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『女優を過去から狙撃した男の裁判、始まる』
そんな新聞の見出しを濃い色のサングラスの下から小さな声で読み上げたのは、その裁判のために約ひと月ぶりにドイツ南部にやってきたノア・クルーガーだった。
事件直後はホテルで目を覚ましたあとにのどの渇きを覚える暇もなくひっきりなしにスマホに電話がかかってきたりメールやメッセージが旧知の人からそれこそたった一度会って連絡先を交換していた人からも届いていて、心身の疲れが取れていない所へのデジタルアタックに辟易した彼は、父に電話で事情を説明し、今後の対策については貴方達の友人でもある弁護士と相談をして欲しい、その時に決まったことだけを教えてくれと伝え、映画祭がひと段落したら行こうと決めていたバカンスに必ず三人で行こう、だからそれを目標に頑張ってくれ、愛していると父に直接、母にも伝言してもらい、マスコミが押しかけるホテルを早々に引き払ったのだ。
そもそもこの街の滞在予定は映画祭の前後を合わせて2週間ほどで、そろそろウィーンに戻って次の仕事の打ち合わせをしなければならないこともあり、まだ寝たきり状態の母を直視する勇気が持てない心を仕事というある種無敵の言い訳で包み隠した彼は、母の血を吸ったこの地を一刻も早く離れたい一心で空港に向かい、一番早くウィーンへと向かう飛行機に飛び乗ったのだ。
両親には申し訳ないが仕事だからと言い訳を内心で考えていた彼は、ウィーンに帰ってきた安堵に胸を撫で下ろすが、ドイツでの事件についての取材の申し込みが現地以上に殺到していることを、留守の間事務所を任せている事務員から悲鳴混じりに教えられて暗澹たる気持ちになっていた。
他国でマスコミに追いかけ回される不愉快さに耐えられずに母国に戻った彼を待っていたのは情報に飢えていたマスコミであったことはどんな皮肉よりも皮肉な事で、母の事件については弁護士に一任していること、彼女の容態になどについては夫のヴィルヘルムに聞いてくれ、己に出来ることは他の人達と同じように彼女の回復をただ祈る事だけだと翌日になって弁護士を通じて声明を発表し、しつこいマスコミ対策を弁護士の彼女に一任した彼は、ようやく静かになった事務所で事務員と一緒に次の仕事の段取りに掛かり、それでも両親がやはり心配だった為、海外での撮影の仕事は極力控え、遠くても飛行機で二時間程度の場所での仕事を中心にこなしていた。
そしてひと月近く経過した頃、母を狙撃したシュペーアの裁判が始まる事を父から教えられ、ちょうど仕事も一区切りついたことから一週間程度の休みを取ってドイツ南部の街に来ていたのだ。
母が入院している病院へと空港から真っ先に向かった彼は、マスコミの影がほとんど見えない事に安堵し、教えられていた病室へと向かう。
母の看護に付きっきりの父はどうやら病院近くに部屋を借りたらしく、そこから毎日通っては一日ごとに良くなる兆しを見せる母を支えているようで、空港に着いた事を連絡すると病院で待っているから来てくれとだけ返事があり、己の両親の仲の良さに感心していた。
そんな彼だったが、今回の来訪は裁判の傍聴と母の見舞い以外に事件の際に世話になった人々へのお礼を伝えたいとの想いがあり、連絡を取れる人には前もって訪問する事を伝えていた。
その中に刑事を通じて連絡を取ってもらい漸く会うことの出来る男がいて、今回の来訪は裁判や見舞いよりもその彼に会う事がメインだと言う密かな思いもあった。
それは、あの時世話になりながらもゆっくりと話をして礼を言う機会もなかった、己や父に良く似たリオンと言う名の男だった。
