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ホストパロディ『君を騙して、君に救われた』~m×a~
「分かっているな?お前がやらなければならない事――――――」
「……はい」
「ならいい、さっさと行ってこい」
神様は、たぶん俺を見放したんだと思う。
じゃなきゃ、こんなことにはならなかったはずだ。
誰かを助けようとすれば、誰かが犠牲になる。
それがこの世界の現実なんだ。
これから俺は、自分のエゴで人を傷つける。
本当に、申し訳ないと思ってる。
でも、それでも――
――Side阿部
東京の空は、思ってたより軽くて、薄い。
夕方になっても熱気がまだ残っていて、俺はキャリーバッグを片手に、スマホの地図アプリを確認しながら、細い住宅街を歩いていた。
「……ここだよな」
立ち止まったのは、三階建てのアパート。
白い外壁は少し色あせていて、鉄製の階段にはうっすらと錆が浮いてる。
古さは否めないけど、共用ポストや植木鉢には人の暮らしが感じられた。
ここが、今日から俺が住む場所。
ホストクラブ『Lune(ルーン)』の社員寮。
働くことが決まったのは、たった三日前。
「寮もあるから、すぐ住めるよ」って言われて、勢いだけで荷物をまとめて飛び込んできた。
期待と不安、それに……ちょっとだけ、諦め。
そして――『ある目的のために』。
その全部をキャリーに詰め込んで、俺はここへ来た。
「……行くしかないか」
小さく深呼吸して、インターホンを押す。
――ピンポーン。
数秒後、カチリと鍵が開く音がして、ドアが開いた。
黒いロンTにスウェット、濡れた茶髪の男が姿を見せた。きっと、ちょうどシャワーを浴びたばかりなんだろう。
「……〇〇蓮さん?」
「はい、今日から入ります。佐〇〇〇介です。よろしくお願いします」
俺が慌てて頭を下げると、蓮さんはほんの少しだけ目を細めた。
「蓮。俺と同室」
「えっ……あ、そうなんですね」
まさかの展開に言葉が詰まった。
てっきり一人部屋だと思ってた。“同室”って、この人と?
でも、名前を聞いた瞬間、さらに驚いた。
〇〇蓮――
先輩たちが口を揃えて言ってた、“ナンバーワン”の名前。
(……え、マジで?俺、いきなり蓮さんと相部屋?)
「荷物、持とうか?」
「い、いえっ!自分で持てます!」
焦って断ると、蓮さんはそれ以上何も言わず、すっと背を向けた。
そして、無言のまま階段を上っていく。
俺は慌ててその背中を追いかける。
足音が驚くほど静かで、まるで影のようだった。
けど、不思議と冷たさは感じなかった。
三階の一番奥。
蓮さんが鍵を開けると、木の匂いがほのかに漂う部屋が広がっていた。
「……どうぞ」
中に入ると、想像していたよりもコンパクトな空間だった。
六畳ほどの部屋に、シングルベッドが二台。
壁際に小さな机が一つずつあって、共同のクローゼットもある。
洗濯機も冷蔵庫も備え付けてあって、住むには困らなさそう。
今の俺には、屋根と寝る場所があるだけで十分だった。
「ベッド、どっちでもいいよ」
「あっ、じゃあ……こっち、使わせてもらいます」
俺が指さしたベッドの方を見もせず、蓮さんは自分のベッドに静かに腰を下ろす。
その動きは無駄がなくて、どこか遠い世界にいるような雰囲気があった。
……すごく“静かな人”だった。
無口なのは無愛想っていうより、言葉を慎重に選んでる感じ。
こちらから話しかけなければ、何も言わないけど、一つ一つの動きに雑さがなかった。
冷たくはないけど、何を考えているのかまるでわからない。
表情も変わらないし、声も落ち着いていて、感情を読ませない。
「……あの、蓮さんって、ここにずっと住んでるんですか?」
「うん。三年くらいかな。住みやすいよ、ここ」
短いけど、やさしい声だった。
会話が続くわけじゃない。
でも、それだけでも、少し安心する。
