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みもざ
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kurara
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ひより
991
翌朝、施設に差し込む灰色の光は、元貴の痛みを癒やすどころか、残酷なまでに鮮明に浮き彫りにした。
鏡を見るまでもない。
壁に打ち付けた額は赤紫色に腫れ上がっている。首筋には、昨夜絞められた指の跡が禍々しい首輪のように残っていた。
学校に向かう足取りは、鉛を詰め込んだように重い。
元貴の身なりは、見るからに異様だった。施設で用意されたお下がりの服は、昨夜の騒動のせいで、何日も洗濯されていないような独特の埃っぽさを纏っている。髪はボソボソに波打ち、寝癖のまま固まっていた。
教室に入ると、周囲の視線が一斉に突き刺さる。
「うわ来たよあいつ」
「もう来ないと思ったのに」
ひそひそと交わされる言葉の礫。元貴はそれらを聞き流すふりをしながら、真っ直ぐ机に向かった。弱みを見せれば、そこから食い散らかされることを彼は知っている。
授業が始まっても、元貴の居場所はどこにもなかった。
教科書を開く気力もない。教師の言葉は、まるで水槽の外から聞こえる雑音のように遠く、意味をなさない。教壇に立つ教師は、元貴の顔の身体の傷や生気の無さに気づいているはずだ。だが、その視線が元貴と重なることは一度もない。
そして休み時間になれば、さらに露骨な悪意が襲いかかる。
「おい、コジイン。もう学校来んなって言ったよな」
クラスの取り巻きを連れた主犯格の男子が、元貴の机を蹴り飛ばした。ガタン、と大きな音が教室に響き渡るが、周りの生徒たちは一瞬だけこちらを見て、すぐに興味を失ったように会話に戻る。
元貴が座ったまま上目遣いで睨む。
「あ? なんだよその目。お前が来ると、教室が臭くなんだよ」
「ゴミ貴の菌付きのノート、お前にあげるわ〜」
「うぇえ、汚ぇやめろよ!!」
男子が元貴の机に置いていたボロボロのノートを乱暴に掴み、窓から放り投げた。薄汚れた紙が空に舞う。
「わ、飛んでった!飛んでった!!」
「お前やりすぎ〜!!やばあ!!」
元貴は立ち上がろうとしたが、寝不足による目眩が襲い、椅子に沈み込んだ。その様子を見た男子たちが、勝ち誇ったように嘲笑う。
先生は、今の僕を見ても、また泣いてくれるんだろうか。
それとも、このボロボロの姿を見て、ついに「もう来ないで」と見捨ててくれるんだろうか。
元貴は、誰にも届かない気持ちを胸の中で固めながら、ただじっと机に突っ伏した。
放課後を告げるチャイムが響いた。
元貴は周囲の生徒たちが騒がしく帰宅の準備を始める中、一人、泥のように重い体を引きずって立ち上がった。視界の端が時折チカチカと火花を散らす。
「今日は、だめ。あした、あした…」
元貴は、自分に言い聞かせるように、震える唇で小さく呟いた。
今日は木曜日。藤澤先生と約束した「月、水、金」の「金曜日」ではない。本当は、今すぐにでもあの太陽の園へ駆け込みたかった。先生の顔を見て、会って話をしたかった。
けれど、元貴の心の中では、藤澤と交わした「約束」が、逃れられない呪縛のように縛り付けていた。
(先生は忙しいんだ。毎日行ったら、迷惑になる。先生に嫌われたら、僕、本当に……)
藤澤にしてみれば、それは元貴が気負わずに来られるようにと設けた目安に過ぎなかった。だが、拠り所のない元貴にとって、それは神との契約にも等しい重みを持っていた。一度でもその規則を破れば、自分という汚い存在は嫌われてしまう。そんな強迫観念が、彼の足を縛りうけていた。
ボロボロの、踵の潰れた靴に履き替える。その靴は、誰かに踏まれた跡が幾つもついていて、今の元貴の姿そのもののようだった。
「あした、だから…あと、一回、寝ればいいだけ……」
フラフラと校門を出る。
歩道を行き交う人々は、誰も元貴を助けてはくれない。足元がおぼつかず、今にも倒れそうな少年を、都会の雑踏は無関心に飲み込んでいく。
どこへ行けばいいのか分からなかった。
施設へ帰れば、またあの地獄が待っている。
(帰りたくない。でも、先生のところにも行けない……)
行き場を失った元貴は、あてもなく歩き続けた。
