テラーノベル
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社内は昼休みのざわめきに包まれていた。
社員の多くがランチへと席を離れる中、理人は自席に残り、ディスプレイに視線を落としていた。
「メールは……後で確認するとして」
机の隅に置かれた書類を片付けようとした、その時──
「こんにちは、鬼塚さん。お昼、まだでした?」
振り向けば、見慣れた男が人好きのする笑みを浮かべて立っていた。 狐のような目元に、年齢不詳の雰囲気を纏った男──東雲 薫(しののめ かおる)。
「その口ぶり、俺を飯に誘う気じゃないだろうな」
「まさか。僕の好みはもっと“可愛い”系なので」
飄々と応える東雲は、何を考えているのかいまいち読めない胡散臭い笑みを浮かべながら、持っていた紙袋から菓子箱を取り出し机に並べ始めた。
「はい、これ。鬼塚部長にお裾分けです」
「いらねぇよ。甘いものは苦手なんだ」
「知ってますよ。これは他の部署からの貰い物なので遠慮なくどうぞ。ちなみに、有名店の限定品らしいですよ」
「……」
軽い調子で言いながら、お菓子の山に紛れた小さなUSBを、理人の手元にそっと滑らせる。
「……例の調査データです。パスはいつもの通り」
理人がそれを指先で受け取ろうとした瞬間── 東雲はふと、机越しに身を乗り出してきた。
「何だ」
「いやぁ、珍しいなと思って。鬼塚さんが、個人の調査を依頼するなんて滅多にないことじゃないですか。その新人君について、何か気になることでも?」
声は囁くように低く、そして至近距離。 誰にも聞かれないようにという配慮なのだろうが、 その距離は、傍から見れば“親しげ”と取られてもおかしくない。
現に、近くの女性社員の目がこちらに向けられている。
「……東雲。あまり近づくなといつも言っているだろう」
「ハハッ、つれないなぁ。相変わらずの塩対応」
東雲は楽しそうに笑いながら離れた。
理人はUSBを胸ポケットに滑り込ませると、冷めた目で笑う東雲を睨んだ。
「くだらねぇ冗談を言いに来ただけなら、菓子だけ置いてとっとと帰れ」
「ひどいなぁ。でもまぁ、嫌いじゃないですよ。鬼塚部長のそういうところ」
「別にてめえに好かれたいとか思ってないからな」
「ハハッ。口悪いですって。でもまぁ、目的は果たしましたし、俺は戻りますね」
東雲はひらひらと手を振ると、軽やかな足取りで去っていく。
誰に対しても物怖じしない性格は買っているが、如何せん軽すぎる。掴みどころのない飄々とした雰囲気が、理人の神経を逆撫でするのだ。
「ったく……」
USBメモリを指先で弄びながら、ため息混じりに呟く。それでも彼を無碍にはできない。 彼は諜報活動においては他の追随を許さないほど優秀な人材だ。
様々な方面に精通しており、理人が唯一信頼している人物とも言える。
その信頼に応えるように、どんな仕事も決して口外しない口の堅さもある。
理人は机の上のミネラルウォーターを手に取り、一口含んで喉を潤した。 冷えた液体が、熱を帯びた思考を一瞬だけ冷ます。
──“新人君”か。
そう口の中で転がすように思考を巡らせながら、理人は胸ポケットからUSBを取り出し、PCの側面に差し込もうとした。
「今のって、東雲さんですよね? 情報システム課の……」
「!」
いつの間に背後に来ていたのだろうか。ひょっこりと後ろから声を掛けられ、ひゅうっと心臓が嫌な音を立てた。
振り向くと、そこには今一番警戒すべき対象の瀬名が立っていた。
「お前……いつの間に」
「ついさっきです。ランチでもどうかなぁって誘いに来たら話されていたので。あの人、よくうちの部署で見かけますよね。部長とも仲良さそうだし……。どんな関係なんです?」
「てめえには関係ねぇだろ。ランチなら他のやつらと食いに行け。俺は他のやつらと群れる気はない」
理人は瀬名をあしらいながら、素知らぬ顔でUSBを胸ポケットにしまうと立ち上がって背を向けた。
この男と一緒では、落ち着いて食事を食べるどころの話じゃない。
これ以上絡まれたくないのだ。彼のペースに乗せられてはいけない、と全身の毛がそう告げている。
何としてもこの危険生物とは距離を保たなければ。
「……つれないなぁ。あの日はあんなにかわいかったのに――むぐっ」
「……てめえ、それ以上口にしたら殴る」
慌てて袖を引き、胸倉を掴んで引き寄せ耳打ちすれば、瀬名はにっこりと笑ってみせる。
「じゃあ、一緒にランチしませんか?」
「……チッ」
ああ、こいつはダメだ。他のやつらなら震え上がって逃げていくほど凄んでみせたが、全くといっていいほど効果がない。