(……ほんとに、不思議な人だ)
そう思いながら、俺はようやくキャリーを開いて、荷物を一つずつ取り出し始めた。
部屋の中は驚くほど静かだった。
外の音も、住人の声も聞こえない。
聞こえるのは、冷蔵庫の唸りと、カーテンの揺れる音だけ。
その静けさの中、ふと視線を上げると、蓮さんが本を開いて読んでいた。
めっちゃ頭よさそう。
無言のままページをめくる横顔は、眠たそうで、それでいて穏やかだった。
その姿を見ていると、東京での新しい生活が、ほんの少しだけ怖くなくなった気がした。
――――――――――――――――――
翌日、夕方六時。
まだ街に明るさが残る時間帯、俺は黒いシャツの袖をぎこちなく整えながら、『Lune』の扉の前に立った。
今日が、初出勤。
重厚な黒いドアを開けると、中にはシャンデリアの柔らかな光が反射する、落ち着いた空間が広がっていた。
高級感のあるソファやガラスのテーブル、それに磨き上げられたカウンター。
テレビで見る“ホストクラブ”のイメージより、ずっと静かで、大人っぽい雰囲気だった。
(本当に……俺、ここで働くんだ)
喉はからからに乾いていたけど、深呼吸をして、もう一歩踏み出す。
「お、君が亮平くんだね?」
振り返った先にいたのは、眼鏡をかけた優しそうな男性だった。
年齢は四十手前くらいだろうか。白シャツにグレーのジャケットを羽織っていて、声も穏やかだった。
「はい。今日からお世話になります、阿〇〇平です!」
俺が頭を下げると、彼はにこやかに笑って、手を差し出してくれた。
「オーナーの川島です。よろしくね。緊張してる?」
「……はい、ちょっとだけ」
「だよね。最初はみんなそう。大丈夫、うちはちゃんとサポートするから。まずは店内を案内しようか」
そこから始まったのは、ひと通りの店内案内だった。
フロアの構成、スタッフルームの場所、ドリンクの取り扱いや、グラスの扱い方。
そして、お客様に対する言葉遣いや所作についても、一つひとつ丁寧に教えてくれた。
俺はそのたびに「はい」「分かりました」と返事をして、頭の中で何度も繰り返す。
(思ってたより……覚えること、多いな)
でも、オーナーの声が穏やかだったからか、少しずつ肩の力が抜けていった。
案内がひと段落したタイミングで、オーナーはふと立ち止まった。
振り返ったときの表情は少しだけくだけていた。
「それでさ、亮平くんは……どうしてホストをやろうと思ったの?」
その質問に、俺の手が止まった。
理由――
……それは。
視線を逸らしながら、俺は口元を少し歪めて、静かに答えた。
「……あまり、深い話はしたくないです。すみません」
一瞬、空気が止まったように感じた。
でも、オーナーはすぐにふっと優しく笑った。
「うん、そう言うと思ってた」
「……え?」
「ここね、そういう子、結構いるんだよ。理由を話したくない子、逃げてきた子、ただ黙っていたい子。色んな子がいる」
「……」
「うちは、それでいいの。亮平くんがここに来てくれた、それだけで十分。話したくなったら、いつでも聞くよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
優しいけど押しつけがましくなくて、ちゃんと“聞く姿勢”を持ってくれる、そんな大人だった。
俺は、思わず小さくうなずいていた。
「……ありがとうございます」
オーナーは「よし」と軽く手を叩いて、少し姿勢を正す。
「そうだ、亮平くん。同室の蓮だけどね……ちょっと気難しいところあるけど、気にしないで」
「……え?」
「悪いヤツじゃないんだよ。ただ、無口で感情がちょっと分かりづらいだけ。人との距離の取り方が不器用でね。でも、根は真面目で責任感強いから」
「……そうなんですね」
たしかに、昨日の蓮さんは無表情で、ほとんど喋らなかった。
でも、言葉のひとつひとつは丁寧で、冷たさはまったく感じなかった。
