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四月一日 璃
870
#宇佐美リト
Kojigyu
812
友情出演:🦖
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点々と続いていた街灯もやがて無くなり、懐中電灯など持っていようはずもないふたりは微かな月明かりを頼りに路地の奥へ奥へと入っていく。
飴屋曰くここが繁華街の外れに位置する拠点への近道らしいが、よくもまぁこれだけ複雑な道のりを覚えていられるものだと噺家は思う。それと同時に飴屋の方も、進行方向を伝えただけで空き瓶や缶や錆びたトタンなんかが散乱する悪路を難なく進んでいく噺家に、どうしてこうも猫のように夜目が効くんだと不思議に思っていた。
「……次の看板、左。水溜まりがあったら漏電してるから気をつけろよ」
「はいよ……あ、きみこそ足元気をつけなよ。そこ、スプレー缶みたいなの落ちてるから」
「分かった」
噺家は飴屋の言葉通りに道の傍の水溜まりを飛んで避け、飴屋はひしゃげた缶を蹴って退かした。どうしてこんなにも寂れた路地裏で電気の通った看板を放置しているのか、今飴屋が蹴飛ばしたガス缶は誰が何の用途に使ったものなのか──聞けば答えが返ってくるんだろうが、昼の世界に片足だけでも突っ込んでおきたいのならばそのままにしておくのが賢しい判断なのだと噺家は理解していた。
ほとんど廃墟と化したアパートやシャッターの閉まった空きテナントをいくつか通り抜け、必要以上の言葉を交わすこともなく歩き続けた飴屋と噺家は、やがて雑多な飲み屋街へと出た。右や左や遠くの方から人々のざわめきが聞こえてきて、油っぽいようなアルコールっぽいような嗅ぎ慣れない匂いがそこら中を漂っている。
先ほどまで暗がりに慣れきっていた噺家は、この深夜だというのに一向に明かりを落とす気配もない煌びやかな景色に一瞬目眩がした。そうしてくらりと揺れた背中を、飴屋がそっと抱きとめる。
「……大丈夫か? お前はこういうとこ慣れてないだろ、俺もここまで来れば1人で帰れるから──」
「いや、ごめん。僕が帰れない。今まで来た道とか全然覚えてないし」
「マジか」と信じられないものを見る目を向ける飴屋に対し、噺家は「土地勘があるのと無いのじゃ大違いだろ」と同じく視線で弁明する。これだけ入り組んだ道をなぞって帰るというのは現実的ではないし、かと言って人の多いこんな街を1人で歩き回るだなんて方向音痴を自負する噺家にとっては自殺行為だ。
飴屋はしばらく逡巡し、数秒ほど経ってから諦めたようにため息を吐いた。
「じゃあ……もう今日は泊まってけよ。明日んなったら送ってやるから……」
「えっ、いいんすかぁ!? ありがとうございます兄さん!」
「お前最初っからそのつもりだっただろ。つかお前に兄さんって言われんのやだ」
「やだって言われてもなぁ。じゃあなんて呼べばいいの?」
「いや、いつも通り『旦那』とかでいいだろ……」
ふたりはそんなやり取りをしながら、表の大通りによく似た赤提灯を横目に飴屋の家へと足を進める。
──中華か、いいな。明日飴屋にねだれば一食くらいは奢ってくれるだろうか。噺家が軒を並べる中華料理屋に気を取られていると、前方から何やら見るからに胡散臭い男が近づいて来た。
「あれ、やっぱキャンディちゃんだよね。久しぶり〜どしたのその子。どっから拾ってきたの?」
「……お前にだけは会いたくなかったんだけど。今日は文無しだから帰ってくんね?」
「おっとぉ、そうはいかないな〜? だって僕だよ? 何にも聞かずに帰ると思う?」
やけに明るく独特な節回しのその男はジャケットを脱いだスリーピーススーツのような服装に身を包んでおり、モノトーンで統一されたそれには不釣り合いなほど鮮やかな薄紅色の癖毛をしている。この街並みにおいて中華風の装いや質素な服装でない彼は却って目立ち、どちらかと言えば表通りを歩いていた方が自然な気がした。
『キャンディちゃん』とは飴屋のことだろうか。飴屋の本名を知っているのは今のところ噺家だけのようだし、関係値から知らないなりに編み出したあだ名なのだろう。あれでいて警戒心の強い飴屋があの間合いを許している辺り2人はそれこそ往年の友人同士と見えて、何だかひとりで爪弾きにされてしまったような気分になる。
