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人の知る五種の炎を精緻に描いた厚い赤絨毯の上にレモニカは横座る。
ここはまるで謁見室のようで、広い空間を挟む壁には沢山の壁龕に納められた聖人の像が立ち並ぶ。そして明らかに不釣り合いで、無造作に置かれた石碑がいくつも壁際に並んでいた。室内にもかかわらず沢山の篝火が焚かれている。夜にあって溢れるほどの不躾な光が、部屋の隅々まで照らし出して、些細な闇も寄せ付けない。当然火の粉が降るが絨毯に織り込まれた不思議が阻む。
レモニカの姿は透き通るような銀の髪を肩で切り揃えたうら若き乙女になっている。その姿を嫌っている者は広間の奥、帳で隠された一角に輪郭を写している。しかしそれは玉座か何か、巨大な塊の影だ。
「懐かしいなあって気持ちがあるよ。分かるか? 懐古で郷愁なんだ。懐かしいって思ったなら、そこにいるべきではないってことさ」帳の向こうで女が淑やかに笑う。「今はもう老けてるよね、きっと。いや、それほどでもないかな? でも良いんだ。道を戻りたがるのは道を誤った者だけだからね。チェスタ、こっちに来てケブ何とかの姿を変えて」
後ろからチェスタが近づいてきて、レモニカの姿が再び魔法少女ユカリに変わる。
「で、これがユカリだね。間違えちゃうなんて、チェスタはおっちょこちょいだ」と帳の向こうの女は言う。
「心よりお詫び申し上げます、猊下」と朧げな顔のチェスタは謝罪する。
「大袈裟だな。別に謝らなくていいって。白紙の魔導書を奪われた君を咎めないワタシが何を咎めるものかね。ワタシは蹴躓いた者を鞭打つほど、悠長ではないんだ」
猊下と呼ばれた女、つまり大聖君にして第七聖女アルメノンは苦笑いするように吐息を漏らす。
「ご高配賜り恐悦至極に存じます」とチェスタは奏する。
「それでケブ何とか。本当の名前、教えてよ」とアルメノンが尋ねる。
レモニカは唇を固く結んで聖女の影を睨む。
「雄弁は太陽、虚偽は月、沈黙は闇だ。御母堂の御許へ行きたいか?」とアルメノンが言うと、チェスタが抜刀し、レモニカの背後に立つ。
レモニカは目を伏せて震える唇を開く。「……レモニカ、ですわ」
「実りか。良い名前じゃん。土肥え、水沃る所に隠れる者なしとも言うけどね。その変身する呪いについては何か知ってる?」とアルメノンは楽し気に問う。
「わたくしよりもこの呪いについて知っている者がいるとすれば呪いをかけた者だけですわ。わたくしが知りたいのは呪いを解く方法だけ」とレモニカは己を鼓舞するようにしっかりと言う。
「そっか。健気だねえ。呪いをかけた者に聞くのが一番だろうけど。まあ、そいつを殺した方が手っ取り早いよ。大抵の場合は、だけど」
「呪いをかけた者については、知りたくもあり、知りたくなくもあり。判明したところで死に至らしめるかどうかは別ですが」
「どうして? 呪いを解きたいんでしょ?」
「そもそも呪われた理由さえも知りませんもの。問答無用というわけにはいきませんわ」
「へえ、面白いね。そういうの興味あるな。相手の事情を慮る程度には余裕があるんだね。憧れる」帳の向こうでアルメノンが身じろぎする。「よし、レモニカも候補に入れよう。第二候補だ。第三候補だったかな」
チェスタの小さな舌打ちが聞こえた。レモニカには何が何だか分からなかった。
シャリューレはエーミとネドマリアと別れ、白樺の森を抜け、聖女の伽藍へと戻り、本殿へと侵入する。護女や尼僧の大半が眠りに就き、加護官の半数がいない聖女の伽藍へと侵入するのはシグニカに来て以来最も容易い任務だった。