「仕事中もあまり口数は多くないけど、お客さんのことはよく見てるし、スタッフのことも同じ。見てないようで、ちゃんと気にかけてるよ」
「……はい」
その話を聞いて、昨日の蓮さんの印象が、俺の中で少しずつ形を変えていく。
何を考えているのか分からないけど、言葉以上に伝わってくるものがある――そんな気がした。
(気難しい、か……)
たしかにそうかもしれない。
けど、不思議と怖さは感じなかった。むしろ、どこか気になる存在だった。
オーナーはふっと笑って、話を切り替えるように言った。
「さて、あとで名刺の準備もしよう。今日は基本見学だけど、途中から少し場に出てもらうからね」
「はい、頑張ります」
口の中が少し乾いているのを感じて、舌でそっと唇をなぞった。
緊張はまだ完全には抜けない。
でも、“気難しいナンバーワン”と同じ部屋に住んでいる俺が、この世界でどこまでやっていけるんだろうか――
そう思いながらも、不思議と胸の奥には、ほんの少しだけ希望が灯っていた。
―――――――――――――――――
開店準備が終わると、あっという間に夜がやってきた。
俺は、黒いシャツにスラックス姿のまま、フロアの隅の壁際に立っていた。
「今日は見学でいいから」ってオーナーに言われたとおり、グラスに触れることも、お客さんの隣につくこともなく、ただホストたちの動きを黙って見ていた。
クラブ『Lune』の夜が、少しずつ色づいていく。
シャンデリアの光がグラスに反射して、店内のあちこちに笑い声と乾杯の音が広がる。
淡い香水の匂い、シャンパンの泡のはじける音、そしてお姫様たちの華やかな声。
「はーい!うちの女神ご来店で〜す!今日も姫、最高に綺麗〜!」
「ええ〜そんなこと言ってぇ、でも嬉しい〜!」
「照れてる顔がまた可愛いって〜!」
最初に目に飛び込んできたのは、若手ホストたちが常連のお姫様たちと笑顔で盛り上がっている光景だった。
そのテンションの高さに、思わず目を丸くする。
声のトーン、手拍子、身振り、乾杯のリズム、アイコンタクト――全部が計算されてて、まるで舞台のショーを見てるみたいだった。
「姫、今日はなに飲む?え、モエ!? マジ!? うわ、テンション上がる〜!!」
「盛り上げてくれるの!? 俺、もう幸せすぎる!」
「姫に出会うために生まれてきた説、ある!」
ふざけてるようで、その場の空気を細かく計算してるのが分かる。
どの動きも会話も、目的はたった一つ――お客さんを笑顔にすること。
(……すごいな)
ただの盛り上げ役じゃない。
“笑わせる”のと“笑われる”の違いをちゃんと分かってて、狙って魅せてる。
接客というより、もはや“演出”。
でもそこにあるのは、確かな“サービス精神”。
楽しませたいという思いが、空間全体を動かしていた。
「こういうノリ、俺にもできるのかな……」
ぽつりと、独りごとのように呟いた。
自分の“明るさ”とはちょっと違う、プロとしてのエンタメ力。
話すだけじゃなく、表情も動きも含めてすべてが武器になる場所。
ふと横を見ると、別のテーブルでは年配のお客さんに寄り添って、静かに会話をしているホストがいた。
落ち着いた口調、丁寧な相づち、そして笑顔。
さりげなくグラスをすすめながら、安心できる空気を作っていた。
(……一人ひとり、接客のスタイルが全然違うんだな)
同じ店で、同じ空間で、それぞれが自分の持ち味を最大限に活かしている。
その柔軟さと観察力に、自然と見入ってしまった。
――そのとき。
ふっと、フロアの空気が変わった気がした。
「こんばんは」
低くて静かな声とともに、黒いジャケットを羽織った蓮さんが現れた。
昨日と変わらず、口数は少なめで、表情もあまり変わらない。
けど、その歩く姿に、周囲が自然と空気を合わせていくような気配があった。
「わ……来た……」
思わず、声が漏れた。