理人は舌打ちしながらも、結局―― 背後にぴったりとついてくる瀬名を振り払うことはできなかった。
社員食堂の喧騒の中、 一人用のカウンター席に向かうと、なぜか当然のように隣に座る瀬名。
「ねえ、部長。さっきの人、情報システム課の……東雲さん、でしたっけ?」
「だから関係ねぇって言ってんだろ」
「でも、なんか雰囲気があって、いい人そうでしたよ。部長と、よく一緒に仕事してるんですか?」
……こいつは無邪気なのか、確信犯なのか。
理人は味噌汁を啜りながらため息をついた。
(気安く踏み込んでくるな。俺の領域に……)
しかし―― 口元に残る味噌の温度とは裏腹に、胸の奥が妙にざわついていた。
瀬名の無邪気な声が、なぜか耳の奥に残る。
「あの日は、あんなにかわいかったのに――」
(……っ、くそ)
理人は湯気の立つ茶碗を乱暴に置き、隣でサラダをつつく男に、もう一度だけ心の中で毒づいた。
――やっぱりこいつは、危険だ。
瀬名 秀一(せな しゅういち) 25歳。神奈川県育ち。家族は両親と姉。大学入学を機に一人暮らしを始める。趣味はドライブ、海に良く行く。某一流大学卒業後、現在のL&Bに入社。勤務態度、業績とも社内トップクラスで、大きな対人関係トラブルはなし。
結婚歴はなく現在は彼女もいない様子。 先月突然の退職、原因は不明。
「――ふぅ……」
風呂から上がり、濡れた髪はそのままに、タオルを肩にかけたまま理人はソファにどかりと座り込む。
パソコンにでかでかと表示されている資料を読み込み、思わず深いため息が漏れた。
彼が来てから早二週間が過ぎようとしているが、教育係などつける必要がないのではないかと思うほど、驚くほどのスピードで部内に馴染んでしまっている。
一見、やる気のなさそうなもっさりとした頭と眼鏡は、もはや彼のトレードマークのようなものになっており、最初は戸惑っていた社員たちの中にも、彼を好意的に受け止める風潮が流れ始めていた。
教育係としてつかせている萩原に近況を問うと、彼は「聞いてください!」と言わんばかりに目を輝かせて迫ってきた。
「すごいんですよ瀬名さん! 一つ教えたらすぐに覚えちゃうし、一度説明すれば何でも理解して、応用も完璧にこなせるんです! 俺なんかが教えることないんじゃないかってくらい優秀なんです!」
興奮しきった彼の様子から察するに、よほど嬉しかったのだろう。
萩原自身も仕事はまあまあできる方だが、どちらかといえば要領がいいタイプだ。 やる気があって向上心も強い。
だからこそ人材育成にはちょうどいいのではないかと思ったのだが、瀬名はどうやら萩原に扱えるような人材ではないようだった。
瀬名の能力は萩原の数段上を行く。それに加えて、人当たりも良く物腰も柔らかいので、老若男女問わず周囲から好感を持たれているようだ。
だいたい、L&Bと言えば、うちの会社とそう変わらないくらいの規模を持つ大手メーカーだ。
それなのに突然退職した上に、特に理由もなくうちに転職してくるなんて理解ができない。
何か裏があるはずだと踏んだ理人は彼を調べさせてみたが、結果はシロだった。
「……ふん」
理人は軽く鼻を鳴らすと、画面を閉じてパソコンをシャットダウンさせた。
どうにも解せない点が多いが、今のところ目に見える形での問題はない。
それに何よりも厄介なのは……
「……顔だよな」
理人は心底うんざりしたように呟くと、肩にかけていたタオルを頭に被せてソファに寝転がった。
あの、やたらと人懐っこい笑顔。無邪気そうでいて、時折見せる妙な目の光。
感情の読めない沈黙と、突如として仕掛けてくるあの距離感。
そして、何よりも……あの夜を境に、理人の中に居座る“記憶”。
――思い出すな。
眉間にしわを寄せて目を閉じる。 だが脳裏に、熱に浮かされたような夜の記憶がじわりと滲み上がってくる。 触れられた肩、耳元の声、見つめ返せなかった瞳。 あれは一度きりの事故。忘れ去ってしまえばよかったのに――
「……くそ」
頭からタオルを振り払い、勢いよく体を起こす。 このままでは、また夢に見てしまう。 理人は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、プシュッと音を立てて開けた。
グラスも使わず、冷たい液体をそのまま喉に流し込む。 一口、二口、三口。 それでもまだ、胸の奥に残るざわめきは消えてくれない。
(あいつは危険だ)
理人は再び、強くそう思った。
だがその“危険”が、社内調査的な意味なのか、それとも―― もっと個人的で、もっと厄介な感情なのかは。
……自分でも、よく分からなかった。
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