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アルビスがこれから向かう先は、城内で一番奥に位置する離宮と呼ばれるところ。
ロダ・ポロチェ城は長い歴史を持ち、何度も増改築を繰り返されてきたが、ここだけは当初から変わらない。
なぜならこの離宮は、聖皇后となる女性のために造られた建物だから。
離宮は別名”福音の宝殿”と呼ばれている。異世界から召喚された女性だけが、この離宮を使用できる権利があり、聖皇后となるまでの間の仮の住処として使われる。
離宮は人目を避けるように常緑樹で囲まれていて、まるで隠れ家のようにも見える。
夜になれば存在すら闇に消えてしまいそうなそこから人が生活をしている気配が伝わってくるのは、未だに目を疑う光景だ。建物をぐるりと囲むように、昼夜を問わず衛兵が警護にあたっているのもまたしかり。
衛兵がそこにいるのは外敵の侵入を許さないためだが、内部の人間を逃さないためでもある。
命じたのはアルビス自身だが、行き過ぎた警備だと自覚している。でも不安は消えるどころか日増しに増えていく。
だからアルビスは毎日、離宮に足を向ける。彼にとって一日を終えるための大切な儀式でもあった。
石畳の小道を抜け、アルビスは離宮の前まで到着する。
アルビスを視界に収めた衛兵は、次々に礼を執る。入り口の扉を警護している衛兵は、勝手知ったる動作で扉を開けた。
アイボリーを基調とした離宮の中は、一つの部屋のような造りになっているが、とても広い。
ここで不自由のない生活ができるよう、くつろぐ為の長椅子もあれば、食事を取るためのテーブルもある。ベッドは天蓋付きだし、浴室などの水回りも完備している。
なのに離宮の主である少女──結月佳蓮は、どの家具も使用していなかった。
つまづく程ではないけれど薄暗い部屋の中、佳蓮は出窓の物置き部分に膝を抱えるように座って、窓を見つめている。主人の帰りを待つ子犬のように。
アルビスは足音を立てながらそこへ向かう。
窓にアルビスの姿が映っているはずなのに、佳蓮はピクリとも動かない。
「……何を見ている?」
ようやっと絞り出した問いかけに、佳蓮からの返事はなかった。
少し前ならこの辺りで苛立ちを露わにしていたアルビスだけれど、この程度のことでは動じなくなった。
「寒くは、ないのか?」
アルビスは手負いの小動物を手懐けようとするかのような慎重な動作で一歩、佳蓮へと近づきながら再び問いかけた。
これもまた返事はない。
アルビスはぎゅっと拳を握りしめる。
寒くないわけがない。寝間着の裾から見える佳蓮のつま先は真っ白で、見るからに冷たそうだ。
一言寒いと言ってくれたのなら、両手で包んで温めることができるのに。逆に寒くないと言ってくれたら「嘘を付くな」と、会話をすることができるのに。今はそれさえ叶わない。
1ヶ月ほど前にアルビスの術で召喚された佳蓮は、最初はここまで徹底的に無視をすることはなかった。
自ら進んで自己紹介もしたし、きちんと目を合わせて「お願いだから元の世界に戻して」と訴えていた。
けれどアルビスはその願いを聞き入れなかった。いや、正確に言うと叶えることはできなかった。召喚術は一方通行。術式は戻ることを前提に組まれたものではないのだ。
それに正直に言うと、佳蓮は泣き叫びながら「ふざけるな!」と暴れ出した。
アルビスはその言動にひどく驚いた。召喚された女性はこの大帝国の聖皇后となれるのに、何の不満があるのかと理解できなかった。
だからアルビスは佳蓮に丁寧に説明をすることを放棄し、佳蓮が元の世界に戻りたい理由を尋ねることもしなかった。
今は戸惑っているだけ。これから眩暈を覚えるような贅沢をさせてやれば、次第にこの環境にも、自分の置かれた立場も受け入れるだろうと高を括っていた。
でもそれは間違いで、過ちに気付いた頃にはもう手遅れだった。
佳蓮は完璧に心を閉ざし、アルビスに対して憎しみも、恨みも、怒りの感情も向けなくなっていた。徹底してアルビスをいないものとして扱うようになっていた。
「……カレン」
アルビスは焦れた口調で名を呼ぶ。
どうしてもこちらを向いて欲しくて。黒曜石のような瞳に自分の姿を映して欲しくて。
その願いが届いたのか、ピクリと佳蓮の肩が動く。
「カレン」
再びアルビスは名を呼んだ。今度はもっと強い口調で。
そうすれば佳蓮はやっとアルビスを見た。気やすく呼ぶなと言いたげに不快な表情を浮かべて。けれどすぐに顔を背ける。
拒絶されたことに強い憤りを覚えたアルビスは、今度は佳蓮の肩を掴もうと手を伸ばそうとした。けれども寸前のところで、手を引っ込めた。
(これ以上は駄目だ)
アルビスの本能が、自身に待ったをかけたのだ。
「……窓辺は冷える。こんなところに居ないで、早く寝ろ」
焦れた想いや、募る想いを伝える言葉を全部のみ込んでアルビスはそう言い捨てると、佳蓮に背を向けた。
大股に扉に近づき部屋を出ようとするけれど、後ろ髪を引かれてアルビスは振り返る。
佳蓮は同じ姿勢のまま、再び窓を見つめていた。
アルビスは皇帝。王の中の王である。
この広大な帝国で誰もが首を垂れ、かしずかれる存在。そうなるために生まれてきた人間だ。
それなのに佳蓮に拒まれたあとの帰り道は、自分の存在が消えてなくなってしまったような錯覚を覚えてしまう。
石畳を歩く靴底からは硬質な感触が伝わるはずなのに、なぜだかつま先からずぶずぶに埋められていく恐怖に襲われる。
アルビスは不意に足を止め、空を見上げた。
今宵の夜空は雲が多く、月はその後ろに隠れてしまっていた。