蓮さんは、無言のまま担当のお姫様の元へ向かっていく。
そして、深く頭を下げ、ゆっくりとグラスにシャンパンを注いだ。
「今日も来てくれて、ありがとうございます」
それだけ。たったそれだけの言葉なのに、女性の表情がふわっと緩んだ。
声に安心感があって、言葉が少なくてもちゃんと伝わっている。
視線も仕草も、どこまでも丁寧でまっすぐだった。
お姫様が話しはじめると、蓮さんは視線を逸らさずに、静かに相づちを打っていた。
会話の内容までは聞こえなかったけど、その眼差しだけで、“特別扱いされてる”という感覚をきっと与えている。
(……あれが、ナンバーワンの接客)
派手さはない。テンションも高くない。
でも、そこには“本気”があった。
演技のように見えても、しっかり心がこもってるのが分かる。
俺は、息を呑むようにしてその姿を見つめていた。
「はーい!姫、今日もありがと〜!かんぱーい!」
「〇〇くん、テンション高すぎ〜!」
店内には、賑やかな乾杯の声が響き渡る。
グラスの音、笑い声、香水とお酒の香り――
フロア全体が、まるでフェス会場みたいに熱を帯びていた。
だけど、その中で。
明らかに“異質”な空気をまとう人が、ひとりだけいた。
蓮さんだった。
黒いジャケット姿で、ゆったりと歩くその背中。
誰かと張り合うこともなければ、声を張ることもない。
むしろ、盛り上がるほどに、彼の静けさが浮き彫りになる。
その“静けさ”が、目を引く。
不思議な魅力だった。
「今日も、来てくれてありがとうございます」
テーブルに座ると同時に、蓮さんは深く一礼し、シャンパンを静かに注ぐ。
その動作ひとつひとつが洗練されていて、まるで儀式のようだった。
「……蓮くんってさ、あんまりしゃべらないけど、ずっと見てくれてるよね」
女性客がふと微笑む。
蓮さんはそれに軽く目を細めて、ほんのわずかに頷いただけだった。
それだけで、十分だった。
彼女はうっとりしたようにグラスを手に取る。
そして、ふわっと言った。
「今日も、蓮くんの声聞いてるだけで癒される……シャンパン、もう一本入れようかな」
その言葉をきっかけに、スタッフがスムーズに動いて新しいボトルが届く。
“シュポン”という音とともに、新しいシャンパンが空気に香りを混ぜる。
そして、また一本。
彼女は嬉しそうに蓮さんを見つめ、彼は変わらぬ手つきでグラスを満たしていく。
話の主導権は常に彼女にあり、蓮さんは終始聞き役に徹していた。
でも、その“聞く姿勢”が驚くほど丁寧で、真剣だった。
(……どうして、あんなに静かなのに場がもつんだろう)
不思議だった。
けど、なんとなく分かる気もした。
言葉が少なくても、“そこにいるだけ”で安心させられる人。
表情が薄い分、一つ一つの仕草や言葉に重みがある。
“賑やかにしない”んじゃなくて、“賑やかにする必要がない”。
――それが、蓮さんの接客だった。
俺は気づけば、ずっとそのテーブルから目を離せなくなっていた。
夜が更けて、閉店間際の時間。
客足も落ち着いて、あちこちのテーブルで片付けが進む。
そのタイミングで、蓮さんが奥の方から現れた。
隣には、先ほどのお姫様がついてきている。
二人とも穏やかな顔をしていて、蓮さんは彼女のバッグを軽く持ってあげていた。
「じゃあ……アフター、少しだけ」
彼女の声に、蓮さんはゆっくりと頷いて、ドアを開けた。
夜風が一瞬、店内に吹き込んでくる。
きらびやかな空気をまとったまま、蓮さんは女性をエスコートするように静かに外へ出ていく。
俺はその背中を、フロアの隅からずっと見ていた。
派手な言葉も演出もないのに、
まるで映画のワンシーンみたいに――ただ、目が離せなかった。
(……あの人は、ホストというより“誰かの特別”なんだな)
静かで、優しくて、でもどこか遠い。
蓮さんの背中が、夜の街にゆっくりと溶けていく。
