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麗太
#追放
第十四章 自由の刃編
第196話 自由になる
【どこでもない層/深層観測室】
レアは、白くも黒くもない廊下を歩いていた。
床はある。
壁もある。
けれど、そこが本当に場所なのかは分からない。
足音は鳴らない。
空気も揺れない。
ただ、彼女が進むたびに、周囲の暗い面に細い文字列が流れた。
名前。
役割。
観測。
命令。
器。
顔。
それらの文字が、レアの肌に触れる前に消えていく。
レアは立ち止まらなかった。
やがて、廊下の先に広い空間が開けた。
中央には、黒い椅子がある。
椅子というより、観測台に近い。
その背後には、いくつもの薄い画面が浮かんでいた。
現実側の駅周辺。
戻ったロータリー。
壊れたバス停。
地面に残された警官の制服。
別の画面には、転移した学園が映っている。
校庭の傷。
体育館。
空になった箱。
そして、その全てを見下ろすように、カシウスが立っていた。
「来たか」
カシウスは、振り返らずに言った。
レアは少し離れた場所で止まる。
「来たよ」
「逃げたのではなく、来た」
カシウスは静かに言う。
「そこは評価してもいい」
レアは笑わなかった。
「評価はいらない」
そこで、カシウスがようやく振り返った。
その顔に怒りはない。
焦りもない。
ただ、目の前のものを測るような冷たさがあった。
「なら、何がいる」
レアはまっすぐカシウスを見た。
「私は自由になる」
その言葉が、観測室に落ちた。
周囲の文字列が、一瞬だけ止まる。
カシウスは、わずかに目を細めた。
「自由、か」
レアは続けた。
「私は、あなたの物ではもうない」
「カシウスの実験体でも、顔を使うための道具でも、誰かを揺らすための役割でもない」
カシウスは黙って聞いている。
レアの声は静かだった。
だが、箱の中にいた時よりも、少しだけ熱があった。
「私は、私自身で私の役割を見つけたい」
カシウスは、そこで小さく息を吐いた。
笑ったのではない。
呆れたようでもない。
ただ、計算にない小さな誤差を確認したような息だった。
「君はまだ、自分を自由なものだと思っているのか」
「思ってる」
「君の顔も、言葉も、力も、こちら側で整えたものだ」
カシウスはゆっくり歩き出す。
「君が自由と呼ぶものも、誰かが用意した選択肢にすぎない」
「それでも選ぶ」
レアは答えた。
カシウスの足が止まる。
「選ぶ、か」
「うん」
レアは頷いた。
「箱の中で、サキに言われた」
「今出たら、敵の都合で開いた外へ出るだけだって」
「正しいな」
「でも、私は出た」
レアは言う。
「それが間違いでも、怖くても、私は箱の中で分かったふりをしているだけじゃ嫌だった」
カシウスはレアを見ていた。
その視線は、人を見る目ではない。
部品の摩耗を確認する目に近かった。
「それで、ここへ来た」
「うん」
「私に宣言するために」
「うん」
「そして去るつもりか」
「そう」
カシウスは、そこで初めて口元を少しだけ動かした。
「面白い」
レアは少しだけ眉を寄せる。
「面白くないよ」
「面白い」
カシウスは言った。
「自分で選んでいると思う者ほど、観測しやすい」
「なぜなら、その者は自分の選択に意味があると信じているからだ」
「何が言いたいの」
「君は、自分の役割を見つけたいと言った」
カシウスは淡々と続ける。
「なら、見つければいい」
「だが、君が見つけたと思う役割が、本当に君のものかどうかは別だ」
レアの黒い片目の奥で、文字列がわずかに乱れる。
「私は、もう戻らない」
「どこへ」
「あなたのところへ」
「では、どこへ行く」
レアは答えられなかった。
カシウスは、その沈黙を見逃さない。
「戻る場所がない者は、自由とは呼ばれない」
「ただ、漂っているだけだ」
