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佐久〇大介、30歳。
都内のとある中堅企業・企画開発部勤務。朝はギリギリに出社、昼はコンビニで済ませ、夜はアニメを見てから寝るという、ごく普通──に見える社会人生活。
「うわっ、また寝坊した!」
口癖のように言いながらシャツを片手で着て、歯ブラシをくわえてパソコンを立ち上げる姿は、あわてんぼうで少し抜けてるが憎めない。社内でも、後輩には親しまれ、先輩にはうまくいなされている。
だけど。
恋愛経験だけは──見事にゼロ。彼女いない歴=年齢、30年。
中学時代はずっと部活で忙しく、高校時代はオタク仲間とワイワイ過ごし、大学ではサークルとバイトでなんとなく。
気がつけば、金曜夜の楽しみは「深夜アニメのリアタイ」、夏の恒例行事は「コミケ参戦」、土曜の午後は「フィギュアのメンテ」。
女子と話すのが苦手なわけじゃない。ただ、付き合いたいと思う前に「オタク引かれたらどうしよう」と自分でブレーキをかけてしまう。
「ま、別に恋愛しなくても人生楽しいし」
そう思ってた。少なくとも、誕生日を迎えるまでは──。
朝からやけに眩しかった。
目覚ましのアラームを何度もスヌーズした末にようやく布団を抜け出した僕、佐久間大輔は、カレンダーを見て固まった。そこには、でかでかと赤字で「30歳 誕生日」と書かれていた。
「うっそ、今日じゃん……」
彼女いない歴=年齢、気がつけば三十路になってしまった。大学時代から変わらぬ趣味——アニメと漫画とフィギュアの世界にどっぷり浸かりつつ、仕事はそこそこ、友人付き合いもそこそこ、恋愛は完全スルー。何も不満がなかったわけじゃないけど、日々楽しく過ごせていたと思う。
だけど、何かが変わった。
出勤ラッシュの電車。いつものように吊り革につかまりながら、スマホで昨晩のアニメの感想をチェックしていたそのときだった。
ぐらりと揺れた車内で、隣のサラリーマンの肩に軽くぶつかった。その瞬間——
『この会議、またあの課長の長話だろ……早く帰りてえなあ』
はっきりと、頭の中に、誰かの声が響いた。
誰か……って、今の……この人?
驚いて顔を上げると、隣の男性は無表情でスマホを見ていた。けれど、その口元がほんの少しだけ不満げに歪んでいるのを見て、妙に納得してしまった。
気のせい。寝不足のせい。そう思い込もうとしたけど、そのあとも——
ホームに着いて流れるように人と肩がぶつかるたび、腕が触れるたび、頭の中に誰かの思考が滑り込んできた。
『プレゼン、やっぱり俺に回ってきたか……最悪』
『今夜、どうやって断ろう……めんどくさいなあ』
まるでナレーションのように響くその声たちは、どれも自分のものじゃない。けれど妙にリアルで、その人の表情やしぐさとリンクしているように思えた。
混乱しながら職場に着いて、ようやく落ち着いたと思った矢先。
「おはようございます」
声をかけてきた同僚と軽く握手をした瞬間——
『あ、今日も佐久間さん髪跳ねてる……』
「…………は?」
声にならない声が、のどの奥で引っかかった。
振り返っても、その人はにこにこと笑っていて、僕の驚いた様子には気づいていないようだった。
これは夢か? 幻覚か? それとも、疲れてるのか?
でも、それにしては——あまりにも、鮮明すぎた。
そして、記憶の奥からふと蘇ったフレーズ。
「……30歳まで童貞だと、魔法使いになれる……とか?」
どこかのネット掲示板で見たネタのような言葉。でも今、その冗談が、現実として目の前に広がっていた。
まさか、そんな……いや、でも、じゃあこの現象は?