ある意味ではグリシアン大陸において最も広く知られている魔導書『神助の秘扇』を聖堂奥の保管室で発見する。伝説にのみ生きている不死の鳥の羽根で作られたという、驚異の匂い立つ、目も眩む色彩の鮮やかな扇だ。地上にある全ての色と夢に見る色の半分がこの扇を構成している。
この扇で生み出した風こそが、聖女の奇跡とも称される万能の霊薬として大陸諸邦で珍重されているのだった。信徒の大半は魔導書などから生み出されているとは露とも知らないか、たとえそのような噂を聞いたとしても異教徒による難癖に過ぎないと信じる。実のところ救済機構の最も重要な財源に他ならない。シグニカも所属する都市連盟と対立する大王国の者であっても積み上げた金次第では用立てできた。
シャリューレは振り返り、秘された力を携えて、質素な保管室から聖堂へと戻る。上部へと広がる柱、細緻な壁画は高い天井へ近づくにつれ疎となり、極彩色は上昇とともに薄まり、円屋根には大きな空白が描かれている。隅に配された聖人像は熱を帯びた瞳で天を仰ぎ、躍動的な唇で祈りを捧げている。その全てが救済の乙女の降臨を待つ信徒のための象徴的な空間だ。
その聖堂が今や血みどろに汚されていた。伽藍を守る勇ましい僧兵たちは愚かにもシャリューレに挑み、そしてあえなく地に伏せ、朱の花を咲かせた。彼女らは勇ましいがゆえに、幾人倒れようとも最後の一人まで逃げることなく戦った。しかし侵入者を追い返すことができなかったばかりか、傷一つつけることさえできなかった。
呻き、慄き、シャリューレを呪う僧兵たちに、古巣へと戻って来た銀髪の侵入者はきびきびと語り掛ける。
「死にたくない者は欠損部位を固定してそこに並べ。私は機構のようにこの力を惜しみはしない」
僧兵たちは嗚咽を漏らしながら敵の慈悲を受け入れる準備を始める。比較的軽傷の者は血止めと痛み止めの呪いを行い、己の腕と足を探して血みどろの床を這いまわる。身動き取れない者のために手足を探す者はいなかったのでシャリューレがその任を負う。
準備を終えると、シャリューレは右手に剣を携えたまま左手に扇を構え、右から左に大きく振って、死に隣り合わせる者たちに失われた恒常性を取り戻す風を吹きつけた。シャリューレの膂力から生み出される癒しの風が唸りを上げ、まるで無数の亡霊が怒りのままに暴れ狂うように激しく聖堂に逆巻く。傷つき、死の際に微睡んでいた僧兵たちを此岸へと呼び戻す。死者以外の全てを救うといわれる秘宝の中の秘宝の恩恵が僧兵たちの無残な切傷と凍傷を癒す。切り離された手足を柔軟な不思議が繋ぎ、強靭な神秘が縫い合わせ、繊細な驚異が傷跡を修正する。確かに奇跡の如く尊い力を持つ魔導書だ。レモニカの呪いを解くことはできなかったが。
シャリューレは癒された僧兵たちの間を通って、聖堂の外へと向かう。そして扉の前で立ち止まり、振り返る。万全の体を取り戻したにもかかわらず、もう一度挑んでくる者は一人もいなかった。
シャリューレは僧兵だった頃のことを思い出す。挑まなくていい、諦めてもいい、などという教えを授かった覚えはなかった。僧にあって、慈悲をかけることはあれど乞うてはならない、と。情けをかけることはあれど乞うてはならない、と。
何か声をかけようとでも思ったのか、シャリューレは少しだけ唇を開いたが、そこから言葉が出てくることはなかった。
シャリューレは僧兵たちに背を向け、聖女の伽藍を出で、聖火の伽藍を目指す。三つの伽藍で構成される聖ミシャ大寺院の篝火台そのものでもある聖火の伽藍の方向は白樺の森の中にいても瞭然だ。