに、明らかな戸惑いを見せていた。
「仕事を円滑に進めるには、こちらの方が適していると考えまして」
「ふふっ、そういうことね」
「確かに賢明な判断だわ」
誰もが納得したように頷く。
「けれど、これではレッスンに集中できないわ。いつもの姿を見せてちょうだい」
「畏まりました」
一度稽古場を出た美玲は、眼鏡を外し、髪をきちんと結い上げる。やがて凛とした着物姿へと戻り、再び堂々とその場へ現れた。
その表情は、嵯峨野流を背負っている凛々しい表情で、マダムたちも見惚れさせる――
コメント
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颯斗はいつ美玲ちゃんの素顔と本性を知るのかワクワクしちゃう💓 そして黒幕は一体誰なのか、颯斗と父親の貴斗は気付いているのか!こちらもワクワク!!!