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Ave, o Maria, piena di grazia,
il Signore è con te.
Tu sei benedetta fra le donne
e benedetto è il frutto del tuo seno, Gesù.
Santa Maria, Madre di Dio,
prega per noi peccatori,
adesso e nell’ora della nostra morte.
Amen.
小さな教会の、規模に見合った小さな礼拝堂の中に熱心な祈りの声が響く。
その声の主は今や数えることも出来ない日々幾度となくその祈りを唱えていたが、今年の初め、冬の女王が誇らしげに雪と氷の舞踏会を夜ごと開いていた頃に彼女にとっては忘れる事の出来ない二人の子供が悲しい事件を起こし命を落としてしまったのだ。
その事件についての詳細がテレビや新聞を通じて彼女の耳目に届いた時、当初はあの二人はそんな大それた事をするような子どもではありませんと落命した二人を庇うように周囲の言葉に反論していたが、当時も同じ児童福祉施設で二人の世話をしていた別のシスターが、マザー・アガタの前でだけ大人しい子どもでありあなたの目が届いていないところでは随分と酷い事をしていたと教えられ、己が知る顔と別の顔を二人が持っていた事を教えられたのだ。
ただ、どれほど別の顔があったと言われても彼女の中では彼女の手作りのジェラートが食べたいといつも強請っている顔しか思い浮かんで来なかった。
その二人の顔を思い浮かべながら祈りを捧げ、年を取るごとに動作が緩慢になっていく身体で立ち上がると、二人が最後にここに姿を見せたあの日がありありと思い浮かぶ。
「……ジル、ルーク、もう一度あなた達にジェラートを食べさせてあげたかったわね」
教会の今は閉ざされている入口を見つめ、あの日久しぶりだと言いながら照れとそれ以外の感情を抱えてやって来たジルベルトの顔が脳裏に浮かび、少し遅れて入って来たルクレツィオの顔も浮かぶと自然と二人の姿が小さくなり顔も幼くなっていく。
他のシスターの言うように自分にだけは見せない顔があったのだろうか。あの時試練があると言っていたが、その試練とは一体何の事だったのかと過去の二人に問いかけた彼女だったが、別の扉からシスターが姿を見せて名を呼んだことに気付き、それと同時に二人の姿も消えてしまう。
「……マザー・アガタ、そろそろお客様が来る頃ですよ」
「もうそんな時間? 早く戻らないといけないわね」
亡くなった二人を思うのは良いがいつまでも泣いていては心配を掛けてしまうと目尻の皺に入り込んだ涙を手で拭き、教えてくれてありがとうとシスターに礼を言う。
「……二人の遺品を持って来てくれると聞きました。マザー・アガタ、よろしいのですか?」
控え目な言葉に籠もる様々な感情に目を伏せた彼女、マザー・アガタは、わたくしにとっては可愛い子供ですが他の方から見ればそうではない、でもそれは当然のことだと苦笑し胸の前で手を組んで再び二人のために祈りを捧げる。
「どれほどの悪事を働いていたとしても……わたくしぐらいは彼らのために祈ってあげたいのです」
「マザー……」
「さあ、お客様をお待たせするわけにはいかないので戻りましょうか」
「はい」
客人をお待たせするのは良くないと泣き笑いの顔で伝え、迎えに来たシスターの手を借りて礼拝堂を後にする。
シスターに手を引かれて扉を潜ろうとしたマザー・アガタは、懐かしい遠い昔のようなつい最近のような不思議な声が己を呼んだ気がし、足を止めて振り返る。