レアは少しだけ唇を噛んだ。
けれど、目は逸らさなかった。
「それでも、漂う方がいい」
「誰かの命令で歩くよりは」
カシウスは何も言わない。
レアは一歩下がった。
「私は行く」
「止めない」
その返事は、あまりにあっさりしていた。
レアは逆に警戒する。
「本当に?」
「止める必要がない」
カシウスは言った。
「君がどこへ行こうと、君の中にあるものは消えない」
「顔を使った記録」
「人を殺した記録」
「役割を借りた記録」
「それらは、君が自由になったと言ったくらいで消えるものではない」
レアは黙った。
その言葉は、レアの内側に深く刺さった。
カシウスは続ける。
「行け」
「君が見つけた自由が、どれほど持つのか見ていよう」
レアは何も答えず、背を向けた。
歩き出す。
廊下へ戻る直前、カシウスの声が届いた。
「レア」
レアは止まらない。
カシウスは静かに言った。
「君が君自身の役割を見つけた時」
「それが、こちらにとって最も使いやすい形になることもある」
レアは振り返らなかった。
「もう、使わせない」
そう言って、彼女は深層観測室を出た。
その背後で、カシウスは浮かぶ画面へ目を戻す。
駅。
学園。
サキ。
ハレル。
そして、レアの消えた通路。
カシウスは低く呟いた。
「なら、見せてもらおう」
「君が、どこまで君でいられるか」
その足元で、細い黒い文字列が、静かに廊下の奥へ伸びていった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・旧学園跡地周辺/朝】
森になった学園跡地を、車両の列が囲み始めていた。
警察車両。
特殊部隊の車。
対策班の機材車。
簡易医療車両。
光具を積んだ搬送車。
以前ここへ来た時とは、規模が違う。
城ヶ峰は、仮設指揮所の前で地図を広げていた。
「北側に第一封鎖線」
「東側は民間道路を完全に止めろ」
「南西の林道は、特殊部隊を二班」
「誰も単独で入るな」
隊員たちが一斉に動く。
木崎は、森の奥を見ていた。
そこには、本来なら学園があった。
校舎があり、校庭があり、生徒たちが通っていた場所。
だが今は、木々が異様な密度で生い茂っている。
幹の間には、校門の残骸のようなものが見えた。
金属ではなく、木と石と現実の鉄が混ざったような奇妙な門。
駅周辺が戻ったことで、ここにも変化が出ていた。
前よりも、輪郭が見える。
森の奥に、校舎の影がある。
現実には存在しないはずの校舎の輪郭。
しかし、異世界側の学園と重なる座標として、そこに薄く浮かんでいる。
日下部が端末を見ながら言った。
「駅を基準点にした補正が効いています」
「以前は学園跡地全体がぼやけていましたが、今は校舎外周らしき反応が取れます」
木崎が聞く。
「戻せるのか」
日下部はすぐには答えなかった。
「まだです」
「駅より難しい」
「建物だけ戻せばいいわけではありません」
城ヶ峰が視線を向ける。
「理由は」
日下部は画面を切り替えた。
「学園には人がいます」
「生徒、教師、ハレルさんたち」
「それぞれの位置、名前、記憶、学園内での関係」
「全部が絡んでいます」
木崎は小さく頷く。
「駅前みたいに、人の導線だけ先に戻すわけにもいかないか」
「はい」
「学園を戻すなら、建物と人を同時に戻す必要があります」
「ただし、一度に広げすぎると、また影が乗る」
その言葉に、ラスト戦の記憶が全員の脳裏をよぎった。
広げすぎれば、影も入る。
城ヶ峰は短く言う。
「では、囲む」
日下部が顔を上げる。
「はい」
「学園跡地全体を囲む」
城ヶ峰は地図に指を置いた。
「外側から座標を逃がさない」
「内側からはハレルたちが支える」
「現実側と異世界側、両方で同じ校舎を掴む」
木崎はカメラを構えた。
「また厄介なことになりそうだな」
城ヶ峰が返す。
「前よりは条件がいい」
「駅が戻ったからか」