このまま、どこか遠いところへ行きたい。誰も僕を知らない場所。このまま歩き続けて、どこか深い海の底か、暗い森の中に吸い込まれて消えてしまいたかった。
薄暗い路地裏の、コンクリートに挟まれた狭い隙間。建物の排気ファンが重低音を響かせ、湿った埃の匂いが立ち込めるその場所に、元貴は力なくしゃがみ込んだ。
もう、一歩も動きたくない。
上着の隙間から入り込む冷気が、痣だらけの体を容赦なく冷やしていく。元貴は自分の腕を抱きしめたが、その手さえも氷のように冷たくて、自らの体温を確かめることすらできなかった。
「……っ…」
時折、大通りを走る車の走行音が遠くで響くのが、別世界の出来事のように聞こえる。自分だけがこの暗い隙間に取り残され、少しずつコンクリートの色に溶けて消えていくような感覚。
(……消えちゃえ。僕なんか。)
すると、元貴の視界に小さな影が動いた。
都会の真ん中には珍しく、痩せ細った野良猫がふらりと姿を現した。毛並みは汚れて固まり、片方の耳が欠けている。その猫は、警戒するように足を止め、じっと元貴を見つめていた。
元貴はチラリとそれを見ただけで、すぐに視線を逸らした。けれど、その猫は、ゆっくりと一歩ずつ距離を詰めてきた。カサリ、と乾いた落ち葉を踏む音が、静かな路地に響く。
猫は、元貴の足元まで来ると、鼻先をひくつかせて彼のボロボロの靴の匂いを嗅いだ。
「……お前も、ひとりなの」
掠れた、消え入りそうな声が漏れた。
自分と同じ。汚れて、居場所がなくて、ただその日を生き延びるためだけに、彷徨っている存在。
元貴は、指先をゆっくりと伸ばした。
その温かさに触れたかった。自分を拒絶しない何かに、一度でいいから触れたかった。
「おいで……」
だが、指先がその汚れた毛に触れる直前。
猫は、何かに怯えたように急に背中を丸め、ウニャッ、と鋭い威嚇の声を上げた。毛を逆立たせ、金色の瞳に剥き出しの恐怖を宿して、元貴を睨みつける。そして、次の瞬間には、脱兎のごとく暗闇の奥へと駆け去ってしまった。
伸ばしかけた手が、空を切ったまま止まる。
「……ぁ、っ」
元貴の喉が、引き攣るように鳴った。 力なく手を下ろすと、再び深く頭を垂れた。
両膝を抱え、その間に顔を埋めるようにして体操座りをする。
(やっぱり。やっぱり、僕は汚いんだ)
猫にさえ拒絶されたという事実が、最後の一滴となって、元貴の心から溢れ出した。
明日になれば先生に会えるという希望さえ、今の元貴には、身の程知らずな傲慢に思えてくる。
あんなに清潔で、優しい光の差す場所に、動物にも嫌われるやつが行ってもいいはずがない。
元貴は、ただ、じっと動かなくなった。
排気ファンの唸り声に混じって、大通りから流れてくる喧騒が冷たく響く。
元貴は、意識が微睡みから覚めるように、ハッとして顔を上げた。視界に映るのは、街灯に照らされたアスファルトと、無機質に通り過ぎていく靴の群れだ。家路を急ぐサラリーマンたちは、一様に疲れ切った顔をして、足元の影さえ見ようとせずに歩いている。その無関心が、今の元貴には鋭い刃のように感じられた。
「やばい、門限っ……」
反射的に口から出た言葉は、皮肉にもまだ日常に戻ろうとしている証拠だった。
立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れる。
元貴は路地を飛び出し、夜の街を全力で走り出した。
ボロボロの靴がアスファルトを叩く。冷たい風が、首筋の痣を切り裂くように吹き抜けていった。
だが。
走り出して数分、元貴の足がふと止まった。
荒い息を吐きながら、夜空を見上げる。
(……なんで、走ってるんだ)
消えたい。
今日一日、ずっとそう思っていた。どこか遠くへ消えてしまいたいと願っていたはずだ。それなのに、なぜ自分は今、園へ必死に戻ろうとしているのか。
別に、帰らなくたっていいはずだ。
門限を破り、そのままどこかに逃げて野垂れ死んだって、誰も困らない。あの施設に、帰りを心待ちにしている人間なんて一人もいない。戻ればまた、昨夜と同じ、あるいはそれ以上のことが待っているだけだ。
(帰らなきゃいい。このまま、誰も知らないところまで……)
そう思う反面、脳裏には職員のあの冷徹な目が浮かぶ。
もし見つかったら。「怒られる」なんて言葉では済まない。外出禁止、食事抜き、あるいはあの狭い部屋に閉じ込められて、完全に自由を奪われる。それは、死ぬことよりもずっと恐ろしい、生殺しの刑告のように思えた。
悶々とした思考が、元貴の足を一歩も動かさなくさせる。