だが視線の先には小さな礼拝堂の凛とした佇まいがあるだけで、きっと熱心に祈っていたので声だけでも聞きたいと言う願いを聞き届けてくれたのだろうと目を伏せると、声だけでも聞きたいと願った二人の子供のために短く祈りを捧げ、同じく足を止めて待っているシスターの声にお待たせしましたと振り返って苦笑するのだった。
ドイツとイタリアという違いはあれども教会の規模も付設の施設として児童福祉施設があることも良く似通っている教会の客間に通されたのは、飛行機は苦手だという理由で列車を乗り継いでフィレンツェにまでやって来たマザー・カタリーナと、ローマに用事があるから同行すると言って周囲を安心させたブラザー・アーベルだった。
その二人の前にマザー・カタリーナと似た年頃のシスターが腰を下ろしハンカチで目元を押さえていたが、いつまでも泣いてばかりいてはいけないと己に言い聞かせるようにそれを握りしめるともう一度二人に向けて頭を下げる。
「今日は遠路遙々、ありがとうございます」
「いいえ、直接あなたにお渡ししなければと思いましたので、今日はお伺いしました」
マザー・カタリーナの横には小さめの紙袋があり、その中のものをあなたに直接お渡し出来る事が喜ばしくまた安堵できる事だと笑って涙を拭いた目を見開かせる。
「それは?」
「はい。……先の事件で命を落としたジルベルトとルクレツィオの遺品です」
「おぉ、それは本当ですか……?」
マザー・カタリーナの言葉に限界まで目を瞠り、己の隣で控え目に話を聞いていたシスターを振り返って僅かに顔色を明るくする。
「はい。彼が、ジルベルトがドイツで刑事をしていたことはご存じですか?」
「……先日、聞きました」
ドイツにいることは聞いていたが何をしていたのかまで聞いていなかった、それどころかフィレンツェを拠点にした人身売買の組織をルクレツィオと二人で取り仕切っていた事も知らなかったと自嘲され、マザー・カタリーナの目が痛ましげに細められる。
今目の前で悲痛に眉を寄せるマザー・アガタの気持ちは二年前に彼女自身が経験したものと同等だった。
マザー・カタリーナは己の娘と思い教会や児童福祉施設の仕事の後を任せられると思っていたゾフィーが人身売買組織の一員だった事が判明するだけではなく、その後そのことについて彼女の口から直接話を聞く機会を与えられないまま永遠の別れを余儀なくされたのだ。
夢の中で会えたとしてもそれはマザー・カタリーナがゾフィーとの間で交わした数々の言葉から己の心情に沿って選ばれたものを伝えるだけで、本当はどのように思っていたのかを二度と直接聞くことは出来なかったのだ。
あの時、現役の刑事が絡んだ事件としてマスコミもセンセーショナルに取り上げて大騒ぎになり、児童福祉施設で生活していた子ども達を避難させなければならないほどの騒動が沸き起こっていたが、ここは平穏なようだと安心しているとマザー・アガタがどうかしたかと心配そうに眉を寄せる。
「ああ、いえ。……刑事として働いている時、わたくしの息子がジルベルトの同僚として一緒に働いておりました」
「そうなのですね。息子さんは……」
「息子と言っても児童福祉施設で育った子です。その彼がジルの墓に一緒に入れてほしいものがあると言っておりました」
その言葉にマザー・アガタの目が再度見開かれ、ブラザー・アーベルが見守る横でマザー・カタリーナが袋から鄭重に布に包まれたものを取りだしコーヒーテーブルにそれを広げる。
ベルベットの布に包まれていたのは年季の入ったロザリオと同じくらい年季の入った小さなトパーズが台座できらりと光る一組のピアス、そしてポストカードと同じ大きさの封筒だった。
「これは……?」
封筒を手に取ったマザー・アガタが表書きされている名前に違和感を抱いてマザー・カタリーナを見つめると、ジルベルトが刑事として働いていた時、上司の顔が聖ニコラウスに従うクランプスに似ているからとわたくしの息子が上司にあだ名を付けたのだが、いつの間にかそれが仲間内にも広がっていたようで、公には出来ないがそれでも思いを伝えたい時にその名前を書くのだとこれもまた二年前に己が経験したことを思い出しながら小さく笑い、封筒の表書きの意味を伝える。
