夕食の仕度をしているだけなのに、いきなり竜也にからまれた。乱暴者で物を壊したとか誰かを怪我させたとか、学校からよく苦情が来る。
「うぜえんだよ、くそばばあ」
「お母さんの何がうざいの?」
「存在自体」
まだ小六の息子に心ない暴言を吐かれても困った顔で笑ってるだけの情けない私。
「〈くそばばあ〉なんて汚い言葉を使っちゃダメじゃん」
すかさず凛が弟をたしなめる。凛は中二の娘。家での態度は悪いけど、竜也と違い学校では友達が多くて、いい子で通っている。
「ちゃんとお母さんって呼ばないとね。お母さん、これからはお母さんって呼んであげるからお金ちょうだい。一万円でいいからさ」
「お母さん、お金なんて持ってないよ」
「知ってて馬鹿にしたんだよ。ホント使えないよね、このばばあは」
「姉ちゃんだって〈ばばあ〉って呼んでるじゃん!」
「あたしは頭に〈くそ〉ってつけてないから」
「ホントだ。やられた!」
姉弟で爆笑している。二人にとって私は家族でさえなく、家政婦以下のストレス解消の標的でしかないのだ。
子どもたちからは〈ばばあ〉と呼ばれ、夫からは〈おい〉だの〈馬鹿〉だのとののしられる。久しく名前で呼ばれていない。
麻生七海。それが私の名前。でもいいか。この名字に変わってから、いいことなんてなんにもなかったもの。そんな名前で呼ばれたいとも思わない。私が小倉七海だった頃、世界はもう少し優しかった気もする。私の心の拠り所はもう十五年以上前のその世界にしかない。
専業主婦なのにこの家の中に私の居場所はない。日中、夫や子どもが会社や学校に行ってるときも、舅や姑がいて一人きりになれるわけじゃない。
めったにないが、舅と姑が外出してるときだけがほっと一息つける時間。
「今の時間は?」
「明日の天気は?」
「テレビをつけて」
スマートスピーカーに意味もなく指示を出して、その通りにさせることだけが密かな楽しみ。この家で私を傷つけないものは猫のミケとこのスマートスピーカーだけだ。
スマートスピーカーに与えるお気に入りの指示は、
「私を褒めて」
と言うこと。スマートスピーカーはありったけの美辞麗句を私に投げ返してくれる。
「今日のあなたは最高にクールでクレバーでスマートですね。きっと今日も素晴らしい一日になることでしょう」
私はうっとりとスマートスピーカーの饒舌な口上に耳を傾ける。ただ難点があって、褒め言葉がいつも同じであること。
こればかりはどうしようもない。同じセリフを以前も聞いたことを忘れて聞いているしかない。
それにしても、楽しみは機械の褒め言葉を聞くことだけって、どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は高卒で就職してたった一年で寿退社してしまったけど、会社勤めしていた頃はまだ楽しいこともたくさんあったのに――