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「いや、俺は介抱してあげようとしただけで⋯⋯」
遠くに聞こえる落合さんの声。
今にも嘔吐しそうな私を支える優しい手。
「こういうのやめた方が良いよ」
耳の奥に響く低い声は芹沢さんのもの。
私はうとうとする体を心地よい声のする方に預けた。
♢♢♢
「お兄ちゃん、その人誰なの?」
「世間知らずの新入生⋯⋯」
ぼんやりした意識の中で若い女性の声と芹沢さんの声がする。
私はパチリと目を開けた。
ふかふかのソファーに寝かされていると思ったら、窓の外を見ると次々と変わる車窓。
私は豪華なリムジンの中にいた。
私は勢い良く上半身を起こす。
「すみません、ご迷惑を掛けたみたいで!」
「別に迷惑じゃ無いけど、勉強しに大学に入ったんじゃないの? 酔い潰れてお持ち帰りされそうになってるなんて、情けないよ」
真っ直ぐに私を見る芹沢さんの目は心配するような軽蔑するような複雑な色をしていた。
「お兄ちゃん。女の子には優しくして! 大丈夫? 怖かったよね」
私に話し掛けてくる女の子はストレートのサラサラの黒髪に上品なクリーム色のワンピースを着ている。
顔立ちはおそろしく整っていて芹沢さんと何処となく似ているモデルさんのようだ。
「芹沢さんの妹さん?」
「ピンポーン。当たり! 凄い! 大体私を見た女はお兄ちゃんの彼女だって勘違いして敵視してくるよ」
「流石に彼女には見えません。芹沢さんがこんな幼い子に手を出すようには見えませんせから」
目の前にいる女の子は長いまつ毛に彩られた白目が青白く見えるくらい澄んだ目をしている。
まだ幼くて、それでいて純粋な感じ。
「幼いって初めて言われた。大人っぽいって言われるんだよ。まだ、中学三年生なんだけどね。芹沢若菜です。宜しくお願いします」
明らかに質の良いワンピースを着ている彼女は確かに大人っぽい。
でも、表情も仕草も透明で、周りを意識したあざとさがなく昔の自分を想起させた。
「高杉美香です。宜しくお願いします」
私が彼女よに手を差し出すと、彼女は嬉しそうにギュッと手を握ってきた。
「今日はね。お兄ちゃんとのデートの帰りだったんだけど、美香さんはお兄ちゃんの彼女?」
「違います。お兄様が言ってた通り世間知らずの新入生ですし。私、既婚者です」
若菜さんの質問に普通に応えただけなのに、芹沢さんは驚いたような顔をして手に持っていたグラスのシャンパンを一気に飲み干した。
「既婚者って⋯⋯」
今日出会ったばかりの人の疑問に応える必要はない。
それでも、お酒とは自白剤の効果もあったらしい。
私は自分に起きた不幸な結婚の話を二人に話していた。
「グスッ、酷いよ。旦那さん。クズじゃん。すぐ離婚しなよ。というか、そもそもどうしてそんな男と結婚したの?」
若菜さんは感受性の強い優しい子のようだ。私に起きた出来事を自分のことのように捉え涙している。
「ちょうど若菜さんと同じ歳の頃、夫がすごくカッコ良く見えてしまって囚われてしまったんだと思います。教師になりたい夢があったのに、彼のプロポーズに応じて家に入ったのは私の弱さです」
若菜さんが私を心から心配しているのが分かるからだろうか、私は洗いざらい自分の気持ちを話していた。
「自分の間違いに向き合えているなら、一歩進めてるよ。どうして離婚できないなんて思うんだ?」
「逃げ場のない使い勝手の良い使用人ですから。地元で力を持っている夫の家に逆らえるとは思ってません」
芹沢慎也は私の現状を理解できないながらも、理解しようとしてくれていた。
お持ち帰りされそうになっていた私を蔑んでいた男と同一人物とは思えない優しい眼差し。
酔いが回っているのかもしれないが、胸がキツく締め付けられる気がした。
「お兄ちゃん、うちの弁護士を紹介してあげたら?」
レースのハンカチで涙を拭きながら、問いかける若菜さんは天使のようだ。
ノブレス・オブリージュの精神を持っているのだろうか。
「そこまでして頂く関係ではありませんので、結構です」
私はキッパリと断った。こんな泥酔したどうしようもない初対面の女に優しくできるなんて凄い。
「必要ならいつでも言ってくれ。一人で抱え込んだり、人を信じ過ぎたりしないようにしろよ」
芹沢慎也は私に一線を引きながら思い遣ってくれた。
私は見たこともないようなセレブ兄妹に救われ、心が温かくなった。
「それよりもさ。凄いよ美香さん。四ヶ月で四十五キロ痩せたの? 人一人分じゃん! ダイエット本だして!」
若菜さんが目を輝かせながら言った言葉に、芹沢慎也が軽くコツンとする。
「美香さんは体重とかデリケートなこと公に晒すような人じゃないって分らないか?」
私は芹沢慎也が私を名前呼びしたことに驚いた。
もしかしたら、私が離婚したいと言っている男の姓を名乗るのに抵抗があると気を遣ったのかもしれない。
そこまでガラス細工のような繊細なハートをしているつもりはない。
それでも人に気遣われるのは嬉しい。
「お金に困ったら流石になりふり構わないかもしれません」
私が笑いながら言った言葉に芹沢慎也が真剣な顔になる。
「嫌だと思っている事なら、金銭的に困窮しても絶対するな。夜職とかは美香さんに本当に向いてないからな。金に貴賎はなくても、金の稼ぎ方に貴賎はある。自分が恥ずかしいと思う事はしないで欲しい」
「夜職?」
私は彼の言葉に目を瞬かせた。
そんな仕事をしようと思ったことがない。
「お兄ちゃん、踏み込み過ぎ! じゃあ、美香さん。私の家庭教師をやってよ。私、お姉さんみたいな家庭教師が欲しかったんだ」
助け舟を出してくれる若菜さんに思わず笑みが溢れる。本当に優しい子だ。
「家庭教師⋯⋯。私、教師志望だしやってみたいです」
酔いが覚めてくると、教える仕事がしたいという気持ちがモクモク膨らんでくる。
「本当に? 楽しみ! 時給はどうしよう。五千円くらい?」
「五千円? 流石にそんな価値のある授業をする自信はないかも⋯⋯」
若菜さんの言葉に不安になってくる。
そもそも、私は時間でお金を取るような身分の人間なのだろうか。
「うちの大学生の家庭教師の相場が時給五千円。教育学部の学生ならもっと貰っても良いと思うぞ。教えるプロになるんだろ」
芹沢慎也の色素の薄い目に頬を赤く染めた私が映っている。
私は初めて飲んだお酒で高揚しているのか、これから起きるかもしれない出来事に高揚しているのか分らなかった。
コメント
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第8話、拝読しました。芹沢さんの「夜職とかは美香さんに本当に向いてない」という言葉、あの真剣さに胸がじんとしましたね。若菜さんがふわっと家庭教師を提案してくれる流れも、物語としてとても優しい温度感でした。美香さんの心がほぐれて、教える夢を思い出していく過程が丁寧に描かれていて、これからの話がますます楽しみです。