「それもある」
城ヶ峰は森を見た。
「それに、我々も前より分かっている」
木崎は小さく笑った。
「分かってきたころが、一番怖いんだがな」
その時、日下部の端末に、細い白い線が走った。
日下部が息を止める。
「補助層反応……」
木崎がすぐに振り向く。
「匠か?」
日下部は画面を見つめた。
「まだ声にはなっていません」
「でも、線はあります」
「駅が戻ったことで、こちら側からも補助層へ触れやすくなっています」
城ヶ峰が言う。
「記録しろ」
「必要なら、ハレル側へも回す」
日下部は頷いた。
森の奥で、風もないのに木々が揺れた。
旧学園跡地が、こちらを見返しているようだった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・朝】
体育館では、生徒と教師の確認が続いていた。
駅が戻ったという報告は、すでに全員に伝わっている。
最初は、小さなざわめきだった。
「駅が戻ったの?」
「じゃあ、次はここも戻る?」
「本当に帰れるの?」
先生たちは、簡単に「大丈夫」とは言わなかった。
でも、黙って不安を膨らませることもしなかった。
「今、準備しています」
「勝手に動かず、名前確認を続けてください」
「自分がどのクラスにいるか、隣に誰がいるか、声に出して確認しましょう」
名前。
クラス。
友だち。
先生。
それが、学園を学園として固定するために必要になる。
ノノの声が、イヤーカフから入った。
『ハレル、聞こえる?』
ハレルは体育館の入口近くで答える。
『聞こえる』
『現実側、旧学園跡地に大部隊で展開開始』
『駅を基準点にして、学園帰還の準備に入る』
ハレルは息を吸った。
『いよいよか』
『うん』
ノノは少しだけ間を置く。
『でも、すぐには戻せない』
『学園は駅より複雑』
『建物だけじゃなくて、人と記憶も一緒に固定しないと危ない』
サキが横で聞いていた。
「名前確認がいるんだよね」
『そう』
ノノが答える。
『サキ、体育館内の名前確認をまとめて』
『クラスごと、先生ごと、誰がどこにいるか』
『ただの点呼じゃなくて、“ここが学園だ”って確かめるため』
サキは頷いた。
「分かった」
リオは壁にもたれ、右腕の副鍵を押さえている。
「俺は?」
『リオは校舎側の導線を支えることになると思う』
『前より大きい規模になるから、無理に出力を上げないで』
『右側を薄く、長く』
リオは短く返す。
「了解」
ダミエは少し離れた場所で、結界の線を見ていた。
疲労はまだ残っている。
だが、顔色はさっきより戻っている。
『ダミエ』
ノノの声が入る。
『学園結界を、今までみたいに閉じる形から、帰還用の外箱へ変える必要がある』
ダミエは答える。
「分かっている」
「守るための箱ではなく、戻すための箱だな」
『そう』
『でも、一人で抱え込まないで』
「善処する」
サキがすぐに言う。
「それ、しないやつ」
ダミエは少しだけ眉を寄せた。
「……努力する」
ハレルは小さく息を吐いた。
その時、ふと、空の箱が目に入った。
レアがいた場所。
もう中には誰もいない。
亀裂は塞がっている。
だが、そこだけ空気が少し冷たく感じる。
サキも同じ場所を見ていた。
ハレルが言う。
「レアは、まだ見つからないんだよな」
ノノの声が少し沈む。
『うん』
『反応なし』
『観測から外れたまま』
サキは小さく言った。
「でも、消えたわけじゃない」
ハレルはサキを見る。
サキは空の箱を見たまま続ける。
「戻る場所を探しに行ったなら……」
「こっちにも、戻る場所を残しておかないと」
ハレルは少し黙った。
「そうだな」
学園を戻す。
それは、生徒たちを帰すためだけではない。
レアが戻れる場所を残すことにも、つながるのかもしれない。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層の廊下】