大通りの信号が変わり、人々が波のように押し寄せてくる。その誰もが「帰る場所」を持っているように見えて、元貴の胸は焼けるように痛んだ。
(消えたいのに、怒られるのが怖い。居場所を失うのが怖い。…僕、おかしくなっちゃったのかな…)
元貴は、眩しいネオンに照らされた歩道で、たった一人立ち尽くしていた。
走ることも、逃げることもできず、ただ夜の冷気に包まれながら、出口のない問いを自分自身にぶつけ続けていた。
逃げ出す勇気も、戻る覚悟もない。
誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らず、ただ泡が溶けるように、静かに消えてしまいたいだけなのに。
(…僕は、なんで生まれてきたんだろうなぁ)
その問いに答えてくれる声は、どこにもない。
親に望まれたわけじゃない。愛された記憶もない。思い返せる写真すらない。母親にすら、「わるいこ」と言われたこの僕は、何のために生まれてきたの。
「ぅあ、っ、ぅ、ふっ、……」
喉の奥から絞り出された声は、夜風にかき消された。
感情のダムが決壊し、止まっていた涙が次から次へと溢れ出す。
泣くなんて、いつ以来だろう。泣いたところで誰も助けてくれないと悟った日から、涙は枯れ果てたと思っていたのに。頬を伝う涙は、腫れ上がった傷口に触れて、焼けるような熱さを持って零れ落ちた。
視界が滲み、足元がおぼつかないまま、ふらふらと歩き続ける。
帰らなきゃいけない。でも、体がそれを拒絶している。
どこへ向かっているのかも分からず、ただ本能に引きずられるようにして角を曲がった。
不意に、視界が開けた。
そこには、夜の帳の中で、まるで宝石箱をひっくり返したような温かな光を放つ建物があった。
「太陽の園」だった。
高い窓から漏れるオレンジ色の明かりが、冷たいアスファルトを優しく照らしている。
そこからは、微かに、けれどはっきりと、楽しそうな笑い声が漏れ聞こえていた。
「……あ」
元貴は足を止め、細めた目でその光を見つめた。
あの中に、涼先生がいる。
あの中に、自分を思って泣いてくれた、あの人がいる。
今は夜ご飯の時間だろうか。
窓越しに、たくさんの人影が動いているのが見える。大きなテーブルを囲んでいるのか、食器の触れ合う音や、子供たちの賑やかな声が、壁を突き抜けて元貴の耳に届く。
(いいなぁ……)
なんとも言えない、胸が締め付けられるような感情が湧き上がった。
あそこの施設の子になれたら、どんなに幸せだっただろう。
毎日、あの温かい光の中に帰って、誰かと笑いながらご飯を食べて。
でも、そんな馬鹿げた考えを、すぐに自分で打ち消した。
(それじゃ、ダメだ。……もし僕があの施設の子だったら、涼先生とは出会えてなかったかもしれないし)
そんな、どうでもいい仮定の話が頭の中をぐるぐると回る。
現実逃避だ。そう分かっていても、そう考えずにはいられなかった。
目の前の光があまりに眩しすぎて、直視していると自分の心が粉々に砕けてしまいそうだったから。
ふと、自分の姿に意識が戻る。
汚れた服。ボサボサの髪。傷だらけの身体。
そして、門限を破り、行き場もなく徘徊している、惨めな自分。
あの中にいる子供たちと自分は、同じ「親のいない子」かもしれない。
けれど、今この瞬間、自分と彼らの間には、宇宙の端から端まで届くような絶対的な距離がある。
あちら側には光があるんだ。
立ち止まっている自分が、酷く場違いなものに思えた。
もし今、涼先生が窓からこちらを見つけたらどう思うだろう。
心配してくれるかな。また泣いちゃうかも。
元貴は、溢れ出る涙を乱暴に袖で拭った。
けれど、拭っても拭っても、新しい涙が視界を遮る。
「……かえらなきゃ、」
誰に言うでもなく、そう震えた声で呟いた。
コメント
9件
わー!!更新ありがとうございますっ!元貴くんの涼先生にだけは嫌われたくない、拒絶されたくないって気持ちがひしひしと伝わってきて苦しいです😭早く見つけて救ってあげてー涼先生ー!
続きありがとうございます😭 可哀想で苦しく、切なくなります。 けど涼先生を想う元貴くんが可愛くて切なくて、ここからどうなるのかなって想像がつかなくて読んでいてワクワクします! 消えたいけど怒られるのが怖い、元貴くんには今涼先生しか希望がないのにそれすらも薄れていくのが切なすぎます😭 早く元貴くんと涼先生が会ってお話できますように😭✨ 続き楽しみにしてます😊
涼先生ー!!はやく元貴をみつけてーー!!