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黒一色の空。
星々すらも見当たらない夜空。
その静けさは、大地も森も空気すらも眠っている証拠だ。
それでもなお、明けない夜はない。大空がゆっくりと色づき始め、先ずは木々がざわめきだす。
次いで、彼女の番だ。
コンコンコン。無慈悲なノック音が覚醒を促す。
(んあ? うち? 誰か来た? 今何時……?)
暖かなベッドの中で寝息を立ていた赤髪の魔女。起床には早すぎる時間帯ゆえ、まぶたがしっかりと開かない。
その上、思考も定まらず、暖かなベッドの温もりに後ろ髪を引かれながらも、渋々起き上がることから始める。
空耳ではないのか? そう思わずにはいられない。
だが、礼儀知らずの客人が玄関の向こう側に立っている可能性も捨てきれない。扉を叩く音が聞こえたような気がした以上、面倒ながらもその場所を目指す。
寝ぐせはそのままに、ハクアは壁掛けの時計を薄眼で睨む。
長針は真下を、短針は四の数字を指している。
(四時半……、ネイあたりだったらマジ殺す)
冗談なのか本気なのか。それは本人にもわからない。
もっとも、無礼者へのいら立ちだけは本物だ。
「はーい、どちらさ……ま……」
両者を分け隔てていた扉がいなくなり、二人は五日ぶりに顔を合わせる。
「おはようございます、今戻りました。あ、これで合ってますか? 違うって言われたらショックで寝込んじゃいますけど……」
子供にしても低い背丈。
灰色の短髪。
しゅっと痩せた童顔の顔と左目の泣きぼくろ。
なぜかぶかぶかな庶民着と、古ぼけた背負い鞄。
左腰にぶら下がる、お飾りのような短剣。
そして、右手には一凛の花。花弁は海よりも青く、言いつけ通りに土まみれの根も健在だ。
ウイル・ヴィエン。想定の半分にも満たない六日間でこの旅を完遂してみせた。
寝起きのハクアは固まる。この状況があまりにも想定外だったため、次の言葉が出て来ない。
おかえり。
よくやったね。
ご苦労様。
どれでも良いのだが、殺すつもりで送り出した子供が戻ってきてしまったのだから、茫然と立ち尽くしてしまう。
「ぶ、無事で良かった。とりあえず中に入りなさい」
「お邪魔します」
口惜しいのだが、本心を隠して少年を迎え入れる。白紙大典の前では契約者であるウイルを邪険に扱うわけにはいかず、親身な大人を演じながら協力を続ける他ない。
(眠気が吹っ飛んだ。とりあえずは……)
朝食だ。
本来ならば寝ぐせを直すなり、着替えるべきなのかもしれないが、ハクアはパンとサラダを二人分用意し、客間へ運ぶ。
「シンプルだけど……」
「いえいえ、ありがとうございます。実は、すっごく空腹で……」
テーブルの上に並べられる皿を眺めながら、少年は目を輝かせる。体のあちこちが砂埃や土で汚れており、そういう意味では家主以上に着替えるべきだ。それでも咎められない内は食事を優先したい。
「空腹? なぜ?」
「もらった食べ物も、自前の干し肉も食べきっちゃったんです。は~、急いで正解でした。聖地ムサまで行けば食べられるものあるかなって思ってたんですけど、あそこって何もないんですね。読みが甘かったぁ……」
聖地ムサ。ミファレト荒野の北に隣接する高原地帯。以前はムサ高原と呼ばれていたが、とある理由から聖地へ改名された。
「そ、そう……。私としても、あなたの帰還は嬉しい」
口から出まかせだ。それでも今は取り繕うべきであり、顔の筋肉をこわばらせながら不気味に笑う。
「道中ずっとスムーズだったので、睡眠時間をギリギリまで削ったら、こんなに早く戻れました。エルさんなら、もっと早いんでしょうけど」
実質、六日程度。当初の想定が二週間なのだから、少年としても成長を感じずにはいられない。
もっとも、エルディアなら二日かからずにやり遂げられただろう。放たれた矢のような勢いで走り続けるのだから、どんな遠出もあっという間だ。
「ラゼン山脈は……大丈夫だったの? いや、ここにいるってことは切り抜けられたようだけど……」
思惑が外れた。ゆえに、ハクアとしても問わねばならない。
青色のアマリリスが咲くその地は、危険地帯として有名だ。
用事がなければ近寄らない。
用事があっても近寄れない。
ラゼン山脈はそういう場所であり、屈強な巨人族すら足を踏み入れようとはしない。
例外はあの個体だ。
全身傷だらけな上、左腕を失っていた憎き敵。エルディアを圧倒するほどの実力は、あの地を越える過程で身に着けたのか、強者だからこそ突破出来たのか。どちらにせよ、稀なケースと言えよう。
