テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
Luna🍏☃️🍼
223
その日の執務室の空気は、今朝に限って凍りついたように静まり返っていた。
「……陛下、若井様!? 大丈夫ですか!」
側近の一人が悲鳴に近い声を上げ、扉から入ってきた人影に駆け寄る。
そこにいたのは、かつての豪奢な王衣を脱ぎ捨て、民と同じ質素な仕立ての服を着た元貴だった。だが、その顔色は紙のように白く、いつもは慈愛に満ちた瞳も焦点が定まっていない。一歩踏み出すごとに膝が折れそうになり、壁を伝う指先は小刻みに震えていた。
「おはよう……みんな。ごめんね、少し、寝不足かな……っ」
途切れ途切れの声は羽毛のように軽く、今にも消えてしまいそうだった。額にはびっしょりと脂汗が浮かび、浅い呼吸が静かな部屋に不自然に響く。側近が慌ててその体を支え、近くのソファーへと運び込んだ。
「なぜ、このような状態でお越しに! 今日は重要な執務はございませんのに」
「だって……しごと、たまってるし……。ひろとも、外で……がんばってるから……」
元貴は力なく微笑み、窓の外、遠くの街並みに視線を向けた。普段、敵対する者たちの前では決して見せない脆さを露呈させながら、その唇からは最愛の人の名が漏れていた。
ここ数日、滉斗は再建の要となる区画整理と治安維持のため、不眠不休で現場を指揮している。早くから深夜まで作業に没頭し、移動時間を惜しんで現場近くの宿屋に泊まり込む日が続いていた。愛する人が限界まで戦っているのに、玉座に座る自分だけが立ち止まるわけにはいかない。その強すぎる責任感と愛着だけで、燃え上がるような熱に侵された体を引きずり、ここまで来たのだ。
「若井様なら、陛下が倒れたと知ればそれこそ街を凍りつかせて飛んできますよ。今日はもう、お帰りになって休んでください」
「……やだ。やる、って……決めたから……」
側近たちの必死の制止を拒み、元貴は震える足で再び立ち上がった。執務机へと手を伸ばし、一歩を踏み出したその刹那。
「あ……」
均衡を保っていた糸が唐突に切れた。
崩れ落ちる細い体を、側近が間一髪で抱きとめる。意識の光が急速に遠のいていく中、元貴は最期まで、この場にいない唯一の救いの名を呼んだ。
「ひろと……ごめんね……」
そのまま、彼は深い闇の底へと意識を手放した。
その知らせが、街の北端で巨大な石材を運搬していた滉斗に届くまでに、時間はかからなかった。
伝達係の兵士が肩を揺らしながら駆け寄り、最悪の報告を口にする。
「報告! 若井様が執務室にて卒倒されました! 現在、側近たちがご自宅へお運びしております!」
「……何だと」
滉斗の周囲の気温が、一瞬にして絶望的な氷点下へと叩き落とされた。手にしていた氷の剣が鋭い音を立てて砕け散り、彼は兵士の言葉を最後まで聞かずに地を蹴った。
それは、かつて戦場で恐れられた氷剣術の極致。一陣の冬嵐と化した彼は、障害物をすべて凍てつかせ、愛する者が待つ静かな家へと猛然とひた走った。
「元貴……!」
家の扉を壊さんばかりの勢いで開け放ち、寝室へと滑り込む。
そこには、二人の生い立ちを誰よりも知る、最高齢の側近が静かに控えていた。老人は血相を変えて現れた滉斗を一瞥すると、騒ぎ立てることなく深く一礼し、眠る元貴の傍らから静かに身を引いた。
「若井様。……陛下は、意識を失われるその瞬間まで貴方様の身を案じておられました。相当な無理を重ねておられたようです。明日の公務はすべてこちらで差配いたしましたので、あとは……よろしくお願いいたします」
老人は静謐な言葉を残し、いたわるように一度だけ元貴を見つめてから、気配を消して部屋を去った。
次に元貴が意識を取り戻した時、視界に飛び込んできたのは夕闇の茜色に染まる見慣れた天井だった。
頭の芯が鉛のように重く、熱の残滓が全身を支配している。けれど、熱を帯びた額には、吸い込まれるような心地よい冷たさが添えられていた。
「……ん」
微かな吐息とともに身じろぎをすると、すぐ傍らで冷たい水の音が響いた。重い首をゆっくりと巡らせれば、そこには数日ぶりに再会する、命よりも大切な男の姿があった。
滉斗は、温まった手拭いを桶の水に浸し、一滴の無駄もなく丁寧に絞っているところだった。その横顔には、かつて国を背負って戦った時ですら浮かべたことのない、今にも壊れてしまいそうな不安と後悔が滲んでいた。
「……あ、ひろ、ぱ……」
掠れた、けれど確かな呼び声に、滉斗の手が止まった。
「……良かった。気がついたか」
吐き出されたのは、魂の底から絞り出したような、震える安堵の声だった。
滉斗は新しく絞った冷たい手拭いを元貴の額へと乗せ直すと、そのまま祈るように元貴の手を強く握りしめた。
「ごめんね……しごと、放り出しちゃって……」
「馬鹿を言うな。そんなこと、どうでもいい」
弱々しい謝罪を遮るように、滉斗はたまらず元貴を抱き寄せた。布団越しに伝わるその体温を確かめるように、優しく、けれどもう二度と離さないという確信を込めて。
「心配したんだ。……俺のためだとしても、二度とこんな無茶はするな。お前がいない国など、俺には何の価値もないんだ」
腕の中で、元貴の細い指が滉斗の背を弱く、けれど必死に手繰り寄せる。
数日間の孤独と、高熱に侵された不安な夜が、滉斗の冷たくも絶対的な体温によって静かに溶かされていく。
「……おかえり、ひろぱ」
「ああ、ただいま」
窓の外では、再建の槌音が止んだ街に、穏やかな夜の帳が降りようとしていた。
コメント
2件
リクエスト答えてくれてありがとうございます!