刑事からリオンについての極少量の情報は得ていたが、今回時間を作って会いに行きたい旨を事件直後は良い感情を持たなかった刑事に厚かましくも申し出た彼は、意外なほどあっさりとまた快く引き受けるだけではなく、本人から許可をもらったからと連絡先まで教えてもらえたのだ。
負傷した母の元に一番に駆けつけて応急処置をしてくれた彼に対しお礼を言えずにいたことがノアの中で微かに痛みを覚える棘になっていたが、これでその棘を抜くことが出来ると胸を撫で下ろしていた。
ただ、あの時考えた両親の家族関係や血縁者についての疑問がその棘の先端からまるで氷柱から雫が一滴ずつ落ちるかのように心の中に波紋を広げていたが、それを認知するには時間にも心にも余裕がなかったノアは、時折心に響く小さな音に気付きながらも決して意識をそちらに向けることはしなかった。
だから病室のドアを開けてそっと顔を出して様子を伺った室内で、早く来ないかと心待ちにしている両親の笑顔を見る瞬間まではその疑問に蓋をしていたのだ。
「いらっしゃい、ノア」
「久しぶりだね。元気そうだな」
ベッドを起こして寄りかかりながら震える手を必死に伸ばす母の顔とその隣に腰を下ろしてただ頷く父の涙の滲んだ目を見た瞬間、今までの苦労も何もかもが吹き飛び大股に駆け寄ったノアは、動けないことから筋肉が落ちて細くなってしまった母の腕がそれでも必死に己を抱きしめていることに気付いて唇を噛み締め必死に堪え、母の背をそっと抱く。
「……中々来れなくて悪い」
「気にしなくて良いのよ」
今日来てくれたのだからそれで良いと涙顔で笑う母に頷き、病室の窓辺に共演者やスタッフから送られたのであろう花が所狭しと飾られ、ああ、己の母は母であると同時にやはり女優でもあると奇妙な関心をしてしまうが、見舞いのカードや花の中にやはり己と同じファミリーネームの物を見いだす事が出来ず、蓋をしていた疑問が一気に胸の中に溢れかえる。
ドイツや母国のオーストリアの新聞だけではなく海外の新聞社も今回の事件を一度は大々的に報道していたはずだが、それを見ても連絡をしてこない、何の音沙汰もない家族や親戚は己が病院で思い浮かべた疑問の通り本当に存在するのだろうか。
それともその疑問は単なる妄想で、両親には本当に自分達以外の家族がいない、天涯孤独なのだろうか。
「ノア?」
「……あ、ああ、考え事をしてた」
母のキスを頬に受けて返し父にも同じようにした彼は、ベッドサイドにパイプ椅子を置いて腰を下ろし、新聞でも見たが裁判が始まる事、傍聴するつもりだけど裁判所に顔を出せばまたマスコミに追いかけ回されるから悩ましいと肩を竦めると、自分が証人として出廷するから問題ない、お前はお前の都合の良いようにしなさいと息子の気持ちを最優先してくれる父が頷いた為、ノアが素直に礼を言う。
「ダンケ、ウィル」
「気にするな。お前の母さんでもあるけれど、僕のマリーでもあるからね」
「ま、それもそうだな」
お前にとってはただ一人の母だろうが、自分にとってもただ一人の愛する妻だとその妻の肩を抱きながら臆面もなく告白する父に何も言えなかった息子だが、気になる事があると組んだ足の上で無意識に両手を組み、両手の親指を交互に回転させ始める。
「ノア?」
それが幼い頃から時折見せる癖だと知っている父が小首を傾げて息子を見ると、お見舞いの花やカードが沢山あるがウィルとマリーの家族からは何もないのかと両親の顔を直視する事が出来ないように口早に問いかけられて二人がいきなりどうしたと苦笑し出す。
「え?」
「今までそんな事を聞いたこともなかっただろう?」
一体どうしたと問われて目を瞬かせたノアは両親の顔を交互に見つめるが、逆に不思議そうに見つめ返してくる両親の顔は今まで見知ったもので、いや、何となく急に気になっただけだと己の疑問が大層馬鹿げた物だと言わんばかりに苦笑する。