「実は、魔物が全くいなかったんです。ミファレト荒野のように生息数が少ないのかな? 遭遇することなく、アマリリスを入手出来ました」
「え、本当に?」
「はい。僕の天技にも引っかからなくて……。探索に一日くらいはかけるつもりでいましたが、走り回ったらあっという間でした。むしろ、聖地ムサの方が百倍怖かったです。避けきれなかった魔物に追われるのなんの。グラウンドボンドがなかったら何回死んでいたのやら……」
ため息をつく少年をよそに、魔女は黙々と考え込む。
ありえない。嘘をついているとは思えないが、にわかには信じられない内容だ。
ラゼン山脈は無人の山岳地帯ではない。手強い連中がうじゃうじゃと闊歩しており、山越えはおろか探し物さえ困難極まる。
それをこの子供がやり遂げたのだから、疑う余地などないのだが受け入れることも難しい。
(なぜ? 本当に偶然? この花は麓には群生していない。多少なりとも登らないといけないのに……)
無口な彼女を眺めながら、ウイルは青野菜とパンを交互に口へ運ぶ。質素ではあるが、とても美味だ。空腹というスパイスのおかげかもしれないが、手が止まることはない。
「死体もありませんでしたし、ほんと何なんでしょうね」
(死体……。ま、まさか!)
ヒントにすらならない発言から、ハクアは答えにたどり着く。
肉片すら残さず、あの地の魔物を葬り去れる存在。
少なくともこの集落にはいない。ここの防衛や魔物狩りにいそしむ精鋭ですら、手も足も出ないだろう。
例外はハクアくらいだ。
それでも、骸はその場に残る。片づければ話は別だが、そんなことをする理由が見つからない。
(あいつなら……、確かにやれる。でもなぜ?)
ふと、脳裏にあの魔物の言葉が浮かぶ。
ハクアはハクア、ワタシはワタシ。
ウイルの行先がラゼン山脈だと知り、それがハクアの思惑だと理解した際の発言だ。
深い意味はないのだと思った。
いつものつまらない言い回しなのだろうと受け流した。
だが、違った。
(私の邪魔を⁉ いや、違う。そうじゃない……。あいつは本気で、この子に傾注している。こんな子供に大役を押し付けようとしている。なんて馬鹿なこと……。務まるはずがないじゃない)
誰よりも真実を知るこの魔女でさえ、神出鬼没なあの魔物には手を焼いている。敵対しているわけではないのだが、協力し合っているわけでもない。
利害の一致。ただそれだけの関係であり、今もその点においては変わりないが、身の振り方に変化が生じたと静かに悟る。
(いっそ今殺しちゃう? ううん、あの人が見てる前でそれだけは出来ない。絶対に嫌われたくない)
ウイルにはいつか死んでもらう。当初の予定では今回の作戦でそうなるはずだった。
だが、失敗した。
成し遂げた者と成し遂げられなかった者。炎の魔物が暗躍した結果、この二人は正反対の結果を掴む。
(……今は、大人しく受け入れるしかない。この事実を、この状況を……)
ハクアは自分に言い聞かせ、平常心を取り戻す。
(チャンスは、この先いくらでもあるのだから……)
その通りだ。この程度の子供を殺すことは容易い。
とは言え、白紙大典に感づかれてはならない。この条件を満たすことが困難ゆえ、今はじっくりと思案する。
「このパン美味しいですね」
「そう。私の分もどうぞ」
幸せそうな少年。
内心では不機嫌な魔女。
相対する二人だが、食卓を囲んでいる間は家族のようでさえある。
「あの~、ご飯食べたら少し寝たいんですが、また布団お借りしてもいいですか?」
「ええ。適当な場所でくつろいで。私はその間に薬を作るから」
「ありがとうございます! お礼って、お金でいいですか?」
この地に宿屋は存在しない。魔女やそれに連なる者が隠れ住んでいる小さな里でしかないのだから、そういった施設は皆無だ。
「そんなものいらないわよ。あ、だったら……」
その後、交渉はあっさりと成立する。
ウイルは部屋の片隅で惰眠を貪り、ハクアは薬の調合に励みながらも、時折それを撫でる。
汚れを知らない真っ白な古書、白紙大典。役目を終え、今はぐっすりと眠っている。
それは少年も同様だ。
布団から漂う太陽の匂いに包まれながら、夢の世界を漂っている。
今までも。
これからも。
やれることを一つずつこなすだけ。
傭兵として生きていくのだから、焦らずに進むだけだ。
休める時は休む。
眠る時は眠る。
これはその一歩。
傭兵らしく、子供らしく、ウイルは静かに寝息をたてる。
◆
「エルさんって静かにしてると美人なんですけどねー」
(この子って時折すごい毒吐くな……。子供だから?)
