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白井 あま 👾
204
第一話 αなんて、嫌い
「……また、αの先生か」
大学の廊下を歩きながら、古賀結衣は小さく息を吐いた。
医学部三年。
白衣を腕に抱え、片手には薬剤の資料。
医師になる。
それが、今の結衣が目指しているものだった。
過去に何があったとしても。
誰に何を言われたとしても。
自分の人生くらい、自分で選びたかった。
医学を学ぶことも、薬剤について勉強することも好きだった。
料理をすることも。
手芸をすることも。
何かに集中している時間だけは、余計なことを考えなくて済む。
――けれど。
αだけは、どうしても苦手だった。
いや。
苦手なんて、そんな簡単な言葉では足りない。
怖い。
それが一番近かった。
「結衣!」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
そこにいたのは、兄の直人(なおと)だった。
「なおにぃ?」
「今日、大学終わるの早い?」
「うん、今日は早いよ。どうしたの?」
「葉月(はづき)くんが結衣と一緒にご飯でも食べたいって言ってて。ほら最近大学帰ってからすぐご飯作ってくれてるしたまには外食でも良いのかなって。」
「……葉月さんが、?」
結衣の表情がわずかに曇る。
直人は、それに気づいた。
「あ、無理なら今日は僕が作るよ、」
「……別に…葉月さんなら…、大丈夫………」
「ほんと、?」
「うん」
直人は、結衣の兄。
そして、今は――土屋直人。
以前は古賀直人だった。
土屋葉月さんと番(つがい)になったことで、土屋姓を名乗るようになった。
葉月さんはα。
なおにぃはΩ。
二人は番の関係だった。
「結衣」
「なに?」
「無理しなくていいからね」
「……分かってる」
兄は、昔からそうだった。
結衣が言葉にしなくても、何となく分かってしまう。
それが少しだけ、悔しい。
「ママ!」
その声を聞いた瞬間。
結衣の顔が柔らかくなった。
大学の外で待っていた二人の子ども。
九歳の双子。
ゆみと、ゆいと。
「おかえり!」
「ただいま」
二人の頭を順番に撫でる。
「今日どうだった?」
「図工やった!」
「俺、先生に褒められた!」
「ほんと?」
「ほんと!」
二人の話を聞きながら、結衣は笑う。
この子たちがいる。
だから、頑張れる。
自分が歩いてきた過去を、全部好きになることはできなくても。
この子たちと過ごす今だけは、大切にしたかった。
「結衣」
直人が呼ぶ。
「今日、葉月くんの兄ちゃんも来るって」
「……お兄ちゃんの兄ちゃん?」
「違う違う」
直人が笑った。
「葉月の兄さん。春樹さん」
「……」
その名前を聞いた瞬間。
結衣の足が止まった。
「どうした?」
「……α?」
「うん」
「……そう」
たったそれだけ。
なのに、胸の奥が苦しくなる。
直人はすぐに気づいた。
「結衣、もし無理そうなら――」
「大丈夫」
「でも」
「大丈夫だから」
結衣は笑った。
いつものように。
無理して笑うことには、もう慣れていた。
◇
「初めまして」
落ち着いた声だった。
結衣が顔を上げる。
そこに立っていた男性を見て、無意識に一歩だけ後ろへ下がった。
土屋春樹。
葉月の兄。
そして――α。
「土屋春樹です」
「……古賀結衣です」
「よろしく」
春樹は、それ以上近づかなかった。
結衣は少し驚いた。
α。
それだけで警戒してしまう自分に、嫌気が差す。
「結衣ちゃん」
葉月が笑いながら言った。
「兄貴、医療関係の仕事してるんだよ」
「そうなんですか」
「うん。結構詳しいよ」
「……私も医学部なので」
「へえ」
春樹が結衣を見る。
その視線に、結衣は少しだけ身構えた。
けれど。
春樹はすぐに目を逸らした。
「じゃあ、俺が余計なこと言わないほうがいいな」
「……え?」
「専門家に素人が口出したら怒られそうだから」
「そんなこと……」
思わず。
結衣の口から、小さな笑いが漏れた。
「……ふふ」
自分でも驚いた。
春樹も少し目を丸くしていた。
「今、笑った?」
「笑ってません」
「いや、笑った」
「笑ってないです」
「そっか」
春樹が笑う。
その笑顔を見て。
結衣は、ほんの少しだけ思った。
――この人。
思っていたαと、少し違う。
◇
それから数週間。
春樹と会う機会は、少しずつ増えた。
葉月と直人が番なのだから、当然といえば当然だった。
「結衣、今日うち寄ってく?」
葉月に誘われ。
「行く」
と答えると。
当然のように春樹もいる。
最初の頃。
結衣は春樹と同じ空間にいるだけで緊張した。
春樹が近くに来れば離れた。
二人きりになりそうなら、別の場所へ移動した。
春樹は、それに何も言わなかった。
追いかけてもこなかった。
理由を聞いてくることもなかった。
ただ。
結衣が離れれば、春樹も距離を取った。
ある日。
結衣はとうとう聞いた。
「……どうして何も聞かないんですか」
「何を?」
「私が、春樹さんを避けてる理由」
春樹は少し考えた。
「聞いてほしい?」
「……分かりません」
「じゃあ、聞かない」
「……」
「話したくなったら、結衣から話せばいい」
あまりにもあっさりと言われて。
結衣は戸惑った。
「普通気になるし、聞きません?」
「聞いてほしくないことを気になるからって聞くのは、普通なの?」
「……分かりません」
「じゃあ、俺は聞かない」
春樹はそう言った。