俺は、その姿が見えなくなるまで、動くことができなかった。
―――――――――――――――
寮の階段をのぼって部屋に戻り、そっとドアを閉める。
カーテンの隙間から洩れる街の灯りだけが、室内をかすかに照らしていた。
誰もいない部屋。
その静けさが、さっきまでいた“あの世界”の余韻を打ち消すように、ゆっくりと押し寄せてきて――
俺はその場にしゃがみ込み、床に座った。
(……すごかったな)
ぽつりと、思わずつぶやく。
ホストクラブ『Lune』。
きらびやかで、笑い声があふれてて――でもその中には、いろんな“感情”が混ざっていた。
ホストって、ただ喋るだけじゃなくて、相手の気持ちを読み取って、寄り添って、そっと背中を押すように、その場の主役へ導く。
そんな空間の中で――
蓮さんは、明らかに異質だった。
派手なパフォーマンスもなければ、無理にテンションを上げることもない。
それでも、空間を支配してたのは、間違いなくあの人だった。
手の動き、声の出し方、視線の送り方。
どれも静かで、落ち着いていて、でも不思議なくらい人を惹きつける力があった。
(……俺も、あんなふうになれるんだろうか)
天井を見上げて、息を吐く。
部屋に響くのは、時計の針の音と、窓の外の車の音だけ。
そのとき――
玄関のドアが、カチャリと音を立てて開いた。
「……ただいま」
振り向くと、蓮さんが無言のまま部屋に入ってきた。
黒のジャケットを脱いで、静かにハンガーにかける。
一瞬だけ目が合ったけれど、会話が生まれるわけでもなく、いつも通りの静かな空気をまとっている。
「おつかれさまです」
俺が小さな声でそう言うと、蓮さんは軽く頷いて、「おつかれ」とだけ返してくれた。
疲れてるはずなのに、表情も姿勢もまるで乱れてない。
背筋が伸びていて、無駄のない動きのまま――まるで、緊張を纏っているような静けさ。
「……シャワー、入ってくるね」
そう言って、バスタオルを持った蓮さんはバスルームへ向かう。
ドアが閉まり、数秒後、シャワーの音が流れ始めた。
俺はその音を背に、ベッドの端に腰を下ろす。
(……すごい。あんなに長時間働いてたのに、全然疲れた顔してなかった)
話を聞いて、空気を読んで、感情を探って……
俺なんて、ただ見てただけでぐったりだったのに、蓮さんは、まるでそれが日常の延長線上にあるかのように振る舞ってた。
やがて、シャワーの音が止まる。
しばらくして、蓮さんが濡れた髪をタオルで拭きながら戻ってきた。
黒いTシャツにスウェット姿。
ただの部屋着のはずなのに、妙にかっこよく見える。
濡れた髪が首筋に貼りついて、体温の残る肌に、自然と目を奪われた。
(……やばい)
気づけば、じっと見つめてた。
慌てて視線をそらす。
心臓が、変な跳ね方をしてた。
蓮さんは、そのままベッドに腰を下ろし、静かに髪を拭いている。
いつも通り、無言。だけど、不思議と気まずさはない。
喋らなくても、嫌な感じがしない。
むしろ、この沈黙が心地よかった。
同じ部屋にいて、会話がなくても落ち着ける人――
そんな存在に出会ったのは、きっと初めてだった。
俺は、夜の街で見た“蓮さん”と、今目の前にいる“蓮さん”の違いに戸惑いながら、
視線を伏せて、小さく息を吐いた。
「……あっつ……」
ベッドに仰向けになって、天井を見つめる。
エアコンの風が弱いせいか、身体に熱がこもっていた。
蓮さんは向かいのベッドで、髪を乾かし終えると、静かに本を開いていた。
(……静かだな、ほんと)
同じ空間に人がいるのに、変な緊張感もない。
気を張らなくていいこの空気に、俺は少しだけ、安心していた。
――そのときだった。
「……今日、頑張ってたね」
唐突に、声がした。
「えっ?」
驚いて起き上がると、蓮さんがこっちを見ていた。
膝に本を置いたまま、穏やかな目をしてる。
「見学だったけど、ちゃんと周りを見てた。緊張してただろうに」
