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恋するショコラティエ ~i×f~
九月半ばの午後、東京の表参道は秋の気配を感じさせる風が吹いていた。
けやき並木の葉がかすかに色づき始めた通りに、小さなショコラトリー「Cacao」がひっそりと佇んでいる。
間口は狭く、看板も控えめで、通りすがりの人が気づかずに素通りしてしまいそうなほど目立たない店構えだった。
しかし、ガラス越しに覗くショーケースには、宝石のように美しいチョコレートが丁寧に並べられている。
ひとつひとつが手作りの温もりを感じさせ、見ているだけで甘い香りが漂ってきそうだった。
午後三時を過ぎた頃、その小さな店のドアを押して、一人の男性が足を踏み入れた。岩本、出来る男さながら紺色のスーツを完璧に着こなし、狭い店内でもひときわ存在感を放っている。
整った顔立ちに知的な印象を与える眼鏡をかけ、仕事のできるビジネスマンという雰囲気を纏っていた。
岩本は大手食品メーカー「アマノ食品」の商品開発部で課長を務める、業界では名の知れたエリートだった。
これまで数々のヒット商品を世に送り出し、部下からの信頼も厚い。
しかし、その優秀さゆえに周囲からは近寄りがたい存在として見られることも多かった。
店内に入った岩本は、まず全体を見回した。カウンター席が四つ、小さなテーブルが二つ。壁には温かみのある木材が使われ、間接照明が優しい光を放っている。決して洗練されているとは言えないが、手作りの温もりが感じられる空間だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声をかけたのは、深澤という名前の青年だった。
二十六歳の彼は、この店のオーナーシェフを務めている。
茶色い髪を無造作に流し、人懐っこい笑顔が印象的な男性だった。
白いエプロンを身に着けた姿は、親しみやすく温かい雰囲気を醸し出している。
深澤は洋菓子店で生まれ育ち、幼い頃からチョコレートの甘い香りに囲まれて過ごしてきた。
高校卒業後、製菓の専門学校に進学し、その後東京の有名パティスリーで三年間修行を積んだ。そして半年前、ついに念願だった自分の店を開いたばかりだった。
「あの、何かお探しでしょうか?」
深澤は温かみのある声で尋ねた。
その声には、お客一人一人を大切にしたいという気持ちがにじみ出ている。
岩本は振り返ると、深澤の顔をじっと見つめた。最初に抱いた印象は「若い」ということだった。
まだ二十代半ばといった風貌で、職人というよりは大学生のような初々しさを感じさせる。果たしてこの青年に、本格的なチョコレートが作れるのだろうか。岩本の表情は自然と硬くなった。
「アマノ食品の岩本と申します」
岩本は胸ポケットから名刺を取り出し、丁寧に差し出した。その動作は完璧にビジネスマナーに則っており、無駄がない。
「お時間をいただけますでしょうか」
「アマノ食品?」
深澤の目が丸くなった。
「あの、テレビのCMでよく見る大手の会社ですよね。なんで俺たちみたいな小さな店に…」
アマノ食品は誰もが知る大企業だ。スーパーやコンビニで売られている菓子パンやチョコレート菓子で、日本中の人々に親しまれている。そんな会社の人間が、開店して半年足らずの小さな個人店を訪れるなど、深澤には想像もつかなかった。
「新商品開発の参考にと思いまして」
岩本の口調は丁寧だったが、どこかよそよそしさを感じさせた。事務的で、心がこもっていないような印象を与える。
「実際に職人の方の作品を拝見させていただきたく、お邪魔いたしました」
深澤は内心戸惑いながらも、せっかく来てくれたお客への対応を始めた。ショーケースの前に案内し、一つ一つのチョコレートについて説明を始める。
「これがうちの一番人気のトリュフなんです。カカオは七十パーセントの…」
「使用している材料を詳しく教えてください」
岩本が深澤の説明を遮るように口を開いた。その声は冷静で、まるで取調べでもしているかのような印象を与える。
「え?」
「カカオの産地、生クリームの種類、使用している砂糖の精製度。すべて詳細に教えてください」
岩本の質問は矢継ぎ早で、深澤は面食らってしまった。普通のお客なら「美味しそうですね」「これは何味ですか?」程度の質問しかしないものだ。しかし目の前の男性は、まるで品質検査でもしているかのような専門的な質問を投げかけてくる。
深澤は一つ一つ丁寧に答えた。カカオはエクアドル産とマダガスカル産をブレンドしていること、生クリームは地元の酪農家から直接仕入れていること、砂糖は精製度の低い種類を選んでいることなど、自分なりのこだわりを説明した。
しかし、岩本の表情は終始変わらなかった。メモを取るわけでもなく、ただ無表情で深澤の説明を聞いている。その視線は鋭く、まるでアラを探しているかのようだった。
「試食をお願いできますでしょうか」
岩本の言葉に、深澤は代表的なチョコレートを小皿に載せて差し出した。
ビターチョコレートのトリュフ、ミルクチョコレートのガナッシュ、ホワイトチョコレートのボンボンなど、店の技術を表現した自信作ばかりだった。
岩本は無言でそれらを一つずつ口に運んだ。表情を変えることなく、機械的に味わっているように見える。