「何となく、気になっただけ」
「そう? ……ねえ、ノア、しばらくこちらにいるつもり?」
「え? あ、ああ、一週間休みを取った。色々会いたい人がいるし」
母の問いに今後の予定を軽く説明した息子だったが、マリーの応急手当てをしてくれたリオンに直接会って礼を言ってくると伝えると父の身体に緊張が走ったようで、何事かとその顔を見つめると、しっかりとお礼を言って来てくれと丸投げされてしまい、今までの父の様子から何かがおかしいとノアの本能が囁きを発する。
「ウィル、一緒に行かないか?」
「え? い、いや、僕はマリーの側にいるよ。だから行ってきてくれ、ノア」
ただ一人の彼女で妻と臆面もなく言い放つほど愛している妻を真っ先に救護してくれた人への礼は本来ならば父がするのが相応しいと思っていたが、予想外の反応にノアが眉を寄せてどうしたと再度問いかける。
「ウィルは直接礼を言いたくないのか?」
負傷した妻を助けてくれた人へ感謝の思いを伝えたくないのかと父の思いが読み取れずに少しだけ語気を強くしたノアは、そうではないが今は離れたくないんだと頑なに同行を拒否する父に何も言えず、苛立ちを溜息に混ぜて吐き出すと前髪を掻き上げて再度溜息を零す。
「分かった、行ってくる」
「あ、ああ、頼む」
二人で行くのが本当はいいと思うのだけどと、未練がましく呟く息子に父はそれ以上何も言わずにただ頼むとしか返さなかった為、心配そうに見つめる母の頬に安心させるためのキスをし、今日はホテルを取ったからそこにいるつもりだが裁判に関してはウィルに任せる、自分が裁判所に出向けば騒ぎが大きくなる、それだけは避けたいとの思いを両親に伝える。
「分かっているわ。……何か素敵な写真が撮れたら見せてちょうだい」
「ああ。持ってくる。……ウィル、マリーを頼む」
「ああ」
裁判は午後からだからそれに間に合うように準備をするがランチを食べないかと父に誘われた息子だったが、先に済ませたい事があるからと誘いを断り二人の頬にもう一度キスをして母の病室を後にするのだった。
出て行く息子の背中を見送った両親だったが、ヴィルヘルムが沈鬱な表情でハイデマリーの肩を抱き、妻も必死に力を込めて夫を抱き返す。
「……ついに聞かれたな、マリー」
「……ええ、そうね……今まで気にしていなかったのがおかしかったのかも」
息子が何気なさを装って問いかけた言葉を両親も何気なさを装いながら受け止め別の話へと話題を逸らしたが、過去にも同じように無邪気な目で問いかけられた事があったことを思い出す。
あの頃はいくらでもごまかす事が出来たが、ノアも独り立ちをしたいい大人になったのだ、ごまかす事にも限界が来ているかも知れないと互いの瞳に同じ思いを見出した二人は、何も言わずに互いの緊張に震える体を抱きしめ合う。
「……潮時かも知れないな」
「そうね……でも、あなたがいるから大丈夫」
大切な一人息子を悲しませたり苦しませたりするかも知れないがあなたとならば絶対に乗り越えられると夫に肩を寄せてその顔を見上げた彼女は、夫の腕に強く抱き寄せられて安堵の溜息を自然とこぼす。
「……マリー、今はそれよりも先にきみのリハビリを考えよう」
「ええ、ええ、そうね」
息子への思いも大切だがまずそれより先に自分の力でベッドから降り立てるようになろうと笑う夫に妻も頷き、幾度目かもわからない女優としての復帰への道を諦めない決意を二人で改めて行い、苦痛の強いリハビリも二人で手を取って乗り越えようと頷きあうのだった。
妻を支えつつも夫の脳裏では流血した妻を介抱する若かりし頃の己にそっくりな男の顔が浮かんでは消えていたが、その顔を振り消すように頭を左右に振り、妻から訝った目で見られている事にも気付けないのだった。