心の声が聞こえる。 触れた人の、本音が、そのまま頭に入ってくる。
冗談じゃなく、現実として。
新しい一日が始まったばかりだというのに、俺はすでにエネルギーを使い果たしたような気分だった。
とにかく今日は、何も起きずに静かに終わってくれ……そう願いながら、昼過ぎの会議に向かってエレベーターホールへ向かった。
俺がボタンを押してしばらく待っていると、チンという音とともに扉が開いた。誰も乗っていなかったことにホッとして中に入り、奥のボタンを押した——その瞬間。
「すみません、いいですか」
ひょいっと細身のスーツ姿が滑り込んできた。ギリギリのタイミングだったが、扉は無事に閉まる。そして俺の隣に立ったその人をちらりと見た瞬間、心臓が跳ねた。
阿〇亮平。
営業部のエース、誰もが認める優秀な男。真面目で、クールで、滅多に感情を顔に出さない。そんな阿部と、まさかの二人きり。
……ああ、緊張してきた。
沈黙が続く中、エレベーターがゆっくりと動き出す。
その時、突然ガクンと揺れた。バランスを崩しそうになった俺に、横から誰かの腕が伸びる——反射的に、俺の肩に手が置かれた。
近い。近すぎる。
振り向けば、阿部の顔がすぐそこにあった。整った顔立ちと、すっと通った鼻筋、冷静なはずの瞳が一瞬、揺れている。
……あ、やばい。
次の瞬間、頭の奥に、声が響いた。
『しまった、支えたふりして……俺、何やってんだ……! てか、近……やば……佐久間くんの髪、今日ちょっと跳ねてる……可愛いって思ってしまった……』
息が止まりかけた。
は? いま、なんて?
その声は、明らかに阿部のものだった。そしてそれは、俺に対する——好意? いや、いやいやいや、そんなはずない。たまたま、だろ?
だが、肩に置かれた阿部の手が離れる気配はない。それどころか、もう一つ心の声が流れ込んでくる。
『落ち着け……顔近い……けど、こんな距離で目が合うの、ずるい……ドキドキ止まんない……』
俺は固まった。
阿部の顔は普段通りだった。少なくとも、外から見る限りは。だけど心の中では、こんなにも俺のことで……?
「す、すみません、大丈夫です!」
思わず半歩下がって、阿部の手を振り払うように逃げてしまった。ドアが開いた音も、誰かが待っている気配も、何もかもが遠く聞こえる。
俺、今……なんて声、聞いちゃったんだ……?
逃げるようにエレベーターを降りた俺は、そのまま真っ直ぐ会議室に向かった。
心臓の鼓動はバクバクで、手に持っていた資料の角が微かに震えているのが自分でもわかる。
(……いやいやいや、落ち着け俺。あれはたまたま、そう、たまたま……)
必死で言い聞かせるが、頭の中ではさっきの声が何度もリフレインしていた。
『近……やば……』『髪、可愛い』『ドキドキ止まんない』
(何言ってんだ阿部さん……って、何で俺が動揺してんの!?)
もう訳が分からない。
魔法だの心の声だのって話は一旦置いといても、阿部が俺に……って、それが本当だとしたら、色々おかしいだろ。
……でも、心の声じゃなくて、あのときの目も、なんか、ほんの少しだけ熱を帯びてた気がして。
(だーもう! 仕事しよう!)
会議室に入ると、ちょうど進行役が議題を読み上げ始めた。タイミングとしては完璧だが、俺の頭の中は全然ついていけていなかった。
発言を求められてもワンテンポ遅れ、資料の説明でも噛んでしまい、周囲から「佐久間くん、どうしたの?」という視線が飛んでくる。
「すみません……ちょっと寝不足で……」
言い訳は苦しい。けどこれ以上突っ込まれたら、変に勘ぐられるよりはマシだった。
午前中の会議をどうにか乗り切り、自席に戻ってパソコンを開いたものの、全然頭に入ってこない。
ディスプレイに映る文字が、ただの記号みたいに感じる。
(落ち着け、俺。冷静に考えよう。……魔法? 本当に? それが本当だとして、阿部ちゃんの気持ちが……いやいやいや、気のせい。俺が変な夢でも見てるだけ)
しかし、背後からふと気配を感じて振り返ると、阿部が数メートル先の別チームのデスクに立っていた。
少しだけ俺のほうに目を向けた気がして、慌てて前を向く。
(あーもう! これじゃ仕事にならない!)