「クランプスと愉快な仲間達。わたくしの息子、リオンがそう呼んでおりました」
その仲間にあなたの息子のジルベルトも入っていたのだとこの時は表情を切り替えてマザー・カタリーナが伝えると、マザー・アガタの手が震えつつ封筒を胸に宛がう。
「仲間と呼んで下さっていたのですね」
「はい。息子が、リオンが言っておりました」
ジルと俺は本当に良く似ている。児童福祉施設の出身もそうだし宗教には無頓着だけどロザリオだけはどうしても捨てることが出来ない事などもそうだと、マザー・カタリーナがフィレンツェに向かうことを聞いた時、滅多に見ない達観した顔で小さな笑みを浮かべたリオンを思い出し、自分と良く似た境遇だからこそ気が合ったのかも知れないとも言っていたことを伝えると、マザー・アガタの頭が何度も上下に揺れる。
「このピアスはリオンから預かったものです」
「え?」
「学生の頃リオンが良く付けていたピアスで、その手紙と一緒に墓に入れて欲しいと言ってました」
良く似た境遇の自分たちが刑事として出会い、楽しいだけではないがそれでも振り返れば楽しかった日々を過ごし、事件を切っ掛けに袂を分かってしまったが、それでも友として付き合った事に嘘や後悔はない、その思いが手紙とピアスに込められている事を伝え、出されたコーヒーを一口飲んで喉を潤したマザー・カタリーナは、マザー・アガタの目から涙が流れたことに気付き隣に座るシスターに頷いて目を細める。
「その手紙はジルベルトの元上司や同僚達が渡して欲しいとわたくしに託して下さったものです」
きっと心優しい仲間達の言葉が書き連ねられているのだろうと頷き、ほぅと安堵の溜息を零す。
これであなたに直接お渡しするものは総てですと肩の荷が下りた顔で笑うマザー・カタリーナにマザー・アガタが涙を浮かべながら何度も頷いて感謝の言葉を伝える。
「フィレンツェを去る前に今まで生きてきた中で最高の友人と最高の時間を過ごせたと言ってましたが、それはあなたの息子との事だったのですね」
「そのような事を?」
「ええ。あの時のジルは本当に幸せそうでした」
ドイツで出会った友人が彼にとってとても大切な人なのだと分かったと笑い手紙をテーブルに戻したマザー・アガタは、いつの日か二人の亡骸をドイツから運ぶことになった時、お力添えをお願いしたいと二人に頭を下げそれを受けた二人も躊躇わずに同じように頭を下げる。
「その時は声を掛けて下さい。わたくしで出来ることであれば何でもいたします」
「おぉ、ありがとうございます」
いつになるかは分からないが二人を故郷であるこの地に迎え入れられる事が出来ればと手を組む彼女にマザー・カタリーナも目を伏せ、たとえ罪を犯したとしてもわたくしには大切な娘であり、あなたにとっては大切な息子達ですと小さく返しマザー・アガタの目を見開かせる。
「マザー・カタリーナ?」
「マザー・アガタ、人が生きていくという事は嬉しいことや悲しいことの積み重ねです。時には耐えられない苦痛もあるでしょう。でもそれらは総てわたくし達ならば乗り越えられるからと神が与えたもうもの、ですよね」
「……そう、ですね」
「ですので、これからも今まで通り祈りを欠かさず、困難を前に立ち止まっている人達に手をお貸ししましょう」
「ええ、ええ、そうですね」
二人が起こした事件は悲しいものだが教会には日々救いを求める人達がやってくる。その方達を一人でも多く悩みから解き放たれる手伝いを出来ればと、マザー・カタリーナが笑うとマザー・アガタも同じ顔で何度も頷く。
「今日はわざわざありがとうございました」
「いえ。わたくしも直接お渡し出来てホッといたしました」