父の不可解な言動にモヤモヤとしたものを抱え込んだまま病室を出たノアは、ランチの誘いを断ったがこれからどうしようかと病院からホテルへと向かって歩いて行た。
前回来た時は初夏を感じさせる気候だったが月が変わった今はすっかり真夏の様相で、照りつける日差しの強さにサングラスの下で目を細めるが、この炎天下の道路を歩くのはバカげていると気付き街路樹の陰に入って1つ溜息をつく。
真夏の蜃気楼が見えるのではと脳裏をよぎる暑さの中、周囲を行き交う人々は仕事の人もいれば旅行で訪れているらしい団体もいて、それぞれがそれぞれの時を生きているのだとふとそんなことを考えてしまい、暑さにやられたのかと苦笑する。
目の前を通り過ぎる妙齢の女性やその隣を歩く男性にも家族がいて、当然ながらその家族からまた子供が生まれ新たな家族を作って世界は繋がり広がっていくのだが、我が身にそれを置き換えた時、いつも穏やかに自分達を見守ってくれている父と多少の気の強さはあってもそれすらも魅力的に思わせる力を持った母で世界は終わってしまうのだ。
その先にもしかするとあるかも知れない世界へと無意識に手を伸ばしたノアは、強烈に光る太陽に掌を向けていたようで、指の間から差し込む光に目を細めて街路樹にもたれかかる。
眩しい太陽を仰いで目が痛いなど馬鹿かと己を嘲った時、ベストのポケットに入れていたスマホから着信音が流れ出し、気怠げに手に取って見知らぬ番号だった為に出るのを躊躇するが、指が滑って通話に出てしまう。
「……ハロ」
『……ノアの携帯であってるか?』
やる気を感じさせない声で返事をしたノアだったが、少しの沈黙の後に聞こえて来た声がつい先ほど病院で別れた父のもののように感じ、どうして俺の携帯かどうかを確認するんだ、いや、それよりもこの電話番号は誰のものだと問いかけようとした矢先、あれ、違う番号に掛けてしまったのかという舌打ち混じりの声が流れ込み、若干慌てながら俺の携帯で合っていると返すと安心感が伝わってくるような吐息が耳に流れ込む。
『何だ、間違ってなかったんだな。……コニーから連絡先を聞いて電話した。驚かせたな』
「……もしかして、リ……ヘル・ケーニヒ?」
こちらから連絡をするつもりだったリオンらしき男からの電話に街路樹から勢いよく背中を剥がしたノアは通りすがりの人に奇異な目で見られた事に気づき、少し離れた場所にある芝生まで歩いて行くと、ベンチに腰をおろして深呼吸をする。
『ノア? 今電話をしていても大丈夫か?』
「あ、ああ、……本当は俺から電話をしようと……」
『警部とコニーから話は聞いてた。礼なんてわざわざ言わなくても良いのにって思ったんだけどな』
電話の向こうから聞こえてくる声は無意識に安堵できる耳に心地良い低音で、事件の最中ゆっくり声を聞くどころか話をする暇も無かったと思い出し、あの時はありがとうと伝えてみると当たり前のことをしただけだから気にするなと、本当に気にしていないような声で笑われて微苦笑してしまう。
『その礼じゃねぇけどな、もしお前が良ければだけど、一緒にメシ食わないか?』
ノアの微苦笑についで返って来たのがやや躊躇いがちな食事の誘いだった為に蒼い目を瞬かせた後、一週間ぐらいこの街にいるから都合の良い日を教えて欲しいと逆に聞き返す返すと、今夜はどうだと問われて即座にOKと見えないのに頷いてしまう。
「大丈夫、だ」
『良かった。メシだけどツレがいても良いかな』
「え? ああ、全然問題ない」
『ダンケ。店はこっちで予約するから』
時間は7時ごろでその時間に店に行っておいて欲しいと言われ、時間も大丈夫だし店もショートメッセージで教えてくれれば大丈夫と答えたノアは、じゃあ一緒にメシを食えるのを楽しみにしていると、ほぼ初対面でざっくばらんなー人によっては失礼に感じる-口調に反発を覚えることもなく素直に頷き、こちらも楽しみにしていると返すだけで精一杯だった。