ここに自分がいてしまっては邪魔になるだろう。そう考えてただ黙っていた噺家は突然「お名前なんて言うんですか?」とにこやかに話しかけられ、咄嗟に答えることができなかった。葡萄色の目をしぱしぱと瞬かせて硬直する噺家に、見かねた飴屋が助け舟を出す。
「こいつは俺がパトロンやってる落語家先生。マジでこっちの世界とは何も関わりねえから興味持つなって」
「パトロン!? あのキャンディちゃんが!? え、吐くならもっとマシな嘘吐きな〜?」
「いや嘘じゃねえよ。こんなとこでしょうもない嘘吐いたって何にもならねえだろ」
「ほら、なんかピリついちゃってる感じ! アレでしょ、大事大事なんだ? キャンディちゃんの可愛いちゃんなんだ??」
「あ゛ーーうるせえ。そのふざけたあだ名もやめろって言ってんだろ!」
「だってそっちが名前教えてくれないんじゃん? ね、キャンディちゃん」
ぎゃあぎゃあと騒がしいその戯れもこの街にとっては日常茶飯事らしく、周りを行き交う酔客は気にも止める素振りがない。顧客の前でも噺家の前でもない口調でやり取りしている飴屋を眺め、噺家は唇を真一文字に引き結ぶ。本当に気兼ねのない仲であれば、飴屋はこんなにも豊かな表情を見せるのか──と、それをどこか懐かしく思いながら。
噺家が飴屋の袖の裏で縮こまっているのに気がつき、そのまま袖の内へ入れてやりながら飴屋はそっと耳打ちする。
「あー……こいつは俺がたまに使ってやってる『情報屋』な。こんなんだけど金さえ積んどきゃ信用できる。表向きは何やってるか知らねえけど……とりあえずは俺と一緒に会えば、まあ無害だろうな」
「そこ、しっかりばっちり聞こえてるんですけど。人聞き悪いこと言わないでってば──てか、それを言うならキャンディちゃんだっておんなじでしょ?」
「…………」
ね、と可愛らしく首を傾げる姿は、しかしどこか獰猛な肉食獣のような得体の知れない凄みがあった。
借りてきた猫の如く大人しくなってしまった噺家を、情報屋はじっと観察する。そして一瞬、ちらりと交わった視線の末に、情報屋はキュッと瞳孔を開いた。
「──貴方さ、僕のこと知ってる人?」
途端にトーンの下がった声色に、背筋がぞくりと震え上がる。こうして肉食獣が瞳孔を開くのは獲物に標準を定めるときだ。もちろん情報屋はただの人間だが、それはそれとして侮ってはいけない人物だということも今の一瞬で痛いほど理解させられた。
飴屋は噺家を守るように腕に力を込めたが、当の本人は無用とばかりに軽く片手で押し退け、情報屋の目を正面からじっと覗き込む。情報屋の空色の瞳の中で、北極点に似た強い光がきらりと閃いたような気がした。
「いえ、お恥ずかしい限りですが浅学にして存じ上げず──ええ、お初にお目にかかります。申し遅れましたが私、与太郎の名でしがない噺家をやっている者でございまして。稼業駆け出しの身でございますゆえ、何卒ご容赦をば」
「……ふ〜ん……与太郎さん? っていうの?」
「ええ、今はそう名乗らせていただいております」
「あ〜、そういうのいいよ。そういうかしこまったやついらないから」
ひらりと手を振って、どうやら情報屋は興味を無くしてくれたらしい。どこまで本気だったのかは飴屋にも分からないが、とにかくどこまでも気の抜けない相手だ。
依然として警戒を解こうとしない飴屋、そして突然人が変わったように名乗りを上げた噺家を交互に見て、情報屋は「ふうん」と感嘆の声を上げる。
「まぁ与太郎さんがそういう人なのは分かったけどさ。じゃあセンセにとってキャンディちゃんは何なの?」
「そりゃパトロンだろ」
「今は与太郎さんに聞いてるんじゃん。……で、どうなの?」
先ほどとは打って変わって恋愛話の気配に目を輝かせるその姿はどこか、うら若き女学生のようでもあった。情報屋の問いに少し考えて、案外とすぐに噺家は口を開いた。
「……友達、かな」
「あ?」
「んぇ?」
拍子抜けするほどあっさりした回答に情報屋と飴屋は目を丸くし、さっとお互いに顔を合わせた。先のやり取りではあれだけ火花を散らしていたというのに、どうやらふたりはすこぶる仲が良いらしい。