悲しい事件が切っ掛けとなったが今後良ければ教会同士で交流を持ちたいと二人同時に申し出たため、マザー・カタリーナの横で聞き役に徹していたブラザー・アーベルと向かいに座るシスターが微苦笑を浮かべ、それぞれのマザーの名を呼んで苦笑を深める。
「切っ掛けは何であれ、交流が持てることは嬉しいことですね」
「ええ」
その言葉に頷き合った二人はそろそろ帰ることを伝えてマザー・カタリーナが立ち上がり、ブラザー・アーベルも立ち上がって二人に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
再会を約束して握手を交わした後、マザー・カタリーナがブラザー・アーベルと帰路につくのを教会の扉の前で見送ったマザー・アガタは、二人の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、シスターが迎えに来てようやく我に返ったように苦笑する。
「……二人のお墓に入れましょうか」
「そうですね」
客間のテーブルに置いた遺品を確かめるべく部屋に戻り紙袋にまだ小包が入っている事に気付くと、そっとそれを取りだして包みを開く。
中に入っていたのは見覚えのある一房のブロンドと同じく見覚えのある黒髪で、同封された走り書きのメモにはせめて髪だけでもと書かれていて、これを用意してくれた人達の気持ちが伝わってくる。
「ジルは、本当にドイツで良き友人と出会えたのですね」
「マザー……」
ブロンドと黒髪の束をそれぞれ両手で握りしめたマザー・アガタは、その髪にお帰りなさい、もう何も案ずることなく眠りなさいと伝え、幼い頃日課のようにしていた髪にキスをし、先程と同じように彼らのために祈りを捧げるのだった。
今日も今日とて己のクリニックを訪れる患者に誠実に対応していたウーヴェは、診察が一段落ついた時にスマホを確認し、リオンからの着信があったことに気付いて電話を掛ける。
『ハロ、オーヴェ。診察終わったか?』
「ああ、今終わった。お前は?」
『俺はもう終わったんだけどな、さっきマザーから電話があって、帰りにホームに寄ってくる』
だから今日の迎えが少し遅くなるが大丈夫かと申し訳なさそうな声で問われて大丈夫と返したウーヴェは、マザー・カタリーナに何かあったのか確かめて来てくれと返し、少しの沈黙の後ダンケとじわりと胸が温かくなるような声で礼を言われる。
「ああ」
『あ、でも心配するようなことじゃねぇって、オーヴェ。なんか詳しく聞いてねぇけど、アーベルがローマに行ったとかどうとか言ってたから、その土産でもくれるんじゃねぇの?』
「だったら、良い」
『うん。だからちょっとだけ待っててくれ』
「ああ、大丈夫だ」
だからお前の母の様子を見てきてくれと再度伝えてキスをすると、同じ言葉とキスが返ってくる。
今日は早く帰ることが出来そうなら一緒に買い物に行こうと思っていたのだがこの調子だと時間が分からない事に気付き、家に帰って食事を作る気力がないことにも気付いたウーヴェは、もう一度スマホを手に取るとベルトランの携帯に直接電話を掛ける。
「……バート? 今日の店の混み具合はどうだ?」
『おお? もう診察は終わったのか?』
「ああ、終わった。家で作ろうと思ったけど面倒になった」
ウーヴェの言葉に向こうで苦笑が聞こえ、今日はあいにく満席だから少し狭いがお前の席で良ければいつでも来いと言われて安堵の溜息をつく。
「ああ。じゃあリオンと店で待ち合わせをするから俺だけ先に行く」
『分かった。いつでも良いから勝手に入ってこい』
幼馴染み同士のやり取りを終えてリオンにゲートルートで食事をして帰るのでホームでの用が終われば店に来いとメッセージを送ると、書類などを抱えて入って来たリアに今日もお疲れ様と終業前の労いの挨拶をするのだった。
ウーヴェに連絡を入れて車を教会の敷地前に止めたリオンは、申し訳ないと思いつついつもマザー・カタリーナがいるキッチンに向かって声を張り上げる。
