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冬が近づく街並は灰色の雲に覆われていた日中からあっという間に太陽が寝床に帰ってしまう夜を迎えていて、いつものように仕事を終えたウーヴェが二重窓の外を見下ろしつつ沈鬱な表情で溜息を吐く。
今日の患者は特に気を使う人達ばかりではなかったが、午後の診察が始まる頃には気分が沈み始めたのを自覚し、今日の診察が全て終わったことを優秀な助手であり事務全般を任せているリアに教えられた時にはどうしようもない程気分が沈み込んでいた。
己の気分の浮き沈みが何に由来するのかが分かっているだけでもまだマシかと、己の気持ちが自然なもので仕方のないものだと自己弁護の言葉を曇る窓ガラスに吐き出して気分転換を図ろうとするが、上手くいく自信が全くなく、再度溜息を零した時、診察室のドアが壊れそうな音を立てる。
「!?」
その物音はすっかり耳馴染みのあるものになっているが、不意打のように聞かされるとやはり身体が竦んでしまい、どうぞと嗄れた声で入室の許可を与えると、冬の気配を全身に纏った金色の嵐が駆け込んでくる。
「ハロ、オーヴェ! 今日も一日頑張って来たー!」
だから褒めろ今すぐ褒めろ、褒めるのは言葉だけではなくキスもセットにしてくれと、子供のような笑顔で大人の狡猾さを覆い隠したリオンがまくし立てる言葉に何も返せずにただ溜息を三度こぼしたウーヴェだったが、つい今し方まで感じていた沈鬱な気持ちがわずかに軽くなっていることに気付き、メガネをそっと外した手でリオンを手招きする。
「どーした?」
「……お疲れ様、お帰り、リーオ」
小首を傾げつつ大股にやってくるリオンに小さく笑みを浮かべたウーヴェは、疑問には直接答えずにメガネを背後のお気に入りのチェアに投げ捨てると、左足を引きずってリオンの前に向かうが、ウーヴェの真意を読み取ったリオンがさらに一歩を踏み出して痩躯を抱きしめる。
「今日さ、俺の好物だってヴィルマがチョコをくれたのにボスに食われた」
「そう、なのか?」
「そう! 腹が立ったからボスが隠していたビスケット全部食ってやった」
明日ムッティが来るとかどうこう言っていたが知るかと己の肩に顎を乗せながら鼻を啜るリオンに何と返せば良いのかが分からなかったウーヴェだったが、父の今日の激怒具合と明日の落ち込み具合に想いを馳せた瞬間、フォローのメールを送った方がいいだろうかと思案するものの、覗き込んだリオンのロイヤルブルーの双眸に浮かぶ色がイタズラ小僧の物だったため、フォローなどする必要はないと胸中で前言撤回をする。
「いい加減にしないとひどい目に遭うぞ」
「ひでぇのはボスだから良いんだよ」
いや、今の話を聞いて一番ひどいことをしているのは間違い無くお前だと言いたいのをグッとこらえて無言で頭を左右に振ったウーヴェは、それよりも何か忘れていないかと問われて軽く目を見張るが、小さな音を立てて不満未満に尖る唇にキスをする。
「お疲れさま」
「うん。オーヴェもお疲れ。……今日だろ、あいつが帰って来るの。連絡あったのか?」
「……」
午後から気持ちが沈んでいた理由を問われて沈黙してしまったウーヴェは、もうすぐ中央駅に着くこと、着いたらまた連絡をすることをショートメッセージで送られてきたと呟き、リオンの腰に両腕を回して肩に頬を宛てがう。
「……どうした」
「……どうしたいのか、分からない……」
何年前だろうか、アイガーで一人遭難して命を落とした友人の遺体が本当に運と関係者の絶大な努力の結果引き揚げられて生まれ育った街に帰還することができるようになり、今まさにこちらに向かっているのだが、分からないと再度呟くウーヴェの肩をそっと抱きしめたリオンは、会いたいのなら会えば良い、心がざわつくのならまだその時じゃないから会わなくてもいいと告げ、白とも銀ともつかない髪にキスをする。
「でも……墓に埋葬すれば……」
「確かに顔を見る最後の機会だな。……顔を見て平静でいられるか反吐を吐きたくなるか、唾でも吐きかけたくなるかも知れねぇなぁ」
でも、その時にお前が感じた気持ちはお前の素直なものだ、否定することも抑制することもしないし誰にもさせない、だからお前が望むようにすればいい。
低いが意志の強い声で囁かれるそれにウーヴェが無言で頷くもののそれが己を第一に思っての言葉であることも理解しているため、本当にどうしたいのかが分からないと、今の己の逡巡を素直に伝えると優しいキスが髪やこめかみに降って来る。
「優しいオーヴェ。お前が望むようにすればいい。あいつの気持ちを今は考えるな」
二度と見ることができないと思っていた友の顔だが、あの夜の出来事を思い出すだけでは無く最も辛かった事件も引き摺り出されてしまいそうになるのなら、顔は見ないで送別会にだけ参加し、心の底から行きたいと願った時に墓に花を供えればいいと逡巡も不安もしっかりと見抜いている声に安堵の溜息を無意識に零したウーヴェは、腰に回した腕に力を込めて何度目かのため息を分厚い胸板に吐きつける。