とにかく俺は、午後のタスクを一つでもこなすことで、自分の平静を取り戻そうと必死だった。が、心の奥ではまだ、あの「聞いてはいけない声」が、静かに、でも確実にこだましていた。
午後もずっと、集中できなかった。
見ようとするほどに文字はぼやけ、考えようとすればするほど、エレベーターでの出来事が脳内にフラッシュバックしてきた。
結局、大事な会議資料のチェックをうっかり飛ばしていたことに気づいたのは、もう定時直前だった。
「……やば……」
小さくつぶやいた声が震えた。上長から確認依頼が入っていたその資料は、今夜中に取引先へ送る予定のものだった。
慌てて再チェックしようとしたが、途中で送ったバージョンが間違っていたと気づき、血の気が引く。
(うそ……上書きしてる……!?)
慌てて各所に謝罪のチャットを送りつつ、顔から汗が噴き出す。作業は膨大。やり直しの書類も多い。しかも、他の皆はすでに退勤モード。
次第に、オフィスの灯りが一つ、また一つと消えていく。
気づけば、フロアに残っているのは、俺と、ほんの数人の社員だけだった。
ディスプレイの青白い光に照らされながら、キーボードを叩く。頭の中は真っ白だ。タイピング音だけが、静まり返った空間に響いていた。
(どうしてこんなことに……)
理由はわかってる。集中できなかったのは、自分のせいだ。いや、魔法のせいだ。……そして、阿部ちゃんの。
時計を見ると、すでに23時を回っていた。終電の時間もとうに過ぎている。俺はコーヒーの紙カップを見つめながら、溜息を吐いた。
今日中に仕上げなきゃいけないのに、全然終わらない。目がしょぼしょぼして、肩も痛い。疲れすぎて逆に眠気すら来ない。
そのときだった。
「まだやってたの?」
ふいに、後ろから柔らかい声がした。
振り返ると、そこにいたのは——阿部亮平だった。
スーツの上着は脱いで腕にかけていて、ネクタイも少し緩めている。そのラフな姿が、どうしてか妙にドキッとした。
「あ……あれ、阿部さん、まだ……」
「ちょっと資料忘れて。戻ってきたら電気ついてたから」
手には、二つの缶コーヒーが握られていた。そのうちの一つを俺に差し出してくる。
「よかったら。甘いやつ」
言われるままに受け取ったけど、俺はきっと変な顔をしてたと思う。
「顔、疲れてるよ。……手伝おうか?」
目が合った。その一言が、なんだかすごく優しくて。言葉に詰まって、俺はただ、かすかに頷いた。
「……ここ、数字ずれてる。前ページと整合とれてないかも」
「……あ、ほんとだ……ありがとう」
黙々と並んでパソコンに向かい、必要な修正を手分けして進めていく。気まずいようで、落ち着くような沈黙が流れていた。
けれど、しばらくしてふと、阿部が口を開いた。
「……俺のこと、“阿部さん”って呼ぶんだね」
「え?」
作業中だった手が止まる。
「いや、同じ会社で、そんなに年も変わらないのに、なんか……他人行儀っていうか。ずっと距離ある感じ?」
「……ああー、たしかに」
たしかに、社内では基本的に“さん付け”が多いけど、こうやってプライベートみたいな空気で並んでると、不思議と名前の呼び方が気になるのかもしれない。
「じゃあさ……“阿部ちゃん”って呼んでいい? 俺もさ、“佐久間”でいいから」
思わず口にしていた。普段だったら言えないことでも、今この状況だから言えたのかもしれない。
阿部が少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと柔らかく笑った。
「阿部ちゃん……なんか、悪くないかも」
「でしょ。じゃあ決まり」
「うん……じゃあ、佐久間。よろしく」
呼ばれ慣れない“佐久間”という響きが、なんだかやけにドキッとする。いつもと同じ名前なのに、声のトーンだけで全然違って聞こえるのがズルい。
作業は順調に進んでいた。けれど、胸の内側は妙にざわついていて、集中しようとすればするほど、阿部ちゃん——阿部の声が、頭から離れなかった。
修正ファイルをクラウドにアップロードし終えた瞬間、俺たちはそろって椅子にもたれかかった。
「……ふぅー……終わったぁ……」
「お疲れさま、佐久間」
さっきから呼び方が変わっただけなのに、なんでこんなに照れるんだろう。名前を呼ばれるたびに、胸の奥がじんわり熱を帯びるような、くすぐったい感覚がある。