「……あ、はい。めちゃくちゃ、してました」
まさか蓮さんから話しかけられるとは思ってなくて、うまく声が出なかった。
でもその声は、どこかあたたかくて、柔らかかった。
「ホストって、難しそうだなって思った?」
「……はい。正直、何を話せばいいのか分からなくて。
みんなすごくて……俺が入ったら、浮きそうだなって思いました」
すると、蓮さんは小さく笑った。
「そう見えるかもしれないけど、大丈夫。最初からうまくできる人なんて、いないよ」
「……蓮さんも?」
「うん。最初は、全然喋れなかった」
そう言って、蓮さんはベッドの縁に肘をついて、こちらに身体を向けた。
(……近っ)
急に距離が縮まって、息が詰まる。
「でも、無理に盛り上げなくてもいい。大事なのは、ちゃんと相手を見て、声を聞くこと」
「……」
「亮平には、それができる気がするよ」
そう言ったあとの蓮さんの目が、ふっと鋭くなった気がした。
そして次の瞬間――
「……わっ!?」
気づけば俺は、背中をベッドに押し倒されていて、蓮さんがその上から覗き込んでいた。
体重はかけられてないけど、両腕をかわされて、動けない体勢。
「え?ちょ、なに……?えっ?」
焦った声が漏れる。
鼓動が一気に跳ね上がって、言葉がうまく出てこない。
そんな俺を見て、蓮さんはふっと笑った。
「……ふふ、驚いた?」
「えっ……?」
「からかっただけ。そんなに驚くとは思わなかった」
え、からかうって……!
たしかに力は入ってなかったし、何かされそうな気配もなかったけど――
この状況、この距離で、その笑顔はずるい。
「も、もう……心臓止まるかと思いましたって!」
「ごめん。反応が新鮮で、つい」
軽く言いながら、蓮さんは何事もなかったかのように起き上がる。
再びベッドに腰を下ろし、タオルを手に取って濡れた髪を撫でていた。
……自由すぎる。
でも、不思議と嫌じゃない。
(ほんと、何なんだこの人……)
胸の奥で鳴ってるドキドキは、なかなか収まってくれなかった。
押し倒されたときのぬくもり、近すぎた距離。
意味もわからず翻弄されて――なんとなく、負けた気分だった。
そんな俺をよそに、蓮さんがふいに、ぽつりとつぶやいた。
「……でもね」
「……?」
「お客さんと、こういうこともあるかもしれないって、覚えておいた方がいいよ」
「――っ」
その言葉に、思わず背筋がこわばる。
冗談っぽく言ったのかもしれない。
でも、その奥に、ほんの少しだけ現実の重みが混ざっていた気がした。
接客の中で生まれる距離感。
言葉、触れ合い、笑顔――全部が、仕事でありながら、ときに感情を揺らすものになる。
蓮さんは、今それを俺に、そっと見せてくれたのかもしれない。
「……そっか」
俺は、それだけつぶやくのが精一杯だった。
まだ、心が追いついていなかった。
――――――――――――――――――
夜が明けた。
見慣れない天井の下で、目覚ましの音に揺り起こされる。
眠れたような、眠れてないような……そんな曖昧な感覚のまま、ぼんやりとまぶたを持ち上げた。
昨夜の出来事が胸によみがえって、少しだけ、心がちくりと痛んだ。
でも今日は、気持ちを切り替えなきゃいけない日だ。
ついに――初めての接客。
朝ごはんは喉を通らず、洗面所で顔を洗う手もかすかに震える。
シャツのボタンをかける指先が落ち着かなくて、何度もやり直した。
(大丈夫、大丈夫。ちゃんと見てきた。昨日のまま、じゃないはず)
鏡の中の自分にそう言い聞かせて、深呼吸をひとつ。
ぎこちないスーツ姿のまま、寮を出た。
開店前の『Lune』は、前日と同じく、整った静けさに包まれていた。
先輩ホストたちはそれぞれのペースで準備を始め、スーツに着替え、髪を整え、香水の香りがふんわりと漂ってくる。
控えめに笑い合いながら、互いに軽口を飛ばす声が心地いい。
そのなかに――いた。