巨大な水槽を眺める二人の男女。
中には女性が直立のままクラゲのように浮いており、水死体のように動かないが、もちろん死んでなどいない。
エルディア・リンゼー。茶色の髪はゆらゆらと揺れ、四肢はだらんと垂れている。水の中にいるが裸ではない。灰色の布切れを羽織っており、大きな胸はあまり目立たない反面、太ももまでしか覆っておらず、両脚は丸見えだ。
右足の切断面は既に塞がっている。魔女達の手当によって一命を取り止めた結果だ。
「ハクアさんは伸ばし過ぎだと思いますけど、エルさんも長い髪似合いそう」
「そういうことは本人に言ってあげなさい。ところで、この子って足太すぎない?」
「素敵ですよね。これくらいが一番だと思ってます」
(……んん⁉ 時代が変わって価値観も変化した?)
膨張している両脚。中にはぎゅうぎゅうに筋肉が詰まっており、その脚力は魔物との徒競走ですら圧倒する。
「さっきも説明した通り、足の再生におおよそ一週間、その後のリハビリに二週間ってところかしら」
ここはハクアの自宅に隣接する物置小屋。倉庫と研究室を兼ねており、色とりどりの魔道具達が乱雑に保管されている。
その中の一つが眼前の水槽だ。金属の箱に鎮座するそれは金魚鉢のように丸みを帯びており、人間を受け入れられるほどには大きい。
容器の中は薄水色の液体で満ちている。見た目も手触りも水と大差ないが、全くの別物だ。
その中に沈み、浮かぶエルディア。その理由は欠損した部位を復元させるためであり、この魔道具はそれを可能とする。
「まだ信じられないです。こんな魔道具が存在するなんて……」
「世の中には不思議が一杯ってこと」
人体の部分的再生を実現するこれは、実は拾い物だ。ハクアが作ったわけではなく、過去の探索で見つけ、迷いの森まで持ち帰った。
誰が作ったのか。
いつの時代のものなのか。
何もかもが謎のままだが、使えるのだから利用させてもらう。
残念ながら、これは使い切りだ。機械部分はおろか、中の液体を解析することすら出来ていない。
ハクアの知能が低いからではない。現代を生きる人間には再現出来ないオーバーテクノロジーの集合体だからだ。
「不思議と言えば、白紙大典もその筆頭ですよね。これって、うわっ⁉ 結局何なんですか?」
純白の本を目の前に呼び出した瞬間、それはそこからいなくなる。隣の魔女が一瞬でかっさらったからだ。
「はぁはぁ。あ、えっと、魔道具のように力を秘めた本よ」
(この人も大概気持ち悪い……)
表紙に頬ずりするハクアは幸せそうだが、ウイルからすれば気持ち悪いおばさんでしかない。
この魔女はエルディアよりは年上に見える。決して若くはなく、だからといって老けてもいない。
身長は大人の女性としては高い方だが、それでもエルディアほどではない。
つまりは、髪の長さと眼球が魔眼であることを除けば普通の女性だ。もっとも、その二点が異様さを演出しており、言動も相まって不気味でさえある。
「昔、その本と旅をしていたんですよね? それっていつ頃なんですか? というか、ハクアさんって何歳なんですか?」
「何歳くらいに見える?」
「え~っと……」
「あ、やっぱり言わなくていい」
傷つきたくない。そんな心理が働き、この質問は打ち切られる。
「白紙大典は自分のことを、本のお姉さんって自称してましたけど、つまりは、人格を持った魔道具もとい魔導書ってことなんですか?」
「そ、そんなところ……」
「ハクアさんが年を取らない魔女とも言ってました。それってやっぱり天技なんですか?」
「ええ。覚醒した瞬間から加齢は止まった。おかげで長い年月を生きてきたわ……」
遠い目でどこかを眺めるハクア。しかしその手は白紙大典を撫でまわしており、隙あらば接吻さえしそうな勢いだ。
「となると、ハクアさんってきっとすごく強いんですよね?」