「え、どゆこと?」と口の中で呟く情報屋と、よほどショックだったのか固まったまま動かない飴屋を前に、噺家はうんうんと納得げに頷いている。
「いやァ、やっぱりね。困ったときには助け合う! 落ち込んでいりゃあ励ましてやる! 友達ならそれくらい軽くやって当然ってもんだ、うん。……まァ、そこの『親友さん』との仲にゃとてもじゃないが敵わないがね。ねぇ旦那?」
「あ? ……何の話?」
「……あー……ね。そゆことね〜。や、キャンディちゃんが悪いよこれは」
「は!? だから何の話だよ!?」
噺家の意味ありげな視線を受けてなおピンときていない様子の飴屋と違い、情報屋はいち早くその意図を察知したようだった。今度は飴屋が置いてけぼりになる番で、ひとり状況を飲み込めない彼を放ったまま情報屋は噺家の方へ身を屈める。
「ねぇ、与太郎さん。ほんとに僕と会ったことないの? なんかさぁ、貴方とは初めて会った気がしないんだよね」
「……さァ、どうでしょうね。昔馴染みによく似た顔があったような無いような気もしますが、もうすっかり忘れちまいました」
「ふうん? ……そっか。ごめんね〜長々とお邪魔しちゃって。あとはお二人でどーぞ」
情報屋はそう言って人好きのしそうな笑みを浮かべると、くるりと踵を返してしまう。どうやら飴屋に用事などがあったのではなく、本当にただちょっかいをかけに来ただけらしい。
「気分屋め」と吐き捨てる飴屋に、情報屋は「そういえば」と一瞬こちらを振り返る。
「──そいつ、多分ずっとそんな感じだからさぁ。言いたいことがあんならちゃんと言いなね」
じゃなきゃ伝わんないよ。
後ろ手を振りながらそれだけ残し、情報屋は雑踏の中へと姿を消してしまった。辺りにはうっすらとアルコールの匂いが漂っているばかりで、飴屋と噺家だけがそこに取り残されている。
何だか嵐のような人だったな、と噺家は思った。ふっとまぶたを閉じ、目の奥で鮮やかにも蘇りかけた思い出を一度だけ抱きしめて、再び手を離す。今あれを取り出してしまうにはあまりにも、片付けなくてはならないことが多すぎた。
「……なあ、ほんとに何なの。俺またなんか、お前の気に障るようなことしちゃった……?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……まずはほら、きみのお家にたどり着くのが先でしょ。こんなとこまで来ちゃったら僕もういよいよ分かんないからね。ちゃんと案内してよ」
「ええ……家帰ったら絶対聞かせろよ」
人前で言えることではないのか、と納得した飴屋は渋々それを承諾する。どちらにせよ噺家をこんなところに放置するわけにはいかない。
飴屋の羽織りから抜け出した噺家は改めて街の景色を眺め、ちらほらとこちらの様子を窺う人の姿があるのを見つけた。どうやら本拠地だけあって、飴屋はよほどの有名人らしい。
噺家がなかなか動こうとしないので飴屋も同じように黙って街並みを眺め、時折目の合う人間には目を細めて牽制する。『こいつは俺の獲物だから手を出すな』と、飴屋と一度でも言葉を交わした相手であれば理解できるであろう金色の眼光で。
しばらくしてからふたりは人混みではぐれてしまわぬよう手を繋ぎ、足並みを揃えて歩き出す。周囲へ見せつけるように指を絡めてより離れにくく繋ぎ直したのは、ほとんどお互い同時のことだった。
§ § §
繁華街の外れ──再び活気が落ち着いて、悪い意味で治安も戻ってきたあたり。煌びやかな雰囲気はすっかり息を潜めて静まり返り、塗装の剥げた看板や、削れたんだか崩れたんだかあちこち穴の空いた簡素な建物が所狭しと並んでいる。飴屋の住まいが近いことが関係しているのか、そこは住宅地というよりは人通りの多い廃墟街といった佇まいだった。
ここらでの治安の悪さは噺家の知るそれともまた異なって、定住する住処の無い人々が勝手に持ち寄ったらしい段ボールやレジャーシートの類いが道を狭め、酒瓶やら吸い殻やら、何の用途に使用されたか想像に難くない注射器やらがそこら中に散乱している。それは富裕層が趣味の悪い遊びを楽しんでいるような荒れ方とは違い、まさに『貧困』という言葉がそのまま当てはまってしまうような寂れた雰囲気の場所だった。
