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第四十一章 ノックできなかった夜
目を開けた時、最初に見えたのは、俺の腕に抱きついたまま眠る翔太だった。昨夜の春嵐が嘘みたいに、窓の外は静かに晴れている。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、翔太の髪を淡く透かしていた。先ほどまで降っていたのか、新緑に滴る雨水が光を帯びてポタリポタリと落ちている。
そんなどこにでもある光景すら、
綺麗だと思う俺は、
だいぶ恋に重症なのだろう。
こんな朝が来るなんて、少し前の俺なら想像もしなかった。
カーテン越しの淡い光も、規則正しい寝息も、腕にしがみつく小さな指先も、全部自分には似合わないものだと思っていた。
論文でも、教授戦でもなく。
隣で眠る、たったひとりの存在に、
こんなにも心を持っていかれるなんて――
小さく身動ぎした翔太が、
俺の胸元へ擦り寄るみたいに顔を埋めた。
翔太💙「……ん……」
寝ぼけた声。
そのくせ、掴んだ腕だけは離さない。
思わず笑ってしまう。
昨夜あれだけ泣いていたくせに、こういう時だけ無防備なのは、本当にずるい。
髪に触れようとして、ふと、机の上に視線が止まった。
昨夜、途中まで作っていた外泊許可証。
一気に、現実へ引き戻される。
春の朝の静けさも、柔らかな寝息も、この部屋の温度も。
このまま、ただ隣で眠らせておけたら楽なのに。
でも――ここで終わりにできるほど、簡単な話じゃなかった。
翔太💙「……ん、亮平?」
ゆっくり目を開けた翔太が、眠そうにこちらを見上げた。
その目が、机の書類へ向いた瞬間、小さく表情が揺れる。
蓮の名前が書かれた、主治医欄。
昨夜は見ないふりができたものを、朝は、誤魔化してくれない。
翔太は、しばらく机の書類を見つめていた。
さっきまで柔らかかった表情が、少しだけ現実に引き戻されていく。
何も急かさない。
ただ、腕の中から逃がさないまま、静かに髪を撫でる。
亮平💚「……今日、出す?」
掠れた声。
翔太はすぐには答えない。
代わりに、胸元へ額を押し当てたまま、小さく息を吐く。
翔太💙「怖い」
正直すぎる声だった。
亮平💚「うん」
ただ、それだけ返す。
“頑張れ”とも、
“逃げるな”とも言わない。
その沈黙が、逆に翔太を落ち着かせたのか、しばらくして、翔太が小さく身体を起こした。乱れた髪のまま、机の上の書類へ手を伸ばす。
昨夜、途中で止まっていたペンを握る指は、少しだけ震えていた。向かいへ座ると、ただ、翔太が悩む時間を、静かに待っていた。
カリ、っと小さくペン先が鳴る。
外泊許可証。
主治医欄には、蓮の名前。
翔太は一番下の項目を見つめたまま、しばらく動かなかった。
〝担当看護師 記録欄〟
翔太の後ろに回り込んで肩に手を添えた。
ビクッと驚いたように肩を窄めた翔太は、捨てられた子犬のように、救いを求めるように潤んだ瞳で俺を見た。
亮平💚「大丈夫……翔太が診たままを書くといいよ。自信持って?」
翔太💙「手伝ってくれないの?」
亮平💚「手伝うのは簡単だけど……それでは、蓮は許可出さないよ。患者さんと、もう一度ちゃんと向き合ってきたら?」
翔太💙「そっか――それなら、書ける気がする」
書類を大事そうに胸に抱えると、玄関扉に手をかけた。
翔太💙「行ってきます」
無邪気に笑う翔太に胸が締め付けられる。
翔太💙「……変だよね?また病院でも会えるのに」
くぐもった表情になった、翔太の腰を引き寄せ、抱き締める。〝どうした?〟不思議そうに顔を上げた翔太のおでこにキスをした。
亮平💚「行ってらっしゃい……〝おかえり〟も言えたらいいな――なんちゃってね」
冗談みたいに笑うくせに、腕だけは、なかなか離れない。
翔太は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
翔太💙「……うん」
その返事だけで、
また期待してしまう自分がいる。
カチンと鳴った玄関扉の音。
頭から爪先まで、熱を帯びているのがわかる。玄関扉に額を押し付けるとヒヤリとして気持ちがいい。
初めて自分の事を、亮平に話して、今まで胸の奥へ沈めていたものを、少しだけ誰かに触れてもらえた気がして、息がしやすかった。
それでも1人部屋のベッドに横になると、良いしれぬ孤独感に苛まれた。
いつもは、夜の仕事をしている時間帯。
妹の為などと言いながら、本当は孤独と向き合いたくないだけじゃないのかと、考えたら眠れなかった。
自分の部屋の前。隣の部屋へ視線をやった。
昨夜の自分を思い出す。
消灯後の静かな廊下。
小さな拳を握り締めたまま、蓮の部屋の前で、ずっと立ち尽くす小さな男の子は、その扉をノックしようとして、何度も手を止めた。
もし、
怒った顔をされたら。
もし、
失望されたら。
そう思っただけで、足が動かなくなった。
結局、逃げるみたいに辿り着いたのが、亮平の部屋だった。
自然と足は、また隣の扉へ向かって行く。
真っ直ぐと本音をぶつけてくる蓮が、怖かった。
亮平は、優しい。いつだって俺に選択肢を残してくれるし、俺のことを否定しない。その代わり、欲しい言葉もくれない。
〝今すぐ辞めろ。見てられない〟
強引に腕を引かれて店を出た、あの夜の熱が、まだ腕に残っている気がした。
怖いのに。
どうしても、あの人のところへ行きたくなる。
蓮 🖤「何してる?お前の部屋はあっちだろ」
翔太💙「うわあっ!……ごめんなさい間違えました」
低い声に肩を跳ねさせたまま、翔太は反射的に自分の部屋のドアノブへ手をかける。
蓮 🖤「待て」
ビクッと足が止まる。
蓮は壁にもたれたまま、片目を細めた。
蓮 🖤「……何持ってる?」
その瞬間、抱えていた書類を隠すみたいに胸へ押し付ける。
翔太💙「な、なんでもないです!」
蓮 🖤「“なんでもない”顔してないけど」
じり、と一歩近付かれて、翔太は完全に限界を迎えた。
翔太💙「お、おやすみなさい!!」
勢いよく部屋へ飛び込み、バタン!!と扉を閉める。
数秒の沈黙。
それから、扉の向こうで、蓮が小さく笑った気配がした。
蓮 🖤「ふっ……寝てないのかよ?」
呆れたみたいな声。
でも、その響きはどこか柔らかい。
蓮 🖤「……変なやつ」
扉に吐き捨てた蓮の声。
再び、扉に押し当てた額――冷たい。
コトンッと少し扉が揺れた気がして、その後蓮の足音が遠ざかっていった。
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