「マザー!」
「リオン? 今日はもう仕事は終わったのですか?」
リオンの声に呼応して顔を出したのは今児童福祉施設で生活している子ども達やその子ども達の世話をしているシスターらだったが、マザー・カタリーナはどこだと聞きながら廊下を進んだリオンは、キッチンではなく以前はゾフィーのものだった部屋にいることを教えられてそちらに顔を出す。
「マザー」
「……お帰りなさい、リオン」
「ああ。アーベルの土産ってなんだ?」
あと電話で言っていた話とはなんだとデスクで何やら書き物をしていた母の背中から手元を覗き込んだリオンは、振り仰いだ顔に達成感と僅かな不安が滲んでいる事に気付いて首を傾げる。
「どうした?」
「あなたから預かったものは確かに彼を育てた方にお渡しいたしましたよ」
「……そっか。ダンケ、マザー」
「あのトパーズのピアスは学生の頃にずっと付けていたものですよね。それを持って行って良かったのですか?」
「ん? ああ、それだから良いんだって」
母の不安を見抜いて苦笑しベッドに腰を下ろしたリオンと向き合うように椅子を回転させたマザー・カタリーナに目を細め、今の俺にはあいつに渡せるものが何もないと告げると、組んだ両手の親指をくるくると回転させ始める。
「俺と似たような境遇だったジルにあの頃の俺から渡したかった。今は俺のものは全部オーヴェのものだからオーヴェの許可なくあげられねぇし、それに……」
流石に温厚で心の広いウーヴェであっても己の心身を徹底的に痛め付けた男の墓に俺がものを遺すことを許せるとは思えないと肩を竦め、だからこれはウーヴェに対しての秘密というよりは、俺の過去の秘密としてマザーとアーベルの中にだけ納めていて欲しいと告げると、マザー・カタリーナが目を伏せて胸の前で一度手を組む。
「分かりました」
「ダンケ、マザー」
リオンが母に礼を告げてタバコに火を付けた時ブラザー・アーベルが荷物を持って入って来たため、ローマに行っていたのかと笑顔で問いかける。
「ああ。マザーがフィレンツェに一人で行かれると言うから、俺もローマでの用事を済ませようと思って同行した」
「そっか、お疲れさん、アーベル。ローマの土産はなんだ?」
「ああ、これだ。ヘル・バルツァーにお渡ししてくれ」
「オーヴェに渡せって事はチョコとかお菓子じゃねぇのか」
「パスタだ」
「さーすがイタリア」
イタリアと聞いた時に連想する一番のものを買って来たと笑顔で告げる天使像を眇めた目で見つめたリオンは、それでも嬉しいありがとうと笑って荷物を受け取る。
「ウーヴェはまだ診察ですか?」
「ん? いや、もう終わったみたいだったな。あ、そう言えばなんかメッセージが来てた気がする」
通話を終えた後にスマホに何かメッセージが入っていた気がした事を思い出して取りだしたリオンは、ゲートルートで食べて帰るから用事が終われば店に来いとのメッセージを受け取り、肩を竦めて今日はゲートルートで食って帰ると笑って立ち上がる。
「もう帰るのですか?」
「ああ、うん。オーヴェが店で待ってるみたいだし帰るわ。……マザー、さっきの件だけど頼むな」
「ええ、分かりました」
「アーベル、土産ありがとう」
「ああ」
マザー・カタリーナが立ち上がってリオンの頬を撫でた後キスをし、同じくキスをその頬に返したリオンは、ブラザー・アーベルに頷いて部屋を出て行くが、その背中を見送ったブラザー・アーベルが顔を振り向けてマザー・カタリーナを見ると安堵の溜息を零しているところで、何かあったのですかと心配になって問いかける。
「アーベル、フィレンツェに持って行ったあのピアスですが、墓に入れて下さいとお願いした事はもう忘れてしまいましょう」
「え?」
「リオンがそう望んでいるのです」