「悪いな、随分歩かせて」
「いいよ。僕の体力が無いのは煙草のせいでもあるし、そもそもそんなに疲れてないしね」
長時間歩くというのは久しぶりだが、元々噺家は足腰の丈夫さには多少の自信があった。たまにはこういうのも悪くないな、と思った先でふと、そういえば飴屋は毎回こんな悪路を通って会いに来ているのだろうか、と考えた。
いくら体力自慢の彼だとしても、この道を通って往復するにはそれなりの時間がかかるだろう。共にいられる時間はそう長くもないのに、自分に会いに来るためだけにこんな苦労をさせていると思うと忍びない。けれど同時に嬉しいとも思ってしまい、噺家は慌てて思考を打ち消す。
突然咳払いをした噺家に困惑しつつ飴屋はぴたりと足を止めた。つられて噺家も立ち止まってみれば、目の前に聳えるのは大層な中華風の門構え──などではなく、古びた鉄製の扉だった。
「……え、ここ? ここがきみの住んでる家?」
「家、っつうか……まあ、元々は組織の拠点だったとこ。昔は日に何人かが滞在して客の応対してたんだけど、今は俺しか住んでない」
「随分とその……質素な造りなんだね」
「はは、言葉選ばなくていいって……ボロいだろ。でもま、必要以上に目立っちまっても面倒だからなあ」
なるほど、外から見て一発で良からぬ事業の拠点だということがバレてしまえば、機能しているんだか分からない自治体に目を付けられてしまうのだろう。それに事情を知らない観光客なんかが間違えて入って来てしまったりもするだろうし──いや、それはそれで顧客が増えれば悪くはないか。
考えてみれば随分と合理的だ、と噺家が感心しているうちに、飴屋は扉を軽く押し開けて玄関先で待っていた。どうやらこの建物には鍵すらついていないらしい。どころかドアノブを捻る必要すらなく、噺家は先ほど飴屋が伸してしまった男のことを思い浮かべた。
たとえ顎が砕かれようと片目が潰れようと──両手が使いものにならなくなろうと、人はそう簡単には死ねない。そんな人間がこの鍵もドアノブもない扉を押して入り込み、飴屋の前で懇願する姿はきっと、殉教者のそれにすら等しいのだろう。
「……入んねえの?」
「あ、いや……お邪魔します」
随分と背の低い玄関口から入ってみれば、その先は意外にも手入れの行き届いたタイル張りの廊下になっていた。昔ながらの砂壁にはあちこち滲みがついているものの、外の景色から想像していたよりはずっと清潔なように思える。
廊下の奥の奥の方までを薄暗いランプの灯りが照らし出していて、中華風の外観も相まり不気味な様相を呈していた。
「こっからしばらく客間が続くんだけど……俺のすぐ後ついて来れば迷わねえから」
「え、建物の中なのに迷う可能性あんの?」
「……まあ、そういう造りんなってるから?」
恐ろしいことを言うものだ。どんな商売を想定していれば、入り込んだ客を前後不覚になるまで迷わせる必要が出てくるのだろう。
噺家は途端に恐ろしくなって、飴屋の羽織りの袖をつまむ。飴屋は差し出しかけた手を引っ込めながら、黙って先を歩き始めた。
右に曲がったり左に曲がったり、かと思えば廊下の途中に階段があったり。忍者屋敷もかくやという迷宮を辿るうち、噺家は気付いたことがある。それは、飴屋が『客間』と呼んだその内装が、繁華街の中心で見た建築のそれとかなり似通っているという点だ。
嵌め殺しの大きな窓や、彫り細工の施された飾り棚、籠のような笠のついた照明に、中華料理屋を思い出すテーブルの上には豪奢な模様のついた茶器がそのまま置いてある。内装まで拘る余裕のない周囲の建物と比べると装飾過多とすら思えるほどのそれはもしや、因果関係が逆なのではないか。
金を払えなくなった周囲に住まう中毒者たちが次々に家具や住居を差し押さえられ、そのせいで周りはどんどん廃れていき、反対にこの建物は華美に栄えていったのではないか。妙なところに扉があったり壁があったり、それは隣立った建物と継ぎ接ぎしていったからなのではないか──暴走し出す妄想を振り払うように噺家はかぶりを振り、ただ正面だけ、飴屋の背中だけを目で追うことにする。
彼との出会い方を間違えていなくて本当に良かった、と心の底から感じながら。
