コメント
1件
十二月に入ってもしばらく暖かい日が続いていたが、数日前から急に寒くなった。重ね着の枚数が増え、エアコンの設定温度が4°C上がり、湿ったアスファルトの上を歩く時に少し恐怖を覚えるようになったが、これでいい。これこそが健全な冬の姿なのだ。
冷たさで千切れそうになる手でインスタントコーヒーを入れたカップを握る。包むようにコーヒーの温度が私を癒やしてくれる。生かしてくれる。
私は温度に生かされているのだ。
寒さで指が千切れそうになると、私にはいつも蘇る記憶があった。
あれは確か13年前の三朝温泉だった。
真冬だというのに野外ライブのイベントがあったのだ。『ロックフェスは夏だけのものじゃない!』と、まるで『ホラーは夏だけのものじゃない!』みたいなキャッチコピーを掲げ、物好きなどこかの馬鹿が企画したものらしかった。
冬のロックフェスはふつう、屋内でやるものだろう。冷気を湛えた体育館のような広い空間を、アーテイストと観客の熱で温めるものだ。寒風吹き荒ぶ野外の空気をどうやって温めるというのだ。
ネットでその話を知った時に無謀だと思った。絶対死者出るぞ、と。思い浮かべた。それで好奇心に誘われ、私はすぐさまチケットを買い、日イベント会場の星縄湖(仮)へ車で出掛けて行ったのだった。
三朝温泉に宿を取り、そこから車で山へ入って20分ほど走ると視界が開けた。雪を纏った森の中に、突然現れる丘の上には、私と同じような物好きのロックフアンたちが既に50人ぐらい集まっていた。
横なぐりに雪が飛ぶ中、設えられた大きなステージが、温められるのを待っていた。一体これから何が始まるのか、凍りついて既に生命を終えているようなこの光景の中で、人間は何を始めるつもりなのか。私はワクワクしながらポケットの中に5個詰めたホッカイ口を握りしめた。
出演アーティストは二組だった。出演するほうの物好きも少なかったわけだが、いただけでも驚きであった。どちらも比較的無名なロックバンドで、特に前座を務める『ティラノ』は、聞いたこともなかった。
どこでもいいから出演して、名前を知ってもらおうということなのだろう。さて、二組目のユーチューブでMV再生回数一万回弱を誇る先輩バンドのために客席を温めることができるかな?私が評論家のような偉そうな態度で、ガチガチと歯を鳴らしながら待っていると、爆発が起こった。
どーん!と、ステージ後ろに設置された大型モニターにオレンジ色の炎が映し出され、それと同時に激しい爆炎と爆発音が客席めがけて放たれたのだ。それに合わせて『ティラノ』のメンバーが颯爽とステージ上に現れた。全員真夏のような薄着で、黒や赤のビニールレザー一枚を身に纏い、鳥肌を吹き飛ばそうというように、既に激しく体を動かしていた。
「イエーイ!おまえら、熱くしてやるぜェーツ!」
金髪ヘビメタ頭のボーカルがマイクに熱い息を吹きかけ、氷点下の客席に向かって叫んだ。
「寒いからって薄着してんじゃねェぞーッ!内側から熱くなれば、寒さも吹き飛ばすぜェーッ!」
ギターがイントロのリフをぶちかました。
この寒さの中でよく指が動くな!?と感心してしまうほどに速く、激しいリフだった。
一曲が終わり、客席からチラホラと拍手が起こった。やはり寒すぎたのだろう、始まったばかりだというのに帰りはじめた者もいた。この頃には観客の数は70人ぐらいまで増えていたが、最後まで残っていた者は一人もいなかったということを先に書いておこう。
あまりの寒さに皆帰ってしまった・・・ということではない。このすぐ後に待っていた、戦慄の光景が、イベントを中止にさせてしまったのだ。
『ティラノ』のギタリストは漢だった。年齢はおそらく40歳ぐらいだが、ムキムキと逞しい腕とわき毛を黒いビニールレザーの衣裳から剥き出しにして、一人だけ最後まで寒さと戦っていた。
「あー・・・・・・。寒いからやっぱ、着るわ」と口にはしなかったが、ボーカルはじめ他のメンバーは、一曲目が終わるとそそくさと防寒着を取りはじめた。南極観測隊のようになってしまったバンドの中で、ギタリストだけが真夏の装いだった。魂を燃やせば内側から熱くなれるんだぜ!みたいな感じで、野生の獣のように、激しくギターを弾いていた。着ぐるみのようなアクションをするボーカルの隣で、彼はけっして冬の寒さに負けなかった。
異変は3曲目の途中で起こった。
ギターソロの時だ。寒さでかじかんだ指で鉄弦を擦り続けていたギタリストの指から、鮮血が遂に迸ったのだ。
白い風景の中に飛び散った血液は、離れた観客席から見ても生命の色に満ち溢れていて、誰もおそらく『あれは何だろう』とは思わなかった。一目でギタリストが出血したのだとわかった。それぐらいに鮮やかだったのだ。
そしてすぐにギタリストの指が千切れて飛んだ。さすがに飛んだのが指であるとはすぐには気づかなかった。
弦が切れたかピックが飛んだかしたのだと思った。しかし飛んだ人差し指が客席の女性の額に当たり、雪の上にさくりと落ち、鮮血の花をそこに咲かせた。女性の悲鳴で皆が異常事態を知ることとなった。
ギタリストはギターソロを弾き続けていた。他のメンバーはまだ気がついておらず、分厚い防寒着を纏った着ぐるみのような体をかわいくアクションさせていた。
ギタリストの手が、手首からぶっ千切れて飛んだ。
鮮血が色とりどりの照明に彩られ、メンバーたちがようやく異変に気づいた。しかしオロオロと何をすることも出来ず、みんなでギタリストを見守るしかないようだった。
ドラムが演奏を止めた。ベースだけがギターソロを応援するようにしばらく音を鳴らし続けていたが、やがてそれも止まった。ギタリストの腕に裂が入り、膨れあがったかと思うと、破裂したのだ。
それでもギタリストはソロを弾き続けていた。肉の絡みついた骨だけになった腕で、指板の上に音を刻み続けていた。その顔はまるでドラッグでもキメているかのように陶酔していて、だめになった自分の指を見つめながらも、ギターを弾くのをやめないのであった。
そしてギタリストはまるでギターに体を吸い取られるように、どんどんと肉を毟り取られていった。遂にはほぼ骨だけになってしまった。ビリビリと電気信号に動かされるように、しばらくはその姿でギターを弾き続けていたが、遂には骨もギターに吸い取られ、跡形もなくなってしまった。
ごとんと、空しい音を立てて、ギターだけがステージ上に落ち、転がった。
あのライブで私が学んだことは、人間の精神は肉体よりも強いということだった。
乾布摩擦や寒中水泳は人間の精神力の強さで行える。しかし、肉体はそんなもの関係ない。だめになる時は精神よりも先にだめになる。
あのギタリストはヒーローだった。それは間違いない。ロックに身を捧げ、あの場にいた約70名のあいだで伝説となって消えた。
しかし命は大切だ。人間は自然のままでいれば自然に殺されてしまう生き物なのだ。私は寒ければ暖房をつけ、暖かい衣服に身を包み、インスタントコーヒーの温かいカップを握りしめて生きようと思う。
END.