あの子の言葉を借りれば今の俺のものは総てオーヴェのもの、あのピアスはガキの頃の俺のものだからガキの頃のジルに渡すつもりのものだったと、意味の分からない顔になりつつも頷いてくれるブラザー・アーベルに満面の笑みを浮かべて頷き、カインやゼップのようにきっとジルベルトがここにいれば仲良くなれただろうと思うリオンの気持ちの表れだとも伝えると、夏に比べれば沈むのが早くなった太陽の名残に目を細め、さあ、明日の準備をしましょうかとブラザー・アーベルの背中を一つ撫でるのだった。
ゲートルート前の路面駐車場に車を止めたリオンが店の窓越しに店内が大層混み合っていることを確認すると、その窓からリオンを発見したらしいチーフが路地に回れと合図を送ってくる。
それを親指を立てて合図を送って路地に回り込むと従業員や業者が出入りする勝手口を開けて最も近くにいたスタッフに挨拶をする。
「ハロ。オーヴェもう来てる?」
「ああ、リオン、お疲れ。ウーヴェならいつもの席にいる」
「ダンケ」
厨房を通り抜けてパーティションで隠されたテーブルへと辿り着いたリオンは、一足先に飲み物とチーズを用意して貰っているウーヴェを発見し、椅子に腰を下ろして笑いかける。
「ハロ、オーヴェ。遅くなった」
「ああ、お疲れ。マザーの様子はどうだった?」
己が最も心配している事を聞こうとするウーヴェの前にあるグラスを手に取り一口だけビールを飲んだリオンは、マザーは何も変わらずに元気で、やっぱりアーベルがローマに行ったお土産を取りに来いと言っていたと笑うとウーヴェの顔にもその時になって初めて笑みが浮かぶ。
「そうか」
「そうそう。あ、お土産はパスタだって」
「今度それを食べよう」
「賛成」
直近の未来に何を食べるかも気になるが今まさに気になるのはこれから食べるものだと笑うと、チーフがメニューをテーブルに広げてくれる。
「今日のお薦めメニューがいいな、俺」
「ああ。俺もそれにした」
チーフに注文をして代わりに他のスタッフが運んできてくれた炭酸水を飲んで満足そうに溜息をついたリオンだったが、何かを思い出したのかテーブルに手をついて身を乗り出すと、ウーヴェの首が傾げられる。
「どうした、リーオ?」
「うん……ただいま、オーヴェ」
まだここは店の中で自宅には帰っていないがそれでも今朝見送ってからは初めてお前に会うと笑ったリオンにウーヴェのターコイズ色の双眸が左右に泳ぐが、頬杖をつくリオンの手に手を重ねたかと思うと、そっと上体を乗り出して薄く開く唇にキスをする。
「お帰り、お疲れ様、リーオ」
二人にとっては最早当然の言葉でありそれを伝えたり聞いたり出来ない日の方がおかしな気がするほどの日常になっていた言葉を交わした二人は、自然と唇を再度重ねて欲よりも情を深く感じるキスをする。
「……お前らな、いちゃつくのなら車の中か家にしろ」
ここはメシ屋で働いているのは皆恋人募集中か伴侶一歩手前の男達ばかりだ、そんなスキンシップを目の前で見せつけられたら穏やかではいられないとベルトランがリオンの為のチーズを用意しながら目を平らにしている事が分かる声で言い放つと、リオンの唇の端がにやりと持ち上がる。
「そんなこと言うなよ、ベルトラン。美味いメシ食わせてくれ」
「まったく……もう少しで出来上がるから大人しくこれでも食ってろ」
「ダンケ!」
差し出されるチーズに感激の声を上げたリオンの様子にウーヴェが微笑ましそうに目を細めるが、珍しく空腹感を訴える腹の虫にえさを早く与えたいと幼馴染みを見上げるともう少し待てと苦笑で告げられ、その言葉に大人しく従う事を伝える代わりにリオンに出されたチーズを一切れ摘まんで今度は伴侶の蒼い目をまん丸にさせ、偶然それを見たチーフの肩を笑いで揺らせるのだった。
ゲートルートで満足するまで食べた二人はリオンが運転するスパイダーで自宅に戻り、いつものようにステッキをついたウーヴェが玄関のドアを開ける。