通話を終えたスマホをぼんやりと見つめ、礼を言う機会に恵まれるだけではなく何故か食事を一緒にする事になったと改めて気付き、初対面にも関わらずに他人の空似では収まらないほど似ていることから間違われ続けた理由の一端を知るチャンスかもしれないと胸が弾む。
両親に何気なさを装って問いかけても全く表情を変えずに流されてしまった、両親の先にいる見知らぬ祖父母や伯父伯母いとこの姿を脳裏に描くが、その見知らぬ人の中に明確に思い描くことの出来る数時間後に会う男の顔をはめ込み、このピースが何処かに当てはまれば面白いのにとぼんやりと思案するが、己でも想像出来なかった場所にそれがハマったとしたらと妄想し、そんな事はないと笑ってそれを打ち消す。
だがその時妄想だと打ち消したのがただの想像ではない、経験したことがないような痛みを伴う事実であることをこの時のノアは当然ながら知る由もなく、リオンとの再会に自分でもわからない理由から胸を踊らせ、真夏の暑さも忘れ去ってしまうのだった。
リオンと食事をするが前回ここに来た時に両親と一緒に訪れた予約の取りにくいレストランだと知り、良く予約が取れたと感心しつつ約束の時間ギリギリにタクシーで店の前に駆けつける。
窓から店内の様子を伺えば前回と同じで殆どのテーブルが客で埋まっていて、ノアが覗いている窓の近くのテーブルが違和感を覚えさせるように空いているだけだった。
怪しまれないように店内を見回したノアだったが、いきなりドアが開いてどうしてそんなに様子を窺っているんだ、いつものように入ってくれば良いのにと、まるで友人か何かのような親しさでギャルソンエプロンをした青年に笑顔で呼び掛けられて思わず飛び上がってしまう。
「……え?」
「……あれ、リオンじゃない?」
飛びのくノアに申し訳なさそうに頭に手を当てた青年が人違いをしたと肩を竦め、今日は満席ですが一人なら大丈夫ですよとさっきとは少し違う笑顔で店の中へと案内をしようとした為、さっきあなたが言ったリオンと待ち合わせをしているんだと自信なさげに伝える。
「ああ、リオンのお連れさんですか。どうぞ、席はちゃんと取ってあります」
その窓際の席へどうぞと唯一空いている窓際のテーブル席を笑顔で指差す店員に軽く会釈をし、開けてくれているドアをくぐって店内に入る。
以前来た時も好ましい賑やかさがある店だと思っていたが、今日は団体の客がいるからか、前回よりも少しだけ騒々しさを感じさせる繁盛ぶりだった。
そんな喧騒の中、料理が出来上がったことを伝える声やオーダーをする声などが重なり合い、活気にあふれた店だと好意的に目を細めたノアは、もうすぐ来ると思うのでこれでも食べて待っていてくれと、先ほどのスタッフがチーズと炭酸水を運んで来てくれる。
「あ、ありがとう」
スタッフが出してくれたそれを有り難く受け取りながらも他に料理が出て来るのを待っている人達のテーブルにはないものだった為に店側のサービスだと気付き、もしかするとリオンはこの店のオーナーの友人なのかも知れないと想像を働かせてしまう。
もしそうなら次にここに来たい時には頼めば予約を取ってもらえるかも知れない、そうすれば一緒に来るかも知れない誰かを喜ばせられるだろうともしものもしもを想像して一人肩を揺らしたノアだったが、カウンターの奥の厨房から見つめられては何やら内緒話をされている事に気付き、どうせリオンと似ている事を話しているのだろうともはや慣れてしまった話題のネタを提供していることに呆れてしまう。
呆れつつ炭酸水を飲んでいた時に窓の近くに白のBMWが停車し、運転席から降り立った人が浮かれたような足取りで助手席側に回り込んでドアを開ける。
