石畳の廊下に足音が交差する。
冷たい空気が張り詰めた朝の拠点内で
静かに、だが確かに
〝ざわめき〟が満ちていた。
それは声にならない囁き。
言葉にすればたちまち
〝静粛〟の対象になりかねない
それでも口を噤みきれない好奇と
警戒と疑念の連なりだった。
──昨日
あのアライン様が、穏やかに話した。
まるで別人のように柔らかく。
それなのに
最後には容赦のない宣言で全てを凍らせた。
⸻
中庭近くの回廊。
数人の黒服の男たちが
焙煎された珈琲の紙カップを手に
誰からともなく輪を作っていた。
「なぁ⋯⋯聞いたか? 昨日のあの声。
穏やかすぎたろ、あのアライン様が」
「⋯⋯ああ。
俺は部屋の外に立ってたけど⋯⋯
口調だけじゃない。
歩き方、目線⋯⋯全部が違った」
「違うって言えば⋯⋯
喫茶桜に行ってた精鋭部隊。
あいつら
帰ってきた途端に態度が変わってた。
まるで──信者みたいに」
「それに、昨日の〝宣言〟
⋯⋯まるで慈善団体みたいな
話をされたんだぞ?
〝助け合い〟だの〝理想〟だの⋯⋯」
「なぁ⋯⋯アリアって女
捕まえたって聞いただろ?
まさか⋯⋯何かされたんじゃないか?」
言葉の最後だけは、誰もが声を潜めた。
その沈黙を切るように
一人が珈琲をすすりながら呟く。
「でも⋯⋯最後の一言は⋯⋯
〝いつもの〟アライン様だったろ。
あの目⋯⋯背筋凍ったよ」
「⋯⋯あれだけは
間違いなく本物だったな」
その場は、それ以上の言葉を飲み込み
互いの表情を確認し合うように
視線を交わした。
⸻
──別の場所。
拠点の奥、私室棟の一角。
メイドたちが給仕や衣類の仕分けを終え
食堂横の控室で小さな声を交わしていた。
「あの⋯⋯今日のアライン様
すごく〝優しかった〟と思いませんか?」
「うん⋯⋯
〝ありがとう〟なんて⋯⋯
初めて聞いたかもしれない⋯⋯」
「それに、わたし達が目を見て話しても
ちゃんと返してくださって⋯⋯
まるで〝人〟みたいだった」
「しっ!
そんなこと言ったら⋯⋯消されるわよ!」
声を潜めた少女に
先輩らしき者が慌てて口元に指を当てた。
だが、若いメイドの瞳は潤んだままだった。
「でも⋯⋯本当に、今日のアライン様は
穏やかで⋯⋯なんか、あったかくて⋯⋯」
「⋯⋯もし〝あの方〟が
変わってくださるなら──」
控室の空気が、ゆっくりと揺れた。
それは希望でも、恐れでもなく
まだ正体の掴めない〝予感〟だった。
⸻
──だが
その柔らかさに心を許しきれぬ者たちは
今も確かに存在していた。
執務室の影。
監査部門に属する男が一人
手帳にメモを走らせながら呟いた。
「⋯⋯違和感。
性格の乖離。
発言内容の変質。
精鋭部隊の変貌──
どれも、偶然とは思えない⋯⋯」
鋭利な目つきが
机の端に置かれた最新の報告書を
睨みつけていた。
「⋯⋯〝何か〟があったな、確実に」
静かに、組織の中で
疑念と微かな希望が同時に芽吹いていく。
誰も真実を知らぬままに──