それだけだった。
◇
結衣には、αを嫌う理由がある。
幼いながらの父親からの性暴力。
同級生によって望まないに妊娠。
高校時代のいじめ。
いくつもの記憶が重なっている。
望んでいなかった出来事の結果として生まれた二人の子ども。
ゆみと、ゆいと。
あの頃。
結衣は、自分の人生が自分のものではないような気がしていた。
それでも。
二人を産んだことだけは、後悔していなかった。
「ママ?」
「……ん?」
「どうしたの?」
ゆみが結衣の顔を覗き込む。
「何でもないよ」
「また無理してる?」
「……」
九歳の子どもに見抜かれる。
「してない」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、ぎゅーして」
「はいはい」
結衣は二人を抱き寄せた。
「ママ、あったかい」
「ゆいとも?」
「うん」
「じゃあ、もう少しだけ」
二人の体温を感じながら。
結衣は目を閉じた。
そのとき。
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
春樹の声。
結衣の身体が一瞬だけ強張る。
それを、ゆいとが見ていた。
◇
その夜。
子どもたちが眠ったあと。
結衣は一人でキッチンに立っていた。
料理をする。
包丁を握る。
野菜を切る。
そうしていると、少し落ち着く。
「……結衣」
背後から声。
「っ……!」
包丁を置く。
振り返ると、春樹が立っていた。
「ごめん」
春樹はすぐに一歩下がった。
「驚かせた?」
「……少し」
「ごめん」
「……」
「何か手伝おうか?」
「いいです」
「分かった」
春樹はそのまま離れようとした。
「……待って」
結衣の声が、思ったより大きく響いた。
春樹が振り返る。
「どうした?」
「……そこにいて」
「ここ?」
「……うん」
春樹は何も聞かず、少し離れた場所に立った。
結衣は再び料理を始める。
包丁の音だけが響く。
しばらくして。
「春樹さん」
「ん?」
「……私、αが嫌いなんです」
「うん」
「怖いんです」
「そっか…」
「あのさ、」
「結衣が俺を嫌いかどうかなんて、結衣が決めることだからね」
「……」
「俺が無理矢理好きにさせようとしないよ、」
春樹は少しだけ笑った。
「だから、怖くていいし、嫌いでいいよ、」
「……。え…」
「結衣さんが嫌なら俺は何もしないよ。」
その言葉に。
結衣の目が大きくなる。
「……変なの」
「よく言われる」
「本当に変」
「うん」
「……でも」
結衣は小さく呟いた。
「……少しだけ、怖くない」
春樹の表情が変わった。
けれど。
喜びを押しつけることはしなかった。
ただ。
「そっか」
それだけだった。
◇
その日から。
結衣は春樹に対する「怖い」が、ほんの少しずつ減っていった。
嫌いなのは変わらない。
――たぶん。
まだ。
きっと。
そう思っていた。
けれど。
春樹が子どもたちと遊んでいるのを見ると、少し安心する。
春樹が結衣の作った料理を美味しそうに食べると、少し嬉しい。
春樹から医学の話を振られると、つい夢中になって話してしまう。
そして。
ある日。
「結衣ちゃん!」
葉月の声がした。
「なに?」
「俺、兄貴に結衣ちゃんのこと聞いたんだけどさ」
「……何を?」
葉月がニヤッと笑う。
「『結衣ちゃんのこと――」
「……え、?」
「そしたら兄貴――」
「葉月」
春樹が低い声で遮った。
「それ以上言うな」
「はいはい」
「……」
結衣は春樹を見る。
「春樹さん」
「何?」
「……私のこと、気にしてるんですか?」
春樹が黙る。
「……まあ」
「なんで?」
「それは――」
春樹は言葉を止めた。
そして。
「まだ言わない」
「……何それ」
結衣は呆れた。
けれど。
その日は、少しだけ笑った。
◇
春樹は急がなかった。
結衣が一歩離れれば、一歩離れる。
結衣が一歩近づけば、その分だけ待つ。
「好きになって」と言わない。
「怖がらないで」とも言わない。
過去を忘れろとも言わない。
ただ。
今の結衣を、そのまま受け止めようとした。
そして結衣は。
そんな春樹を知るたびに。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
思うようになっていった。
――αだから嫌い。
それだけで、全部を決めつけなくてもいいのかもしれない。
まだ。
春樹を好きだとは言えない。
むしろ。
「嫌いでいさせて」
そう思っている。
それなのに。
春樹がいない場所を想像すると。
胸の奥が、少しだけ寂しくなる。
その感情の名前を。
結衣は、まだ知らなかった。
次回 第二話 初めて話した
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コメント
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寺島あおいです。第一話、拝読しました。 結衣さんの「αが嫌い」「怖い」という気持ちの奥にある過去が、無理のない描写でじんわり伝わってきて、胸が締めつけられました。春樹さんの「嫌いでいいよ」「怖くていいよ」という言葉が、とても優しくて。押さえつけず、距離を尊重するその立ち位置に、私もほっとしました。双子の子どもたちとの温かいシーンも、物語に柔らかな光を添えていて素敵です。ゆっくりと変わっていく結衣さんの心の動き、続きが本当に気になります。