チョコレートが口の中で溶ける様子を確認し、余韻を感じ取り、それから次のものに移る。その姿は、まるで味覚のプロフェッショナルのようだった。
長い沈黙が店内に流れた。深澤は緊張して結果を待った。自分の作品がどう評価されるのか、心臓の音が聞こえそうなほどドキドキしている。
やがて岩本は最後のチョコレートを飲み込むと、深澤の方を向いた。その表情は相変わらず無表情で、何を考えているのか全く読み取れない。
「率直に申し上げます」
岩本の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
「技術的には一定のレベルに達していると思います。材料の選択も悪くない。温度管理も適切です」
深澤の顔がほっとした表情になりかけたが、岩本の次の言葉で凍りついた。
「しかし、魂がありません」
「は?」
深澤は思わず口調が強くなった。魂がない、という表現が理解できなかった。
「あなたのチョコレートには、作り手の想いが感じられません。技術的には正確ですが、それだけです。レシピ通りに作られた、ただの菓子に過ぎません」
岩本の言葉は冷静だったが、深澤には氷のように冷たく感じられた。
「ちょっと待ってください」
深澤の顔が赤くなった。感情の高ぶりを表している。
「魂がないって、何ですかそれ。俺、毎日朝から晩まで、一粒一粒に心込めて作ってるんですよ」
「心を込める、という曖昧な表現では伝わりません」
岩本は相変わらず冷静だった。
その冷静さが、深澤をより一層イライラさせる。
「なぜこの配合なのか、なぜこの温度で作るのか、すべてに明確な理由と意図がありますか?感覚だけで作っているようでは、到底大手企業の商品開発には通用しません」
「そんな…」
深澤は言葉に詰まった。
確かに、温度や配合は師匠から教わった通りにしている部分が多い。なぜその温度なのか、理論的に説明しろと言われると困ってしまう。
「ご質問があります」
岩本は深澤の困惑を意に介さず、さらに追い打ちをかけるように続けた。
「あなたは何のためにチョコレートを作っているのですか?」
「何のためって…」
「お金のためですか?有名になりたいからですか?それとも単なる趣味の延長ですか?」
深澤の胸に怒りがこみ上げてきた。自分の人生をかけてチョコレート作りに取り組んでいるのに、まるで遊びでやっているかのように言われたのだ。
「ふざけないでください!」
深澤の声が店内に響いた。
「俺がどんな思いでこの店開いたと思ってるんですか。親に金借りて、修行時代は毎日深夜まで練習して、やっとの思いで自分の店持ったんです」
「では、なぜそこまでしてチョコレートを作りたかったのですか?」
岩本の質問は容赦なかった。
「それは…」
深澤は答えに詰まった。なぜチョコレートなのか。なぜパン屋でも和菓子屋でもなく、チョコレート専門店なのか。改めて問われると、明確な答えが見つからない。
「やっぱりね」
岩本は小さくため息をついた。そのため息が、深澤には見下されているように感じられた。
「目的が曖昧だから、作品にも芯がない。技術だけでは、人の心を動かすことはできません」
岩本は名刺を深澤の前に置くと、店を出ようとした。
「ちょっと待ってください!」
深澤が声を上げた。
「大手に通用しないって、何ですかそれ。俺は、大手のチョコなんか作りたくないんです」
深澤の声は震えていた。悔しさと怒りで、今にも泣き出しそうになっている。
「一人一人のお客さんに喜んでもらえるチョコを作りたいんです。大量生産の機械的な味じゃなくて、手作りの温もりがあるチョコを作りたいんです」
「それは理想論です」
岩本は振り返ったが、その表情は変わらなかった。
「現実的ではありません。感情論では商売は成り立ちません」
「理想論?」
深澤の声がさらに震えた。
「じゃあ聞きますけど、あなたのチョコには魂があるんですか?あなたが作ったチョコ、食べたことあるんですか?」
「俺はチョコレートを作りません」
岩本の答えは簡潔だった。
「商品開発は俺の仕事ですが、実際に作るのは工場のスタッフです」
「作らないくせに偉そうに批評しないでください!」
深澤の声が割れた。
「あなたみたいな人に、俺のチョコの何がわかるんですか」
岩本の表情が僅かに動いた。眉がかすかに下がり、何かを言いかけたような表情を見せる。しかし結局、何も言わずに店を出て行った。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
深澤は一人、カウンターに突っ伏した。悔しさと情けなさで、胸がいっぱいになる。
「何なんだ、あの人…」
しかし、岩本の言葉は深澤の心に深く刺さっていた。魂がない、という指摘。
なぜチョコレートを作るのか、という根本的な問い。それらの言葉が頭の中をぐるぐると回り続けている。
深澤は自分のチョコレートを一粒手に取った。
いつものように美味しく感じられない。岩本の言葉が頭をよぎり、本当に魂がないのかもしれない、という不安が胸を締め付ける。
午後の陽光が店内に差し込んでいたが、深澤の心は重く、暗い雲に覆われていた
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