きっと助手席に大切な人が乗っているんだろうなと己の両親を思い浮かべつつぼんやりと見ていたノアは、助手席から降り立ったのがステッキをついた自分より少し年上の男である事に気付き、ああ、足が不自由なのかと呟いてしまう。
その声が窓越しに聞こえた訳ではない筈なのにステッキをついた白髪が印象的な男が顔を向け、メガネの下のターコイズ色の双眸に一瞬見つめられた気がした彼は蒼い目を丸くしてしまうが、ほどなくして背後のドアが開いて軽快なドアベルの音が響いた事に気づいて振り返る。
「……」
「お待たせしました」
ドアを開けて入って来たのは先程のステッキをついた男で、約束の時間に間に合いましたかと穏やかな声で笑いかけながらノアの前に腰を下ろす。
「いらっしゃい、ウーヴェ。リオンは?」
「駐車場に車を止めに行った」
この人は一体誰だろうと顔中に疑問を浮かべたノアだったが、先程のスタッフが笑顔でテーブルに来たかと思うと何も言わずにグラスとビールを置いてリオンはと問いかけた為、今日のディナーの相手がやって来たのだと気付き、この人もこの店の常連なのかと新たな疑問を浮かべてしまう。
「……もうすぐリオンが来ますのでお待ちいただけますか、ヘル・クルーガー」
「大丈夫ですよ」
それより失礼だがあなたはと小さく名を問いかけたノアは、眼鏡の下で目を丸くした後に申し訳ないとステンレス製のカードケースから取り出した名刺を差し出されて受け取って名を確かめる。
「ウーヴェ・F・バルツァー?」
「はい。お会いできて嬉しいです、ヘル・クルーガー」
名刺と目の前の穏やかな顔を交互に見つめたノアは己も名刺がわりにと思いポストカードを差し出そうとすると、予想外な事に同じポストカードがテーブルに載せられて驚きに目を見張る。
「何処かでお会いしましたか?」
このカードは私が気に入った相手にしか渡していませんが渡した人を忘れたことなどない筈なのに目の前で穏やかな笑みを浮かべている男に見覚えがなかった為、今度は己の名刺と男の顔を交互に見る。
「いえ、初めてです。……これは以前あなたに貰ったと友人が見せてくれたものです」
今日会う事を伝えてその友人から借りて来ましたと笑った男にノアが何かを思い出そうとしているそぶりで天井を見上げ、ハールと思い出した名前を呟く。
「はい。花を専門に育てているハールは私の友人です」
この時期はひまわりを育てていませんでしたかと共通の友人がいる者特有の安堵の笑みを浮かべた彼にノアも同じ笑顔で頷き、確かに立派なひまわり畑を持っていたと思い出しそっと手を出す。
「ノア・クルーガーです。ノアで良いですよ」
「ありがとう。俺もウーヴェで構いません」
お互い共通の友人がいることだし丁寧に呼びかけるのも何だか尻のあたりがムズムズすると笑うノアにウーヴェも同じくと笑い、グラスのビールを一気に半分ほど飲んでしまう。
「あー、まーた先に飲んでるだろー」
ここの店の唯一無二の欠点はメシを食う前にオーヴェに酒を飲ませることだと厨房の方から陽気な不満が響き、ウーヴェがビールを喉に詰めそうになる。
「飲むなら何か食ってからにしろっていつも言ってるだろ?」
「……いや、今日は彼がいるから、つい……」
「あ、ノアのせいにするし。仕方ねぇなぁ」
厨房から料理を運んでくるスタッフの後を追いかけるようにやって来たのはようやく再会できたリオンで、ノアの前の皿からチーズを一つ摘んで口に運ぼうとするが、ウーヴェが咳払いをした事に気づいて先に椅子に座り隣の白皙の頬にお待たせのキスをする。
「……待たせた」
「俺よりも彼に言うべきだな」
「それもそうだな。……待たせちまったな、ノア」
「あ、ああ、いや、大丈夫」