「まぁ、あなたやこの子よりは」
年齢と実力は比例する。鍛錬の時間や場数が強さを引き上げるからだ。
「エルさんの足を噛み千切った片腕の巨人……。ハクアさんなら倒せそうですか?」
ミファレト荒野で遭遇した謎の巨人。これもまた、いくつもの戦場を駆け抜けたはずだ。
その証拠が全身の古傷であり、だからこそ彼女は敗北した。
「まぁ、余裕でしょうね。だけど、私は手伝えない。この森から出られないもの」
魔女は嘘をつく。手伝う気がない上に、その巨人がウイルを殺してくれるかもしれないのだから、少年の申し出は却下に決まっている。
「そうなんですね……。わかりました。ここの人を巻き込むわけにはいきませんし、僕の方でなんとかします」
この集落には大勢の人間が住んでいる。
子供。
男性の大人。
女性の大人。
そして、魔女。
ハクア以外にも実力者は多数いるのだが、ウイルは隻腕の巨人を傭兵らしい方法で討伐するとこの瞬間に決意する。
(いざとなれば、あいつが庇うだけ、か。そう考えると本当に厄介ね。なんとかして別行動を取らせないと)
炎の魔物。ハクアはこれを危惧する。まるで守護霊のようにこの少年を見守っており、そうである内はいかなる方法でもウイルの殺害は不可能だ。
「話は戻るんですけど、ハクアさんって何年くらい生きてるんですか?」
「……四百年くらい」
「うわ、想像以上の長寿……。あ、だから、呪恨病のことも?」
「そうね。薬の作り方もその時に教わった。王国まで足を運んだわけじゃないから、どれほどの被害が出たかまでは知らないけど」
この魔女はおおよそ四百歳。
だからこそ、三百年前の出来事も体験済みだ。
嘘か本当か。今のウイルに確かめる術などないが、彼女がそう言うのなら今は大人しく受け入れる。
(まさに生き字引だぁ。今後も困ったことがあったら相談に来よう。ちょっと遠いけど、それだけの価値はあるもんな)
物知りという範疇から逸脱するほどの稀有な存在だ。
傭兵にとって、武器は剣や斧だけではない。情報や知識もその一つだ。学者や研究者ほどではないが頭を使う職業であり、ウイルは十二歳ながらにそのことを理解している。
魔物の生態。
土地の地理的特徴。
牙や骨、皮といった素材の使われ方とニーズの予測。
そして、状況に応じた戦術。
傭兵は無知にも務まる仕事だが、賢い者こそより稼げるという側面も存在する。そんなことはあらゆる職種に当てはまるのかもしれないが、傭兵はそれが顕著だ。
(しっかし……)
押し黙ったまま、ウイルは正面の水槽を見上げる。正確には、眠るエルディアの双丘を凝視する。
「白紙大典が以前こんなことを言いまして……」
「え、なになに⁉」
(この人、時々テンションが急上昇するな……)
少年のつぶやきにハクアが勢いよく喰いつく。
「エルさんの胸、大きすぎない? と……。僕はそういうのよくわからなくて……」
「ん、そうね……。まぁ……、うん……」
液体の中で、眠りながらも浮かび続けるエルディア。布切れのような衣服は彼女の胸に押されて膨らんでいる。締め付けるような肌着ではないため、そのラインが強調されることはないが、それでもそのボリューム感は見て取れる。
「大きいどころじゃないわね……」
「あ、やっぱりそうなんですね」
少年はまた一つかしこくなった。博識の魔女は伊達ではないと証明された瞬間だ。
翌日、ウイルは朝早くからこの地を旅立つ。ハクアから薬を受け取ったのだから、次はそれを母に届けなければならない。
エルディアはまだ目覚めない。仮に意識を取り戻したとしても帰国は困難だ。
そもそも生きていることが奇跡に近い。
致死量を遥かに上回る出血。
潰されかけた胸部と腹部。
全てが死に直結する。むしろ死んで当然だ。
それでも生き延びた理由はエリクシルの投与と彼女自身の生命力に他ならない。
