テラーノベル
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いとが嫁いでから一ヶ月が経った。
いとは日中は庭を散歩したり裁縫したり読書したりして過ごした。
最低限の読み書きは母から習っていたのだ。
やはり罪悪感が拭い切れず家事や仕事など手伝った方がいいのか夫に何度も聞いたが、何回聞いても何もしないでくれと言われてしまい、貴時の言った通り、いとはのびのびと自由に過ごしていた。
九条家での生活やほぼ毎日の夜の営みに慣れたそんなある日の休日。
いとは貴時に誘われ、めかしこんで街までやってきた。
街に出るのも幼い頃ぶりだった。
街は賑わっており、人でいっぱいだ。
「はぐれないように手をつないでおこう」
「はい」
いとは貴時に差し出された手を握ると、少しきつめに握り返される。
骨ばっている大きな男の手だ。
そんな手に握り返されると、いとはなんだか頼もしく感じた。
いとは懐かしみながら歩く。
いとが前に街に来たのは十年前だ。
息の詰まるような生活の中、いとの母が宮野邸からこっそりいとを連れ出してくれたのだ。
母と遊ぶのは楽しかったが、戻った時の雅経の怒りようは凄まじかった。
……ああ、嫌なものを思い出してしまった。
雅邦は外出ができたので、どこにでも行けたし、小学校、中学校、高校と通った。大学にも進学予定である。
いとはただただ兄が羨ましかった。
辺り一帯をひとしきり歩き、茶屋で団子や茶を楽しみながら休憩する。
「何か気になったものはないのか」
貴時はそう問うた。
いとは首を横に振る。
「特に何も」
「そうか」
貴時は少し考えて再び問う。
「好きなものは何かないのか」
「好きなもの?」
いとが思わず聞き返すと、貴時は頷く。
いとは考えてみた。
「……動物は好きかも」
「動物?」
「はい」
今度はいとが頷く。
「よく実家の庭に野良猫が迷い込んできて戯れたものです」
いとは目を細めて懐かしむ。
庭で飛ぶ鳥を見るのもいとは好んでいた。
「動物の中でも、特に好きな種類はないのか。犬とか」
貴時の尋ねにいとは少し赤面した。
「その……、お恥ずかしながら犬を見たことがなくて……」
貴時は目を見張る。
「さっき街にいたが?」
「あの茶色いのが犬なのですか?」
貴時は信じられないと言うような顔をした。
いとはそれだけ囲われた暮らしをしていたのだ。
驚きを隠せないながらも頷く。
「そうでしたか。でしたら、今のところは犬が一番好きかもしれません」
いとは遠いところを見るような目をした。
口元は微笑んでいるが、どこか虚ろな目だ。
貴時はそんないとを見て立ち上がりながらいとの頭の上にぽんっと手を置いた。
いとは貴時の方を見て首を傾げる。
「そろそろ行こうか、いと」
「はい、貴時様」
そうしてふたりは再び手をつなぎ、またしばらく街を歩いて周ったのだった。
夕方。空は赤く染まり、日は沈もうとしていた。
「厠に行ってくるからそこで待っていろ」
貴時はそう言って人混みの中に紛れた。
貴時が去ってからまもなく。
「お嬢さん、おひとりですか?」
いとは三名の若い男に囲まれた。
いとは驚いてかすり声一つも出ない。
「時間があるなら、僕達とお茶しませんか?」
『時間があるなら、掃除でもやっておけ』
若い男の声に重なるように、忘れていた記憶が蘇る。
いとは思わず俯いた。
「あ……」
「聞いてます?」
『聞いてるのか』
睨みつけられ、怒鳴られ、折檻された記憶。
いとは何か冷たいものに縛られたような気がした。
息が乱れ、過呼吸になってくる。
……怖い。……怖い。……怒らないで。
いとは胸元を掴む。
「ねえ」
男のうちのひとりがそう言っていとの腕を掴んだ時だった。
「ぐあっ!何だ貴様は!」
いとはばっと顔を上げた。
見ると、自分を囲んでいた男の一人が尻をついていた。
その後ろには、貴時が鬼の形相で立っている。
夫の姿を目にした瞬間、いとは無意識にほっとした。
「汚い手で妻に触れるな」
貴時はそう静かに、低く言い放った。
貴時は激怒していた。
若い男の一人が舌打ちをし、行くぞ、と他二人に言い、男三人は走り去って行った。
男三人が離れて行った瞬間、いとは緊張が解け、膝から崩れ落ちた。
「いと!」
貴時は慌てていとに駆け寄る。
いとの身体は小刻みに震えていた。
途端に涙がぼろぼろと落ちる。
すると貴時は急にいとを横抱きにして立ち上がった。
いとは驚いた。
「すまない。少し移動するぞ」
そう言って貴時は歩き出した。
突然抱き上げられたのは驚いたが、いとは貴時の温もりに安堵し、身を貴時に委ねた。
着いたのは人通りがほどんどない狭い道だった。
そこにある長椅子にいとを座らせ、自分も腰掛けた。
「遅くなってすまなかった、いと」
貴時はいとの白い頬を両手で挟み、いとの止まらない涙を拭う。
そして、両方の瞼や頬に何度も繰り返し優しく口づけを落とす。
いとはすっかり安堵していた。
結婚してまだ一ヶ月の夫にどうしてこれほどまで安堵しているのかわからなかった。
しかし、貴時が自分の涙を拭い口づけをしてくれているのが嬉しかった。
「詫びと言ってはなんだが、これを受け取ってくれないか」
貴時はそう言って懐から小包みを取り出す。
それをいとに手渡した。
いとは反射的にそれを開け、中身を取り出す。
その中身を目にして、いとは息を呑んだ。
それは、深紅に塗られたつげ櫛だった。
「お前は口には出さないが、それを長く見ていたから気になったのかと……」
違ったか?と不安そうに言う貴時に、いとは首を横に振った。
茶屋から出た後に寄った店で、確かにこれが気になっていた。
欲しいものは何でも言えと言われたものの、遠慮して言えなかった。
まさかこんな形で手に入ることになろうとは。
収まっていた涙が再度あふれ出した。
貴時はぎょっとしたような顔になる。
「いと?」
貴時はいとの頭を撫でた。
「……あり、がとう、……ございます……」
泣きじゃくりながらも、いとは礼を伝える。
貴時は微笑み、いとの涙を再び拭う。
いとは貴時に初めて心からの笑みを向けた。
いとは九条家に来てから初めて心から笑った。
心から笑うのも、十年近くぶりだった。
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