「こうして見ると埃っぽいな……悪い、お前が来るって分かってたら掃除したのに」
「いやいや、きみの職業柄じゃ業者の人も呼べないだろうにここまで綺麗なのは頑張ってる方じゃない? ここってすごい……ほら、豪華な造りなんだし」
「ああ……悪趣味だよな。俺が言えた義理じゃねえけど」
「こっから先は事務所だから」と飴屋が言い、見てみれば確かにその先はいくらかシンプルな内装になっている。中華風の雰囲気は相変わらずだが、少なくとも客間にあったような広い屏風やローテーブルなどは見当たらない。一体元はどれだけの数の人間が寝泊まりしていたのか、ここまで来る間にも洗面所や、ベッドだけが置いてある部屋もいくつかあった。
そして奥の方、上の方へと行くにつれて次第に鼻につくようになってくる、甘ったるい匂い。それはお香や香水の類いではない妙な癖があり、飴屋と会ったとき、時たま彼が漂わせていることがある。
──『飴』の匂いなのだろう。とは、何となく理解できる。吸引や注入ではなく舌の上で転がすだけであそこまでの効力を誇る、飴屋の大切な『商品』なのだ。先ほど重篤な中毒患者の様子も目の当たりにしてしまったことだし手を出す気などは毛頭ないが、興味がないと言うと嘘になる。
似たような造りの部屋をいくつも通り過ぎ、噺家はひときわ香りの強い方向があるのに気がついた。方向感覚などはとうの昔に狂ってしまっているが、おそらくこの近くに保管している部屋があるのだろう。そう考えると、自然と好奇心が湧いてきてしまう。
また同じようにひどく甘ったるい匂いのする場所が近づき、噺家は無意識のうちに飴屋の羽織りから手を離した。──それと、ほとんど同時に。
「テツ」
「……あ、」
視界がぐらりと傾いて、気付けば飴屋の腕の中にいた。ぱちぱちと瞬きをしている視界には、飴屋の顔が大映しになっている。
「そっち作業室だから、あんま近づくなよ」
「ご、ごめん……」
「……待て、お前耐性無かったよな? 匂い大丈夫か?」
「えっと、良い匂いだなって……?」
「あ、まずいな。悪い、ちょっと急ぐわ」
「へ? ──あ、ちょ、待っ……!」
飴屋はさっと顔を強張らせ、かと思えば噺家を横抱きにして走り出した。抵抗する間もなく抱えられてしまった噺家は振り落とされないよう反射的に飴屋の首元へ抱きつく他なく、狭い廊下の風景が目まぐるしく通り過ぎていくのを眺めることしかできない。
あっという間にあの匂いは遠ざかり、周囲はより生活感の増した区画になっていた。飴屋はさすがに肩で息をしながら噺家を下ろし、よろよろと壁に手をついてしゃがみ込む。
ふたりのすぐ隣の壁には開いたままの窓があり、換気の行き届いたところまで連れて来てくれたのだろうと察しがついた。
「……あの、ごめん……」
「いや、俺が悪かった……体調大丈夫か?」
「た、多分……きみこそ大丈夫? あの状況で激しい運動とかしちゃって……」
「俺は……もうとっくに耐性ついてる、から……」
ふー、と深く息を吐き、飴屋はすぐさま息を整え終わる。噺家は乱れた前髪を整えつつ、今来た廊下と飴屋の顔を交互に見比べた。
──あんなものを商材にしているくせに、身内が中毒になりかけた途端こんなにも焦るのか。やはり飴屋の言動はちぐはぐだ。倫理観のオンオフが激しすぎるし、身内贔屓にも程がある。……それに少し優越感を抱いてしまっている自分も自分だが。
「開く窓があるってことは、近くにきみの生活してる部屋があるってこと?」
「ん……てかすぐそこな。あそこの突き当たりの部屋」
「突き当たり……」
飴屋の指さす方向には、これまで通ってきた部屋と何も変わらない飾り彫りのしてある扉がある。「あれもカモフラージュ?」と聞けば「そう」と返ってきて、飴屋は胸ポケットから小さな鍵を取り出した。
今までの部屋に鍵はついていなかったはずだが、と近づいて見てみても、扉のどこにも鍵穴などは見当たらない。首を傾げる噺家を横目に、飴屋は左上部の花の飾りを上向きにぐっと押し込んだ。続いて隣に空いた隙間へとずらし入れ、奥側へ指を引っ掛けて前に倒すと、その部分だけが綺麗に外れて小さな鍵穴が出現する。
