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『雨季に喰われる父 ― 続々・無名』
ソムチャイは、もう
「誰」であるかを忘れかけていた。
声が、日々、増える。
夢のように遠い泣き声。
怒鳴り声。
契約書をめくる音。
鍵の音。
すべてが――
彼の「内側」で、鳴っていた。
時間という概念は、崩れてしまった。
夜も、昼も、なかった。
ただ、音だけが重なり続ける。
彼が父だったことも、
誰かを愛していたことも、
もう、ほとんど実感がない。
あるのは、
“振り払った感触”だけ。
あの夜、
息子の手を放した、その感触。
それだけが、
未だに、鮮明すぎる現実だった。
ある瞬間――
「思考」そのものが、削られた。
ソムチャイは、自分の中に
「他人の記憶」が流れ込んでいることに気づく。
違う人生。
違う絶望。
名も知らぬ子どもが、
誰かの名前を呼びながら消えていく感覚。
親に裏切られる感覚。
“買われる”という言葉の意味が、
理解されてしまう瞬間。
それが、
一度だけではなく、
何百回、何千回も。
やがて――
それが、自分の記憶と混ざり始める。
どこまでが
ソムチャイなのか分からない。
どこまでが
“誰か”なのかも。
そして、気づく。
新しい声は、
「外」から来ている。
季節が変わるたび、
村から――
誰かが消えている。
ソムチャイは、
それを「音」で知る。
戸惑い。
恐怖。
諦め。
それらが、
一人ずつ、
彼に流れ込んでくる。
逃げ場はない。
彼はもう、
罪を背負っているのではない。
罪そのものになっていた。
ナロンの声も――
いつからか、
区別できなくなっていた。
息子の声は、
数多の声に溶けてしまった。
それでも――
どこかで、
「たったひとつだけ」
違う“気配”が、ある。
それは、
消えずに、残り続ける。
彼は、やっと思い出す。
それは――
名前だ。
「ソムチャイ」
誰かが、
彼の名を呼んでいる。
だが――
不思議と、
その呼び声には、息子の温度がなかった。
代わりに、
村の匂いがする。
泥の匂い。
雨の匂い。
人の噂の匂い。
ある日――
村の長老が、ひとり、死んだ。
葬儀の夜、
ソムチャイの中に――
新しい声が加わる。
年老いた声。
「……すまなかった」
長老は、
若い頃、
“仲介役”だった。
売る父と、
買う者を繋ぐ――
橋だった人間。
「知らなかったわけじゃない」
「見ないふりを続けただけだ」
節々に、後悔がにじむ。
ソムチャイは、
その声を聞きながら――
初めて、
「理解」してしまった。
自分は
ひとりの罪人ではない。
この村全体が――通路だったのだ。
それから、
村に「異変」が起き始める。
雨季でなくとも、
子どもが夢に出る。
見知らぬのに、
どこかで会ったことがある気がする顔。
その夢を見た者から――
順に、消えていく。
それは、
秩序ある“回収”のようだった。
ソムチャイは、
初めて恐怖を覚えた。
自分は、終わらないだけじゃない。
増えている。
どんどん、
“重く”なっている。
存在が、
拡大していく。
自分の意志と関係なく、
飲み込むものが、
増えていく。
そして――
最後に、来たのは。
ひとりの、女性の声。
静かで、
穏やかで――
知っている声。
妻だった。
「……あなた」
彼は、
すがるように、その声を追った。
だが――
彼女は、責めなかった。
泣きもしなかった。
ただ、
冷たく、言った。
「あなたね」
「もう、“父”じゃない」
「“場所”よ」
その言葉が、
すべてを、終わらせた。
否定ではなかった。
断罪でもなかった。
定義だった。
それから――
彼の意識は、
急速に薄れていった。
最後に残ったのは、
言葉ですらない、
感覚だけ。
冷え。
重さ。
永遠。
村の名は、
正式な記録から消えた。
数十年後、
そこに街が建った。
誰も、
ソムチャイを知らない。
ナロンを知らない。
だが――
雨が降る夜、
高層住宅の最下層だけ、
子どもの夢が、途切れない。
どの家でもない。
誰の子でもない。
それでも――
必ず、「帰る場所」を探している夢だけが、続いている。
ここまでが続編・第2章。
完全に
救いなし
赦しなし
死による解放なし
忘却すら許されない
世界にした。