目覚めるのが先か。
右足の復元が先か。
結果はまだわからないが、ウイルはそれを見届けるよりも先に迷いの森を去る。
時間との勝負だ。発病から既に約一か月。期限は三か月と言われており、そういう意味では順調なのだが、帰路を考えるとエルディアの復帰を待ってはいられない。
またも一人旅。その上、その距離は五百キロメートルを上回る。
道のりは今までの逆だ。
ミファレト荒野。
蛇の大穴。
ケイロー渓谷。
シイダン耕地。
ルルーブ森林。
そして、マリアーヌ段丘。
当然だが、道中は魔物の生息域でもあり、立ち向かえないのだから逃げなければならない。
もっとも、今なら可能なはずだ。青色のアマリリスを持ち帰れたことがそれを証明してくれる。
ジョーカーと名付けた天技にて索敵を行い、遠回りになろうと魔物を避け続ける。
もしも見つかってしまった場合は、グラウンドボンドで足止めをしつつ逃げ切ってしまえば良い。
自信がある。だからこその出発だ。
ハクアに別れを告げ、住民や猫達にも挨拶を済ませ、少年は迷いの森を後にする。
普通に進めばおよそ二週間。エルディアなら二日もかからないのだが、ウイルにそんな真似事は出来ない以上、自分のペースで突き進む。
危険だ。安全なはずがない。
それでも不安は感じない。
魔法のおかげか。
天技がそう錯覚させるのか。
成長したからか。
正解がどれであれ、祖国を目指して大地を踏みしめる。
やるべきことは山積みだ。
少年の旅はまだ終わらない。呪恨病の特効薬を届けることだけが目的ではないのだから。
倒さなければならない。
あの憎き魔物を。
隻腕の巨人。今もミファレト荒野を我が物顔で闊歩している。そのことは道中、天技にて再確認済みだ。
生きている。
それはそれで好都合だ。
他の傭兵や魔女に獲物を横取りされていないのだから、復讐を果たせるチャンスとも言える。
(あいつは倒す……。僕の目の前で……)
勝算はない。
否。倒し方の目星はついている。
それを実行出来るかどうかは、タイミングと巡り会わせ次第だ。
つまりは博打。サイコロの目が何を示すかは、振ってみなければならない。
(エルさんをあんな目に合わせたんだ。許せるはずがない)
仇なす者として、復讐を誓う。動機としては不純かもしれないが、それでも原動力足りうる以上、少年の足取りは早まる。
朝も昼も夜も、止まることはない。食事は歩きながら、睡眠時間も可能な限り削りながら、黙々と歩き続ける。
風に吹かれ、雨に打たれようと立ち止まらない。不思議と体力は尽きることがなく、寄り道もせずに最短距離を突き進む。
もちろん、魔物には立ち向かえない。短剣を携帯しているものの、それを使って戦えるほどの実力は持ち合わせてはいない。
それを自覚しているからこそ、この少年は死なない。
感知した魔物には気づかれずに、そしてそれを終始徹底した結果、ウイルは草原のその先に巨大な壁を視認する。
到着だ。
かかった期間はたったの八日。傭兵としては落第点だが、庶民には到底不可能な記録だ。
疲弊し、ぼろぼろになりながらも、ウイルは大門を通り抜け、そのまま大通りを直進しつつ北を目指す。
野営続きのため、着衣は土色に汚れるばかりか擦り切れ、穴さえ空いている。
靴もつま先付近が破けており、歩く度にカポカポと異音を鳴らす。
顔やむき出しの腕には生傷がたえず、灰色の髪もボサボサだ。
行き交う人々にはこの少年が物乞いか何かに見えるのだろう。侮蔑の視線を向けることはあっても、決して近寄ろうとはしない。
帰国後も二十分ほど歩き、坂道を右へ左へ曲がりながら登れば到着だ。
国民の往来は少なく、その理由はここが市民から隔離されているためであり、古風かつ大きな建物達を横目にその場所を目指す。
長居は禁物だ。庶民が足を踏み入れてはならない区画ゆえ、警備中の軍人に見つかればつまみ出されてしまう。