レアは一人で歩いていた。
カシウスの観測室から離れ、白でも黒でもない廊下を進む。
背後に誰かがいる気配はない。
だが、完全に一人だとも思えなかった。
足元に、細い文字列が走る。
役割。
命令。
顔。
自由。
レアは立ち止まり、足元を見る。
「ついてこないで」
文字列は止まらない。
レアは少しだけ笑った。
「やっぱり、そんな簡単じゃないよね」
彼女は自分の手を見た。
箱の外に出た。
カシウスに言った。
自由になると。
けれど、体の奥にはまだ何かが残っている。
誰かの命令の残り。
誰かの顔の記録。
人を殺した時の感触。
自分のものではない言葉。
それらが、完全には消えない。
レアは目を閉じる。
サキの声が頭に残っていた。
今の外は、あなたの自由じゃなくて、敵の都合で開いてる。
「じゃあ、本当の外ってどこなんだろうね」
答える者はいない。
レアはもう一度歩き出す。
その背後で、廊下の文字列がほんの少しだけ濃くなった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・旧学園跡地周辺/仮設指揮所・朝】
旧学園跡地の周囲に、光具が配置され始めた。
駅周辺で得た教訓から、金属製の固定具はできる限り避けられている。
樹脂製の杭。
布製の目印。
手持ち式の光具。
必要な機材だけを、地面へ深く固定せずに置いていく。
木崎はそれを見て言った。
「ラストの件がなければ、こんな準備にはならなかったな」
日下部は頷く。
「ラストがいなくなったとはいえ、固定されたものを過信しない方がいい」
「今後も、影が何を利用するか分かりません」
城ヶ峰が通信を確認しながら言う。
「現実側の包囲完了まで、あと少しだ」
「異世界側の準備が整い次第、帰還試行へ入る」
木崎は森の奥を見た。
「レアが見つからないまま、やるのか」
日下部は一瞬だけ黙る。
「やらなければ、学園の不安定さが続きます」
「でも、レアがどう動くかで、試行は崩れる可能性がある」
木崎は低く言った。
「厄介だな」
「はい」
その時、日下部の端末にまた白い線が走った。
今度は、さっきより強い。
ノイズ混じりに、声のようなものが入る。
『……学園は、建物だけでは戻らない』
日下部が息を呑む。
「匠さん……?」
木崎も振り向く。
ノイズの向こうから、匠の声が続く。
『名前を固定しろ』
『教室を固定しろ』
『ここが学園だったという記憶を、現実側と異世界側で重ねろ』
城ヶ峰が通信へ近づく。
「具体的には」
『現実側は跡地を囲め』
『異世界側は生徒を散らすな』
『ハレルを中心に置け』
『サキに名前を呼ばせろ』
木崎が聞く。
「レアは」
ノイズが強くなる。
少し遅れて、匠の声が返った。
『彼女は、まだ自由ではない』
『だが、完全な敵として扱えば、敵に戻る』
日下部が息を止める。
『名前を呼べ』
『役割ではなく、名前を』
その言葉を最後に、通信は途切れた。
仮設指揮所に、短い沈黙が落ちる。
木崎は森を見た。
「名前、か」
城ヶ峰は地図へ目を戻す。
「なら、その条件を作る」
「現実側も異世界側も、名前を使って学園を固定する」
日下部は頷いた。
「はい」
◆ ◆ ◆
駅は戻った。
次は、学園を戻す。
現実側では、森に変わった旧学園跡地を大部隊が囲み始めた。
異世界側では、生徒たちが名前を呼び合い、学園が学園であることを確かめ始めた。
レアはカシウスに背を向けた。
自由になると告げた。
だが、その自由が本当に彼女のものなのかは、まだ誰にも分からない。
匠は告げた。
名前を呼べ。
役割ではなく、名前を。
それは、学園を戻すための条件であり、
レアを戻すための、細い糸でもあった。
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