気づけば時計はすでに0時を回っていた。
「……あ、終電」
ぽつりと呟いた俺の言葉に、阿部がスマホを取り出して時間を確認する。
「うん、もうないね。タクシー拾うのも微妙な時間だし……」
「……だね」
静かなオフィスに、エアコンの低い音だけが響く。残業のあとって、独特の時間が流れてる気がする。日中は雑然としていた空間が、今はまるで別の場所みたいに感じられた。
「……うち、来る?」
阿部の声に、俺の思考が止まる。
「えっ」
「別に、泊まってけってわけじゃなくてもいいけど。少し休んでから帰ってもいいし。ソファもあるし、俺もまだ起きてるし」
その言葉は、思っていたよりもずっとあっさりとしていて、でも確かにあたたかかった。気遣いのつもりだってわかってる。けど……それでも、阿部が俺のことをそうやって気にかけてくれるのが、うれしかった。
タクシー代を出す気力も、判断力も、もう残ってない。だけど阿部のその一言が、妙に心地よくて、つい甘えたくなってしまう。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……お邪魔します」
阿部が笑った。その笑顔が、優しくて、柔らかくて、なんだかずるいと思った。
阿部の家に行くなんて、こんな展開、普通はありえない。
会社の同僚、それもエースで、仕事ができて、かっこよくて、なんでもそつなくこなす人の家に、俺みたいなのが行っていいのかって、正直ずっと迷ってた。
だけど、帰れないのは事実で。阿部ちゃんの申し出を断る理由も見つからなくて。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り、部屋の前に立つまでの数分間、ずっと心臓が変な音を立てていた。
阿部ちゃんが鍵を開けて、「どうぞ」と微笑んだとき、俺は思わず少し距離を取ってしまった。
そのとき、阿部の手が自然に俺の背中を軽く押した。その一瞬、触れた指先から、また“声”が流れてきた。
『ちゃんと休ませてあげたい……無理させたくない』
その心の声は、あまりにも真っすぐで、清らかで、やましさなんて欠片もなかった。
本当に、ただ俺を気遣ってくれてるだけ——それが伝わってきて、胸の奥がキュッと締めつけられた。
(阿部ちゃん……ごめん)
疑った自分が恥ずかしかった。変な期待とか、勘ぐりとか、全部自分の中だけで膨らませていたことに気づいて、申し訳なくなった。
阿部が笑った。その笑顔が、優しくて、柔らかくて、なんだかずるいと思った。
――――阿部の部屋は、想像以上にきれいだった。シンプルだけどこだわりがあって、落ち着いたトーンの家具が配置されている。どこかホテルみたいで、でも生活感もある不思議な空間。
空気清浄機の音が、静かな部屋に淡く響いていた。
「適当にくつろいでて。シャワー、先に使っていいよ。タオル、ここ」
「あ、ありがとう……」
案内された脱衣所もすっきりしていて、バスマットがふかふかだったのがやけに印象的だった。シャワーで汗と疲れを洗い流しながら、今日一日のことが思い出されて胸がざわつく。
(……まさか、阿部ちゃんの家に来ることになるなんて)
お湯が流れるたびに、阿部の声や、エレベーターでの出来事が頭に浮かんできて、消えてくれなかった。
シャワーを終えて脱衣所を出ると、阿部がソファに座ってノートパソコンを開いていた。作業の続きをしていたようだ。
俺に気づくと、顔を上げてふっと笑う。
「タオル、足りた?」
「うん、大丈夫」
「ベッド使って。俺はソファで寝るから」
「えっ……でも、それは……」
「遠慮しないで。疲れてるでしょ?」
そう言われてしまうと、それ以上言えなかった。ベッドの柔らかさに身体を沈めながら、逆に落ち着かない自分に気づく。
(ベッド借りるとか、さすがに緊張する……)
目を閉じようとしても、なかなか眠れなかった。阿部がとなりの部屋で打つキーボードの音だけが、遠くで優しく響いていた。
でも、その音が止まって、ソファが軽くきしむ音が聞こえた瞬間、不思議と安心感が広がった。
(阿部ちゃんが近くにいるって、思ったより落ち着くんだな……)
そう思った直後、まぶたがふわりと重くなり、静かに眠りに落ちた。
朝。