地理的にも階級的にも、ここは上流。煌びやかな世界であり、家々の庭には当然のように広大な庭が備わっている。
道も整っており、それは城下町も同様なのだが、道幅は広いだけでなく綺麗に整地されている。
高級住宅地。下々の街並みを見下ろせるここはまさに選ばれた者のみが住むことを許されている。
階級の高い軍人。
富裕層。
医者。
研究者。
学者。
貴族。
そういった家柄がここには集っており、貴族はその中でもさらに上位の特権階級だ。
疲れた体に鞭打って、ウイルは駆け足でその屋敷にたどり着く。
見知った家だ、間違えるはずもない。
灰色がかった白い壁。
赤茶色の屋根。
水色のカーテンが覗く四角い窓達。
そして、何度も開け閉めした仰々しい玄関。
かつての我が家だ。
懐かしさに打ちひしがれながらも静かに見上げる。
改めて、そして客観的に眺めることで気づかされることがあった。
なんて大きな建物だ、と。
部屋数は十を超えているのだから当然だ。三人家族だが、二人のメイドを住まわせてもなお、個室は余っている。
客間も居間も広く、隅々まで掃除しようものなら二人がかりでも一日がかりの大仕事だ。
庭には花屋のように多数の花達が咲き乱れている。ありふれた品種から珍しいものまで多種多様だ。金持ちにしか実現出来ないレパートリーだが、彼女の贅沢はせいぜいこれだけゆえ、貴族としては質素と言えるだろう。
マチルダ・エヴィ。ウイルの母親。
高熱、失明、肌の変色という過程をえて、絶対の死をもたらす謎の病気。それに罹患した母を助けるため、息子は家を飛び出し、傭兵となってついには薬を持ち帰った。
訪問者として扉を静かに叩き、待つこと数十秒。
現れたメイドは、大粒の涙を流してその場に崩れ落ちる。予期せぬ再会に感極まった結果だ。
母よりも年上のその女性に、少年は透明な小瓶を手渡す。中には白色の粉末が少量入っており、用途を伝えると共に別れの挨拶を告げてその場を後にする。
この行為すら本来ならば犯罪だ。貴族でない人間が招かれてもいないにも関わらず、訪れてしまったのだから治維隊に捕まったとしても文句は言えない。
だからこそ、見つかる前に立ち去る。
この子供はエヴィ家の息子ではない。ただの傭兵だ。
目的は果たせたのだから、大人しく自分達の世界へ帰還する。
ウイル・ヴィエン。十二歳。等級二の新米傭兵。
ついに達成だ。
エルディアのおかげで傭兵になれた。
エルディアのおかげで昇級出来た。
エルディアのおかげで迷いの森に到達出来た。
エルディアのおかげで薬を届けられた。
ならば、ここからは彼女のために時間を使う。
ミファレト荒野を根城とする巨人の討伐。
逆襲は、ここからだ。
◆
見事な装飾に彩られた食器棚。
その中の食器達も芸術品のように美しい。
テーブルの上には配膳途中の野菜や揚げ物が整列している。
下ごしらえ中の肉からは肉汁があふれ出ており、見る物を虜にするだろう。
ここは広々とした台所だ。昼食の準備中ゆえ一見すると散らかっているが、この時間帯ならばそうでなければおかしい。
「ハーロン様! ハーロン様!」
流し台の正面に立つ一人の男。休日ながらも身だしなみは整っており、茶色の髪は整髪剤で整えられ、紺色の衣服に至っても部屋着でありながら一級品だ。
名前を呼ばれ、ドキリと跳ねながら振り返る。右手の指と口元が汚れている理由は、好物のから揚げをつまみ食いした証拠だ。
「すまん! 出来心でつい! いつものことだから許して……」
つまりは常習犯だ。目元の小じわやわずかに混じる白髪から、若くないことが見て取れる。この屋敷の家主であり、貴族の長としてイダンリネア王国に貢献している。
ハーロン・エヴィ。四十歳を超えてもなお食欲は衰えず、それでもなお太らない理由は、接種カロリーの多くを頭脳労働で消費しているからだろう。