目の前でごく自然に行われる一連の見慣れたそれ――いわゆる愛情表現――を呆然と見ていたノアだったが、同性愛者に対する偏見は自身でも持っていないと思っているしまた実際友人達の中にも幾人もいた為、ああ、仲の良いカップルだなとしか思わず、遅れてしまった事を詫びられても気にしていない為に今日は会えて嬉しいと笑みを浮かべて手を差し出す。
「……それにしても、本当に良く似ているな」
「そーだな。あの時も思ったけど見れば見るほどそっくりだよな」
ベンチチェストの中央に座るノアと向かいに並んで座ったリオンとウーヴェだが握手をする二人を横合いから見ていたウーヴェが感心の声を上げ、流石に二人もそれに反論できずに微苦笑するが、ウーヴェと同じ年代のシェフらしき人が肩にティータオルを引っ掛けた姿で現れ、テーブルの三人を見て驚愕に目を丸くする。
「何だ、リオンが二人いるみたいだな……間違ってたらアレだけど、前にナントカって女優と一緒に来てくれたよな?」
ひと月前の来店を覚えていたらしく、ああと短くノアが返すと同時に、そうだ、ハイディ・クルーガーだとシェフが呟きそれに応えるように三人がノアの顔を一斉に見つめる。
お母さんの具合はどうだ、リハビリをしているのかとウーヴェが心から案じてくれていることが伝わるような声で問いかけた為、ノアも驚きつつもくすんだ金髪を何度も上下させる。
「やっとベッドに起き上がれるようになった。次は自力で立てるようになるって……」
「そうか……自力でベッドから出られるようになれば、うん、大丈夫だな」
ウィーンで両親の友人知人にも同じことを言われたがそのどれよりもすんなりと心の内側に入り込んでくる声と言葉に不思議さを感じつつありがとうと礼を言うと、早く良くなって欲しいとも言われて素直に頷く。
「それもそうだな。……今日のオススメはTボーンステーキだ」
「あ、じゃあ俺それ。パンは要らない。オーヴェとノアはどうする?」
ここの料理は本当にどれも美味くて安いから腹一杯になるとメニューを見る事なく笑うリオンにウーヴェが微苦笑しながらノアに向けてメニューを広げてくれ、シェフが同じようにメニューを覗き込みながらオススメを紹介してくれる。
「……今日はチキンのハニーマスタードソースも良い出来だな」
「じゃあ俺はそれで。ウーヴェは?」
「俺は……」
「パンの代わりに黒ビールを飲むからビールだけってのはナシだぜ、オーヴェ」
「……生ハムとチーズのガレット。卵は要らない」
頬杖をつきながらニヤリと笑うリオンを横目で睨んだウーヴェがシェフの顔を見上げてぶっきら棒な声で注文するが、ガレットなどメニューにないとノアが気付き、ちらりとシェフを見上げるとそっぽを向くウーヴェにビールのお代わりを持ってくるから拗ねるなと笑って立ち去っていく。
「……あのシェフはリオンかウーヴェの友達?」
「この店のオーナーシェフで、俺の幼馴染だ」
ニヤニヤ笑うリオンの頬をむにっと引っ張って憂さ晴らしをしているらしいウーヴェだったがノアの疑問には丁寧に答え、だからどれだけ忙しくても電話一本でテーブルを用意してくれると笑い、痛いだろうが、チーズのように頬が伸びてしまったらどうするんだと文句を垂れつつウーヴェの手を外させたのを切っ掛けに運ばれて来たそれぞれのビールを手に乾杯と笑みを深くする。
「乾杯」
話したいことは色々あるが何はともあれ乾杯と笑うリオンに他の二人も頷き、料理が出て来るまでノアのフォトグラファーとしての仕事についてリオンが詳しく聞きたがり、いつかこの街で個展を開いて欲しいとウーヴェが笑顔で願望を伝える。
リオンと再会し己の中の疑問に何がしかの答えかもしくはそれに連なる何かを得られるかと期待していたノアは、気にはなりつつもリオンとウーヴェと話をしているだけで楽しく、まだ出会って間もないのに十年来の友人か何かのように二人の事を感じてしまうのだった。