「……分からない……会って、どう、なるか……」
本当に分からないがやらずに後悔するよりもやった方がいいとウーヴェの心の奥底で何かが変化をしたことを示す言葉をポツリと呟くと、リオンの手がウーヴェの頬を両手で挟んで視線を合わすように覗き込んで来る。
「……会いに行くか?」
「……行き、たい」
「ん、分かった。行ってこい、オーヴェ」
あの夜を乗り越えるために必要ならば顔を見てこい、そして、何故あんなことをしたんだバカ野郎と罵って来いと子供のような顔で太い笑みを見せつけられ、つい自然と口の端を持ち上げてしまうがそれはリオンとは比べられないほどの微かな笑みで、リオンの親指が口の端をグイと撫でて笑みを深められ、至近で見せられた眩しいような笑顔に目を見張る。
「俺も一緒にいる。だから行ってこい、オーヴェ」
何があってもお前の側を離れない、約束だと囁きながら額と額を重ねたリオンが自信満々に言い放ち、ウーヴェの口から自然な笑い声を零させる。
「バカ野郎なんて言ったことがないから言えないな」
「さすがオーヴェ。じゃあさ、クソッタレは?」
「……調子に乗るな、リオン・フーベルト」
リオンと違って罵詈雑言が周囲に溢れている環境で育ったわけではないウーヴェが他人を口汚く罵ることなどないのを誰よりも理解しているリオンがふざけた口調で問いかけると、途端にウーヴェの瞼が平らになり、今度はウーヴェの手がリオンのピアスの嵌った耳朶をギュッと摘んだ為にお決まりの悲鳴をあげる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、お願い許してオーヴェ!!」
もう二度とクソッタレの山男なんて言いませんと宣言する割には堂々と言い放つリオンをジロリと睨んだウーヴェだったが、デスクに置いたスマホから着信音が流れ出したことに気付き、顔をそちらへと向ける。
「……マウリッツからだぜ」
「駅に着いたんだろうな」
リオンが差し出してくれるそれを受け取り少し緊張しつつ耳に宛てがったウーヴェは、マウリッツが今中央駅に着いたこと、この後ドナルドが通っている教会に連れて行くことを教えられ、良ければきみも来て欲しいとひっそりとした声に懇願されて小さく頷く。
「……ああ、すぐにこちらを出る。ただリオンも一緒に行く」
『うん。そうだね。教会の住所をメッセージで送るから、あっちで合流しようか』
電話の向こうで明からさまに安堵のため息を零す友人の横顔を脳裏に描き、メッセージで教えられる住所に向かう事を再度伝えたウーヴェは、通話を終えると同時にリオンが背後からそっと抱き締めていたことに気付き軽く力を抜いてもたれかかる。
「ドナルドの家の近くの教会に運ぶそうだ」
「そっか。じゃあ帰る用意して行こうぜ」
「ああ」
クリニックの戸締りをし、教えられた教会に向かおうと頬にキスをされて頷いたウーヴェは、チェアに投げ出したままのメガネを取ってくれとリオンに頼むと各部屋の戸締りを確認し、リオンが持ってきたメガネとコートを受け取って袖を通す。
「そう言えば、誕生日プレゼントにノルがくれたベストは着ないのか?」
去年のクリスマスと誕生日を兼ねたプレゼントにとギュンター・ノルベルトがリオンに贈ったのは、一見するだけでも高級だと分かるダウンのベストで、受け取ったリオンも感動のあまり呆然としてしまうほどだった。
それを着ないのかと問われたリオンの肩がひょいと上下し、あんな高級品を日常に着る事など出来ない、オーヴェとのデートに着ると答えた為に何とも言えなかったウーヴェだったが、己がプレゼントしたジャケットの下に着るカシミヤのベストも同じ理由でクローゼットの中にある事を思い出し、着ればいいのにと小さく笑う。
「何か言ったか、オーヴェ?」
「何でもない。早く行こうか」
「ん、行こう」
リオンの腕に手を回し、片手でステッキを突いて診察室を後にしたウーヴェは、クリニック全体の戸締りを最終確認した後、両開きの重厚なドアに診察終了の札をぶら下げ、エレベーターへと続く廊下をゆっくりと進んで行く。
「今日さ、晩飯どうする、オーヴェ」
「そう、だな……正直な話、考えられない」
「それもそうか。マウリッツもどうするかだけど、あれなら三人で食いに行ってもいいな」
だが、とにかく今は教えてもらった教会に向かおうと笑うリオンに無言で頷いたウーヴェは、その教会をリオンが知っていたことから胸を撫で下ろし、リオンが運転席に乗り込んだのを見計らうとその頬にキスをする。
「安全運転で頼む」
「りょーかい」
お前と俺の為に安全運転を心掛けましょうと笑うリオンに頼むと再度呟いたウーヴェだったが、車が教会前に到着するまで口を開くことはないのだった。