蓮さんが、フロアの隅、姿見の前に立っていた。
黒のジャケットを羽織って、ゆっくりと髪を整えている。
その仕草ひとつにまで、余計なものが一切なかった。
姿勢、表情、動きのすべてが洗練されていて。
言葉を交わすわけでもないのに、その存在感は自然と空間を引き締めていた。
ナンバーワン。
それは、単なる順位じゃなかった。
誰よりも目立とうとしなくても、自然と視線を集める。
その“静けさ”さえも、蓮さんの武器になっているのが分かった。
(……すごいな)
思わず、見とれていた。
昨日の姿と、今こうして目の前にいる蓮さんはまるで別人のようにも見えるけど――
どちらも、紛れもなく“あの人”なんだ。
「……亮平くん、そろそろ名刺を持ってスタンバイしようか」
オーナーの声に、背筋がすっと伸びる。
ついに、初めての出番が始まる。
緊張で喉が渇いて、足がすくみそうになる。
それでも、深く息を吸って――一歩、踏み出した。
視界の端に、まだ蓮さんの背中があった。
いつか俺も、あんなふうに立てるだろうか。
心臓の鼓動を抱えながら、俺はフロアの光へ進んだ。
――――――――――――――――
「じゃあ亮平くん、次の席、一緒に行こうか」
スタッフの声に、思わず身体がびくっと反応する。
初めての――本格的な接客。
とうとう、その瞬間が来た。
(落ち着け、落ち着け……昨日のことを思い出せ)
頭の中で、何度もシミュレーションした。
蓮さんの所作、先輩たちの距離のとり方、言葉の選び方、視線の使い方――
全部、ちゃんと見てきた。
けど、“自分が実際に席につく”となると、頭の中は真っ白になる。
喉の奥がひりついて、手のひらが汗で湿っていく。
指先に貼りついた名刺が、妙に重たく感じられた。
案内されたのは、30代後半くらいの女性二人。
派手すぎず、洗練されたファッションに、深い赤の口紅がとても似合っていた。
「こんばんは。今日から入りました、佐〇〇〇介っていいます」
なるべく明るく挨拶しようとするけど、声が少し震えているのが自分でも分かる。
差し出した名刺の角が揺れていた。
「へぇ、新人くん?初々しいじゃない」
「どこ出身の子?なんかイントネーションが可愛い~」
「ありがとうございます……!」
優しい反応に、ほんの少しだけ緊張が和らいだ気がした。
けど、そこから何を話せばいいかが、どうしても出てこない。
(えーっと、話題、話題……)
頭の中を必死で探るけど、何も浮かんでこなかった。
昨日のあの鮮やかな接客。
笑いを引き出す会話。
蓮さんの、目線や言葉のタイミング――
全部見て覚えたはずだったのに。
今の俺からは、一つも出てこない。
「……」
数秒、沈黙が流れる。
その“間”が、ひどく長く感じられた。
「……夜のお仕事って、やっぱり大変じゃない?」
女性のひとりが気を遣って話題を振ってくれる。
けど、俺の返しは、
「……あ、はい。えっと、でも頑張ってます」
薄っぺらい返事しかできなかった。
広げる余裕もなく、会話がその場で止まってしまう。
もっと、笑わせたい。
楽しませたい。
けど、焦れば焦るほど、空回りしていく。
女性たちはにこやかに微笑んでくれていたけれど――
その視線は、ゆっくりとグラスへ、スマホの方へと移っていく。
(ああ……これ、失敗してる)
その現実を、どこか冷静な自分が受け止めていた。
先輩ホストがタイミングを見て入ってきて、自然な流れで会話をつなげてくれる。
俺は「ご一緒させてもらいます」と小さな笑みを浮かべるのが精一杯だった。
席を外して、控え室に戻った俺は、鏡の前に腰を下ろした。
映った自分の顔は、ひどく情けなかった。
「……はぁ」
誰にも聞こえないように、小さくため息をこぼす。
額ににじんだ汗をぬぐっても、掌の湿り気がじわりと不快だった。
(もっと……やれると思ってたのに)
いや、本当は分かってた。
そんな簡単な世界じゃないって。