このドアを二人で開けて閉めた先の廊下にはウーヴェの為を思ってリオンが付けた手摺りがあり、各バスルームにも動きを手助けするための手摺りや休めるための椅子があちらこちらに置かれていたが、つい先日はキッチンでウーヴェが座ったまま作業をやりやすいようにと背の高いキャスター付きのスツールを購入し、最近ではそれに座って作業台で朝食を食べることも多くなっていた。
二人だけではなく周囲の人々も巻き込んだ事件が終結して約10ヶ月が経過したが、ウーヴェの足が不自由になったからと言ってお互いに抱く思いに変化があるわけでは無く、身体的に不便になったものについては物理的に補い、今まで通りに二人手を繋いで同じ早さで歩いて行く事に変わりはなかった。
ウーヴェを監禁しレイプし続けた事への怒りや腹立たしさをぶつける相手は事件解決時に皆死んでいるためにそれも出来なかったが、その悔しさよりも何よりもただウーヴェが生きていてくれた事が嬉しくて、その嬉しさを思い出したリオンが隣を笑顔で歩くウーヴェの腰に腕を回し、ステッキを取り上げてそのまま膝の裏に腕を回してウーヴェを横抱きにする。
「こらっ!」
「良いから良いから!」
お前は何も心配しないでこのまま抱かれていなさいとウーヴェが惚れてやまない男の顔で笑ったリオンは、いつもならばバカだのなんだのと愛情の裏返しのような言葉が降ってくる筈なのに今日はそれがないことに気付いてターコイズを見つめると、眼鏡がそっと外されてウーヴェが伸び上がるようにリオンの首に腕を回して顔を寄せる。
「リーオ、俺の、俺だけの太陽。愛してる」
「うん。俺も愛してる、オーヴェ」
今日も一日違う場所で精一杯働いて来た、その疲れを取るためにこれからリビングかベッドで満足するまで仲良くしようと笑い合い、リビングでビールを飲みながら一休みすると言われて素直にそちらに向かう。
ウーヴェをソファに下ろして命令通りにパントリーに向かったリオンは、暖炉前を横切った時に視界に入った写真に目を細める。
「どうした?」
「ん? ……うん、この時のオーヴェさ、すげー幸せそうだなーって」
「……幸せだったし今も幸せだぞ?」
リオンの微苦笑混じりの言葉にウーヴェが目を瞠りながら答えると、写真を片手にリオンが振り返る。
「お前は幸せじゃないのか、リオン?」
「……人間、幸せの中にいるとそれが分からねぇってのを思い出した」
「そうか」
「そう。……だからオーヴェ、安心しろ」
お前が良く言うように俺にとってもお前と一緒にいる場所がきっと天国で、今はこの家がそうだと透明な笑みを浮かべると、ウーヴェがソファから立ち上がってリオンの前に足を引き摺りながら向かおうとするが、一歩を踏み出したリオンの手に手を重ねた後その腰に両手を回してしっかりと抱きつき、胸元に抱き寄せられるようにリオンの手が頭に回される。
「……お前は、天国の中にある蒼だ」
「そー言えば新婚旅行でもそんなこと言ってたな」
「ああ」
天上の青、ヘブンリーブルーという花があることは知っていたが、お前は花などではなくその花を照らし輝かせる太陽だと笑い、リオンの右手にそっとキスをしたウーヴェを左手でしっかりと抱きしめたリオンは、俺の光を受け止めてくれてありがとうと小さく礼を言って首筋に顔を押し当てる。
「オーヴェ、俺を幸せにしてくれてありがとう。だからお前も俺と一緒に幸せになってくれ」
「……さっきも言ったけど、幸せだぞ、リーオ」
こうして抱きしめてくれるお前がいる、それが何よりも幸せなんだと噛み締めるように囁いてリオンの背中をぎゅっと握るウーヴェの顎に手を当てたリオンは、軽く持ち上げることで何を望んでいるのかを伝えて目を閉ざさせると、初めての時のように緊張しつつウーヴェの唇にキスをするのだった。
そんな二人を、暖炉の上から縁のある人達の写真や品々がただ静かに見守っているのだった。
Glück des Lebens -Heavenly Blue- ende