「これを、これを……、今しがたウイル様が……!」
メイド服を揺らしながら駆け寄る従者の名はサリィ。この家には親子で仕えており、年齢はハーロンと大差ない。
ゆっくりと、そして丁寧に小瓶を差し出す。その重圧がメイドの手元を震わせるが、命にかえても落とすつもりはない。
「そうか……、見事、やり遂げたのか」
その中には魔女が調合した薬が入っている。男はそれに我が子を見るような眼差しを向け、大事そうに受け取る。
「はい……。とても、立派になられておりました……」
「ウイルは今どこに?」
「すぐに、うぅ、再び立たれてしまいました」
泣き崩れる従者。再会は一瞬だったが、そうであろうと感動はひとしおだ。あふれ出る涙を止めることなど出来ない。
(信じてはいたが、まさか本当に……。これを奇跡と言わずに何と言う。いや、本当の奇跡は……)
ここからだ。二人は台所を後にする。
向かうは寝室。今は彼女が独占しており、この瞬間も熱にうなされながら眠っているはずだ。
「あら、どうしたの?」
白いベッドの上で、静かに横たわる一人の女性。灰色の髪は誰よりも長く、瞳を閉じている理由は寝ているわけではない。
額には大粒の汗。
桃色の肌は発熱の影響であり、呪恨病特有の変色には至っていない。
マチルダ・エヴィ。ウイルの母親だ。
やさしそうな横顔が二人の家族へ向けられる。もそっと起き上がるだけの動作にも切れがなく、本調子ではないことがうかがえる。
「ウイルがこれを届けてくれたよ」
「えぇ、知ってるわ。今も感じるもの、あの子を」
魔物探知という天技は母親譲りだ。それを裏付けるように、マチルダは我が子の存在を感じ取れている。
遠ざかっていく気配。その理由が自分にあると理解しており、彼女は目を閉じたまま、悲しげに窓の外を眺める。
「さぁ、これを……」
夫から妻へ、水の入ったコップが手渡される。粉末は既に溶かされており、後はこれを飲み干すだけだ。
「私達の子供だもの。好き嫌いなくて、頭も良くて、学校の勉強もがんばってた。今回も大丈夫って信じてたわ」
「ええ、ええ。そうですとも」
マチルダのつぶやきにサリィも涙を浮かべながら共感する。
自慢の息子だ。仮にエヴィ家と縁を切ってしまったとしても、その事実だけは揺るがない。
コップが口に運ばれ、液体が流れ込む。
匂いはせずともその苦さは少々苦痛だ。それでも彼女は喉を鳴らしていっきに飲み干す。
「これで治ってくれると良いのだが……。とりあえず、今は眠りなさい」
病から解き放たれるタイミングは不明だ。単なる流行り病なら半日から数日といったところか。
特効薬が作用するまでは寝て過ごすのがベストだろうと考え、ハーロンはそっと語りかける。
コップを受け取るため、そっと近づいたその時だ。
彼女の瞳がパチッと開かれる。
「復活!」
マチルダは大声と共にベッドから起き上がる。勢いそのままに寝間着のまま部屋から飛び出すのだが、取り残された二人は茫然と立ち尽くすことしか出来ない。
その直後、窓の外から発せられた悲鳴はまさしく彼女のものだ。
「いやー! ちょっとあなた! カトレアとヘンルーダとグリモアが枯れかかってる! ちゃんとお水あげたの⁉ ざ、雑草も多い~、信じられない~」
発言通り、復活だ。特効薬は見事彼女の呪いを払ってみせた。
発熱は治まり、視力も元通りだ。
寝癖すら気にせず、泣き叫ぶ妻を窓越しに眺めながら、夫は静かに安堵する。
それはメイドも同様だ。うれしそうに涙をこぼす。
「あ、わかった! お水あげすぎなのよ! も~」
衣服を汚しながら、マチルダは病み上がりの体で花達を観察する。実は寝込んでいる間、ずっと気になっていた。
(知らんがな。そんなに大事ならサリィさんかシエスタちゃんに頼めば……。あぁ、こういった事態もあり得るから、責めやすい私を選んだのか……)