でもせめて――“最初の一席”くらい、ちゃんとやりたかった。
笑ってもらいたかった。
名前を覚えてほしかった。
「また会いたい」と思ってもらえる、そんな時間を作りたかった。
……でも、何も残せなかった。
「……俺、向いてないのかな」
そんな言葉が、喉の奥で膨らんでいた。
ふと、背後でドアが静かに開いた気配がした。
でも俺は振り返れなかった。
今のこの顔を、誰にも見せたくなかった。
胸の奥が、じんわりと痛んでいた。
失敗って、こんなにも苦いんだ。
分かっていたはずなのに――それでもやっぱり、悔しかった。
―――――――――――――――
鏡の前。
そこに映る俺の顔は、見たこともないくらいしょんぼりしていた。
シャツの襟は歪んでるし、前髪は汗で張りついてる。目元にも疲れが滲んでいて、
“ホスト”というにはあまりに情けない顔だった。
何度も深呼吸してみても、胸の重さは消えてくれない。
(せめて、少しでも印象残したかったのにな……)
名刺は受け取ってもらえた。目を見て話せた。けど、
それだけじゃ「また会いたい」とは思ってもらえない。
笑ってもらえなかった。
それが、何よりつらかった。
ふいに、背後の空気が変わる気配がした。
足音もしなかったのに、すぐにわかった。
誰かが――いや、“蓮さん”が来た。
「……大丈夫?」
その声に、思わず肩が跳ねた。
蓮さんだった。
俺は慌てて視線をそらした。
この顔を見られたくなかった。特に、蓮さんには。
「……あ、はい……」
声が上ずって、うまく強がることもできなかった。
蓮さんは何も言わず、鏡の横にあるベンチに腰を下ろした。
それだけ。
近すぎず、遠すぎず。ちょうどいい距離で、
ただ“そこにいてくれる”空気を、静かに残してくれていた。
沈黙が流れる。
でも、不思議と苦しくなかった。
気づけば、俺はぽつりぽつりと口を開いていた。
「……全然、うまくいきませんでした」
「……」
「笑ってほしかったし、名前を覚えてほしかったし。もっと頑張れるって思ってたのに、何を話せばいいか分からなくて……」
蓮さんは、小さく頷いた。
「……最初の席って、一番難しいんだ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「みんな、通ってきた道だよ。俺も最初のときは、何も話せなかった。ただ固まってるだけで、途中から先輩が代わってくれた」
「……本当ですか?」
「あんなに無表情で怖かったって言われた」
「うそ……想像できないです」
「うん。でも、ほんとにあった話」
穏やかに笑う蓮さんの顔はやさしくて、
胸の奥にあたたかいものがじんわり広がっていった。
「……失敗したって思えるのは、ちゃんと向き合ってた証拠だよ」
「え……」
「悔しいって気持ちを持てるのは、それだけ本気だったってこと」
簡単な言葉なのに、その一言が沁みた。
誰も声をかけてくれなかったら、自分の存在なんて空気みたいに薄まってしまっていたかもしれない。
でも今、蓮さんがここにいてくれて、言葉をくれて、
俺はようやく自分の感情に向き合うことができた。
「……ありがとうございます」
震えそうになりながら、それでもやっと絞り出した言葉。
蓮さんは何も言わず、静かに頷いた。
それだけで、心にじんと残った。
「今日はもう休んでいいよ。明日また来て。少しずつ慣れていけばいい」
「……はいっ」
そのひとことに、ぐっと胸が熱くなった。
悟られたくなくて、俺は慌てて顔を鏡に向けた。
その向こうに映った蓮さんの後ろ姿が、どこまでも優しく見えた。
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作者名「木結」(雪だるまアイコン)でご検索ください。
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