テラーノベル
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満月の夜。
六年生の長屋は、いつもより音が少なかった。
弦の部屋の前だけが、時間から切り離されたみたいに静まり返っている。
……コン。
小さく、遠慮がちな音。
返事はない。
それでも、扉の前に立っている影は動かなかった。
「弦」
低く、落ち着いた声。留三郎だった。
「飯、置いとくぞ」
扉は開かない。
中から聞こえるのは、布擦れの音と、かすかな息遣いだけ。
「無理に食わなくていい」
そう前置きしてから、留三郎は続ける。
「話さなくてもいいからさ」
床に腰を下ろす音がした。
「俺、ここに居る」
それだけだった。
しばらくして、反対側から別の気配が増える。
伊作、仙蔵、文次郎、長次、小平太。
誰も声を張らない。
誰も、扉を開けようとしない。
ただ、そこにいる。
部屋の中。
弦はベッドの上で膝を抱えたまま、微かに顔を上げた。
扉の向こうから伝わる、人の気配。
話しかけてこない。
踏み込んでもこない。
それが、今はありがたかった。
「……」
喉が震える。
声を出せば、壊れてしまいそうで。
でも——
布団を握る指が、ほんの少しだけ緩んだ。
痛みは消えない。
記憶も消えない。
それでも、独りじゃない。
「……ありがと」
聞こえるか分からないほど小さな声。
廊下にいた六年生たちは、誰一人反応しなかった。
聞こえなかったふりをしたまま、ただそこに座り続ける。
満月が、少しずつ傾いていく。
その夜、弦は飯に手をつけなかった。
けれど、朝になった時——
器は空になっていた。
それだけで、十分だった。
朝の気配が、障子越しに差し込む。
満月はもう沈んでいた。
弦はゆっくりと目を開ける。
眠れたとは言えない。それでも、目を閉じているだけの夜とは違った。
体を起こすと、昨夜届けられた膳が目に入る。
空になった器。
「……」
無意識のうちに、食べていたらしい。
それに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
——あいつら、まだいるんだろうか。
障子の向こうに気配はない。
けれど、廊下の空気はどこか変わっていた。
弦は立ち上がり、ふらつきながらも障子に手をかける。
……すっ。
開けた先。
「お、起きたか」
一番最初に目に入ったのは、小平太だった。
何事もなかったみたいに腕を組んで立っている。
「弦! 朝稽古行こうぜ!」
「馬鹿、様子見ろ」
文次郎がすかさず突っ込む。
「……無理は禁物だよ」
伊作が、いつもの穏やかな笑みで言った。
「でも、顔が見られてよかった」
弦は一瞬、言葉に詰まる。
昨日までなら、きっとここで謝っていた。
——心配かけてごめん。
——迷惑かけてごめん。
でも今日は、違った。
「……昨日」
小さく、けれどはっきりと弦は言った。
「ここに居るって、言ってただろ」
留三郎が、肩をすくめる。
「言ったな」
「……助かった」
一拍置いて、長次がもそっと。
「独りじゃなかった」
その言葉に、弦は少しだけ目を伏せてから、頷いた。
「……ああ」
短い返事。
それでも、確かに前を向いた声だった。
仙蔵が静かに言う。
「満月の日は、無理に出なくていい」
「だが」
と、文次郎。
「出たくなったら、声をかけろ」
小平太が笑う。
「近接戦なら、弦の場所は決まってるだろ?」
その言葉に、弦は一瞬だけ目を見開き——
ほんのわずかに、口元を緩めた。
完全な笑顔じゃない。
でも、確かに“弦の表情”だった。
「……ああ」
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