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明美たちが去ったあと、投げつけられた写真をかき集めて、スーツのポケットにねじ込む。きっと傍から見る俺の姿は、哀れそのものだろう。
「痛い……」
明美に引っ叩かれて、それなりに時間が経っているのに、ヤケドをしたときのような、ピリピリした痛みがなかなか引かなかった。ただ叩くのではなく、振りかぶって威力をあげた衝撃をモロに受けたせいで、頬が腫れているのかもしれない。
撫でながら、これまでのことを思い返す。
自分の快楽を得るために、妻や愛人たちに好き勝手した報いが、今の現状を表しているのがわかった。
いつかはバレる日がくることが、なんとなく脳裏でわかっていたのに、バレないだろうという変な自信が、俺の行動をさらにエスカレートさせていたと思う。
よろつきながら立ち上がり、蒼空を見上げる。森にいるときは目隠しを施されていたのでわからなかったが、肌から感じる気温がこことあまり変わりない気がする。しかも空はつながっているので、そこまで遠くじゃないのだろう。
「まったく。ここまでやられるとは、考えもしなかった……」
明美の身辺を調べた際に、自分の実家と明美の実家が近所なのを知り、これは使えると咄嗟に思った。女性は体調を崩しやすい生き物で、なにかあればどちらかの実家に世話になれる便利な場所くらいに考えた。
それを今回、逆手に取られた――まさか両家が集まって、俺が復讐される場面を見ていたとは。
「というか、明美はまったく俺の浮気に気づいてなかったのに、わざわざ華代が申告したってことか?」
ぽつりと呟き、自宅に向けて歩を進める。縛られたところも頬同様に、動くたびに痛んだ。
「ハハッ、親父はどんな気持ちで、磔にされた息子の姿を眺めていたんだろうな」
おふくろが知っているのかはわからないが、俺が中学生のときに親父は浮気していた。塾の帰りに親父の背中を見つけて、駆け寄ろうとしたのを寸前でとめたんだ。親父の隣におふくろよりも明らかに若い女がいて、親父の腕に絡まりながら、仲良さそうに歩いてた。
ふたりの前に俺が登場して、仲を裂いたらどうなるか――子供でも答えが導き出せるそれに従わずに、俺はふたりのあとをつけた。
繁華街から外れたところにあるその建物に、吸い込まれるように入ったのをしっかり確認後、そのビルを見上げた。『kakurega hotel asoco』と派手なネオン管が目立つように光り輝いていて、そこはなにをするところなのかが、嫌でも理解できてしまった。
自宅にいる親父はおふくろに優しかったし、外に女を作るなんて夢にも思わなかった。
「そうか。悪いことを家に持ち込まずに、うまくヤればいいんだ」
そうすれば争わずに済む。家庭円満でいられるって思ったのに。
ポケットにねじ込んだ、一枚の写真を取り出してみた。中学生のときに見た若い女に媚びへつらう親父の横顔と、ホテルから出てくる俺の横顔が瓜二つだった。
「親父は今頃、どんな気持ちでいるんだろうな」
複雑な気持ちを抱えたまま自宅に到着し、リビングのテーブルに置いてある離婚届に向き合う。
A3サイズで印刷されたそれを、なんとはなしに眺めた。
すでに記入された妻の欄にある『津久野明美』という綺麗な文字に目が奪われる。書かれた名前を見るのが最後だと思ったら、意味なく見つめてしまった。
「この世でたったひとりの、俺の妻だったのに」
華代には不仲で離婚すると伝えていたものの、実際は明美とそれなりに仲がよくて、一緒にいることに居心地の良さを感じてた。自宅ではダラダラ過ごす出来の悪い夫の俺を、彼女は嫌な顔をせずに、よく支えていたと思う。
だからこの関係が少しでも崩れたときに、それをキッカケにして、離婚を切り出そうと考えていた。だが気づけば、3年の月日が流れていて――。
これまでのことを脳裏で思い出し、離婚届から周囲に視線を飛ばす。そこかしこに、ふたりでやり取りした思い出が溢れていた。それは小さなことから、大きなものまで多種多様で、それすらも今は俺の中にいいものとして残った。
「なんとも言えない喪失感があるな」
しあわせという名の細かい綺麗な石が、両手の隙間から止めどなく零れ落ちていく。ありふれたしあわせが当たり前すぎて、それがどんなに貴重なものだったのか、今頃痛感するとか。
「ううっ、感傷に浸ってる場合じゃない……」
目頭に熱を感じつつ、これでとっとと書けと言わんばかりに、目の前に置いてあったボールペンで、夫の欄を記入していく。先に書いてある明美のものを手本にして書き込んだら、ものの2分で終わってしまった。
(職場の書類も、これくらい簡素なものなら、自分で手掛けるのにな)
あまりにあっけなく終わってしまい、虚無感に襲われながら貴重な休日を過ごした。明美と華代の復讐がこれで終わったと安心したのも、束の間だった。
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