正解だ。平民から貴族へ嫁いだ女性のたくましさを、夫は改めて実感する。
「グスッ、これで、ウイル様も戻って来られるのですね」
「いや、今のままでは……。だからこそ、次は私の番ということだ」
メイドはメイドでしかない。この国の仕組みなど一切理解出来ておらず、除名されたウイルについて思い違いをしてしまう。
貴族は他の貴族の領分に関わってはならない。エヴィ家の場合、傭兵組合の利用ないし所属はご法度だ。
しかし、ウイルは既に傭兵だ。この事実はもはや取り消せない。隠ぺいも不可能だ。
現状ではどうすることも出来ない。王国法でそう定められている。
だからこそ、ハーロンは立ち上がる。既に、そのための調査は開始しており、少しずつでも根回しを進めていくつもりだ。
法は絶対だ。王制を採用していようとそうでなかろうと、そこに住まう人間はそれを遵守しなければならない。
ゆえに、選択肢は三つ。
守り続けるか。
破るか。
変えるか。
提示されたこれらの中から、エヴィ家の長は最善の一手を選び取る。
長い戦いだ。一年や二年では到底足りない。
それでも諦めるつもりはなく、貴族のプライドに賭けて挑戦するつもりでいる。
妻の笑顔のため。
従者二人を安心させるため。
息子にエヴィ家を継がせるため。
なにより、ウイルを危険から遠ざけるため。
父は王国に戦いを挑む。
「あ、すっごいお腹減ってきた~。サリィさ~ん、今日のお昼は~?」
「から揚げです」
庭のマチルダはすこぶる元気だ。先ほどまで床に臥せていたとは到底思えない。
「やった~。丁度油っぽいもの食べたかったのよね~」
「でも、ハーロン様が先ほどつまみ食いなされていましたので、その分少ないです」
「あ・な・た~!」
笑顔から鬼のような表情へ。従者の告げ口が彼女を怒らせた瞬間だ。
(午後は職場に避難しようかな)
ハーロンは顔をこわばらせながら、窓越しに空を見上げる。同時に、あの日のことを思い出す。
一人息子がエヴィ家の人間ではなくなった日、事件は静かに起きていた。
魔法による放火。
たまたま標的にされてしまったのか。
初めから狙われていたのか。
どちらにせよ、その家は完全に焼失し、住民も死体すら残らず燃え尽きた。
犯人は見つかっていない。実は、エヴィ家の人間が疑われてしまったのだが、今は容疑者から外されている。
しかし、例外が一人だけ。
このタイミングで貴族ではなくなった十二歳の子供、ウイル。
事件の手がかりは見つかっておらず、治維隊も調査に行き詰っている。
だからこそ、怪しい人間を手あたり次第に取り締まっている。
変色病。ウイルにとって、それは人生を変えるほどの出来事だった。新しい生き方を歩むきっかけでもあり、命がけの挑戦だった。
呪恨病。それが出会いを紡ぎ、そして少年を巻き込んだ。
小さなうねりは少しずつ膨張し、やがてはこの国を転覆させるかもしれない。
イダンリネア王国。千年もの間、栄え続ける人間の砦。王族を頂点として、魔物や魔女を排除し続けてきた。
小さな敗戦はあれど、戦争そのものに敗北したことはない。滅んでいないことがそのことを如実に物語っている。
これからも勝ち続けるのか。
滅亡は目の前なのか。
それは誰にもわからない。わかるはずもない。
その鍵を握る一人の少年。今はゆっくりと城下町を闊歩しており、空腹ではあるのだがその胸中は満たされている。
薄汚れているばかりか、痛み切った衣服。
土と血液にまみれた顔や腕。
貧困街に追いやられた貧しい子供のようだが、その目はだれよりも力強い。
傭兵。魔物と戦い、己の欲求を満たす異常者。この少年もまた、その一人に過ぎない。
歩く。
薬を届けたのだから、ここからは次のステップに移行する。
目指すはギルド会館。隻腕の巨人を倒すための一手を、そこで見出す。