どこかから香ばしい匂いがして、自然と目が覚めた。
起き上がると、キッチンに立つ阿部の姿が目に入った。エプロンこそしていないものの、慣れた手つきでトーストを焼いていて、すごく“生活感のある阿部亮平”がそこにいた。
「おはよう。もうちょっとでできるから、座ってて」
「……おはよう。え、朝ごはん……?」
「コンビニ行くより、こっちのほうが早いでしょ」
テーブルには、トーストに目玉焼き、サラダにあたたかいスープ。俺のために、これだけ用意してくれたってことが、じわじわ胸に染みてきた。
一口食べて、思わず声が漏れる。
「……うま……」
素直に出たその言葉に、阿部がちょっとだけ誇らしげに笑った。
「なら、毎日食べにくる?」
冗談めかして言ったその言葉が、あまりにも自然で、あざとくて、俺の中で何かがバクンと跳ねた。
「……なにそれ」
そう返すのが精いっぱいだった。
ほんの冗談に聞こえたけど、もしかして少しだけ本気なんじゃないか、なんて考えてしまった自分がいた。
胸のあたりが、ぽうっと熱を持つ。
朝の光の中で、阿部ちゃんの後ろ姿が、やけにやさしく見えた。
朝食を終えると、自然な流れで一緒に家を出ることになった。
駅までの道を並んで歩くなんて、別に大したことじゃない。そう思ってたのに、なぜか胸のあたりがそわそわして落ち着かない。
(いや、これは通勤……ただの通勤……)
なのに、歩くペースを阿部ちゃんが俺に合わせてくれてるのに気づいた瞬間、変に意識してしまって、歩幅までぎこちなくなる始末。
「ん? 佐久間、歩きづらい?」
「い、いや、全然! むしろちょうどいいよ! ベストペースです!」
声が裏返りそうになった自分に内心ツッコミを入れつつ、視線をそらす。
ふと横を見ると、阿部ちゃんは淡々と前を向いて歩いてるけど、口元が微妙に緩んでるのが見えた。
(……これ絶対、バレてる)
何でもないフリをして歩く朝の通勤路が、いつもの数倍長く感じた。
でも、嫌じゃなかった。むしろ、この感覚をもう少し味わっていたいと思ってしまった自分がいた。
――――――――――
その後の数日は、驚くほど静かで、穏やかだった。
挨拶を交わし、仕事をして、昼休みにちょっとした雑談を交わす。特別なことは何もないはずなのに、ふとしたタイミングで阿部ちゃんと目が合うたび、胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じていた。
あの日、阿部の家で一緒に過ごした朝。あの何気ない朝食と通勤時間が、今も心のどこかに心地よく残っていた。
けれど、そんな日常の静けさは、ある日、ふいに破られる。
「……阿部さん、今日の会議資料のファイル、古いバージョンになってるみたいです」
静かなオフィスに、その声が響いた瞬間、空気が一変した。
進行中の大口案件。重要なクライアントとの打ち合わせ直前、まさかのファイルミス。
提出されたデータは、以前の下書きだった。何度も確認を重ねる阿部ちゃんにしては、珍しすぎるミスだった。
社内がざわつく中、阿部ちゃんはすぐに対応に動いた。でも、その背中がほんのわずかに硬くて、俺の目には珍しく感じられた。
慌ただしく通路をすれ違ったとき、ほんの一瞬、肩が触れた。
その瞬間、あの“声”が聞こえた。
『……どうして気づけなかった……俺がこんな初歩的なミスを……佐久間にだけは、見せたくなかったのに……』
胸が締めつけられた。
(……そんな顔、しなくていいのに)
俺は急いで自席に戻り、資料フォルダを開く。以前、阿部とすれ違いざまにもらったラフ案のコピー。そのとき何となく保存していたファイルに、最新版と同じ修正履歴が残っていた。
慌てて整え、体裁を整えて、印刷と同時にメールで送る。
そして、そのままダッシュで会議室前にいた阿部ちゃんの元へ駆け寄った。
「これ……バックアップに残ってた。たぶん、使えると思う」
俺が差し出した資料を受け取った阿部ちゃんは、目を見開いて、それからふっと表情を緩めた。
「……ほんと、佐久間には助けられてばっかりだな」
そう言って、俺の目をしっかり見て笑った。
その笑顔は、少しだけ悔しそうで、でもとても優しかった。
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