この部屋に侵入するには鍵を入手するだけでなく部屋の位置と仕掛けを知っている上で、飴屋でさえも踵を浮かせるような高さの鍵穴に差し込まなければならないということになる。見かけに寄らず案外セキュリティの高い設計に、噺家は素直に感嘆の声を上げた。
「うわぁ……! すげぇ、からくり屋敷みたい!!」
「んふ、テンションすげえ上がるじゃん。俺もここまでする必要あるか? とは思うけど……ま、用心するに越したことはねえからな」
飴屋は照れくさそうにそう言うと、扉を開けて噺家を招き入れた。
中は意外にも普通の部屋で、他の部屋と同様の嵌め殺しの窓はあるものの大きめのベッドやエアコン、冷蔵庫などが置かれたワンルームのような造りになっている。水場やキッチンは下の階で見たのでそこまで下りなければならないのだろうが、この部屋をまるまる好きに使っていいというのはとてつもなく贅沢だろう。少なくともあの狭苦しい角部屋に追いやられている噺家にとってはそう思えた。
「……なんか、すごい片付いてない……?」
「そうか? お前の部屋は……論外として、なんか物が多いのって落ち着かないんだよな。職業病なのかもしんないけど」
飴屋は脱いだ羽織りをベッド横の門掛けに雑に引っ掛け、更にその横の箪笥の中から分厚い座布団を取り出すと、こちらへ向かって放り投げた。一瞬猫のように飛び上がった噺家は飴屋に指と視線で『座れ』と合図されたので大人しく従うことにする。
次に冷蔵庫からよく冷えた水を出してきた飴屋は、「飲んでおいた方がいい」と言って未開封のペットボトルをそのまま差し出してきた。先ほど作業室から漏れた空気を吸ってしまった噺家を心配しているのだろうが、あまりに不器用な心遣いに思わず苦笑してしまう。もしこれでコップやタンブラーなんかが出てきたら、それはそれで面白くなってしまうのだろうが。
「あ゛ーー、生き返る……こういうときの水って超うまいね」
「中毒性のあるガスを吸ったあとの水?」
「そっちからブラックジョーク仕掛けて来るのは違くない??」
そうしてひと息ついた頃、何やら飴屋がそわそわし始めた。手を洗いに行きたいのかとも思ったがどうやらそうでもないらしい。
気になった噺家が言及するより先に、飴屋は堪えきれずに口火を切った。
「──それで、さっきの……は、結局どういう意味なんだよ」
「……? さっきのって?」
「や、だから……ウェン──情報屋との、やつ……」
「あぁ……」
飴屋はもじもじと口籠もりながら、叱られるのを待つ子供のように膝を抱えてこちらを見ている。というかうっかり名前言っちゃってるけど大丈夫なんだろうか。自分はあちらに名乗ってもいないくせに。
繁華街での情報屋とのやり取りで、結局噺家は何が言いたかったのか。当の本人すら今の今まで忘れていた内容をひとりでずっと考え込んでいたらしい。それがいじらしいやら鈍いやらで何とも言えず、噺家は水をひと口飲んでから口を開いた。
「別に、大したことじゃないよ。何ならこのまま忘れてくれてもいいし」
「んなことできるわけねえだろ。……なあ、なんでそんな拗ねてんの」
「拗ねてないし」
「ほら、拗ねてるじゃん」
それはその通りなのだが、わざわざ言葉にされると突っぱねたくなってしまう。噺家はそこで、情報屋に言われた言葉を思い出してみた。
『言いたいことは、言わなければ伝わらない』特に飴屋を前にするとそれを痛感する。彼は常にアンテナを張っていて悪意や気配には聡いくせ、『こういう方面』に関してはどういうわけだかまるきり鈍感なのだ。
面倒なことを言っているのが自分の方だという自覚はある。だからこそ、きちんと言葉にしなければきっと一生伝わらないのだ。
飴屋の瞳に映った自分は分かりやすくむくれていて、ああなんだ、結局ふたりとも子供じゃないかと何だか力が抜けてしまった。
「……言っても笑わない?」
「笑うようなことなの?」
「僕にとっては違う」
「うん。じゃあ笑わない」
「……、……きみはさ、僕にはあんなふうに、気安く接したりしないじゃん」
「気安くって……別に仲が良いわけじゃねえよ。何つうか、腐れ縁、みたいな……」
「……」
──腐れ縁、という言葉をこんなに羨ましく感じたのは、噺家のそう短くない人生でも初めてのことだった。
切っても切れない悪縁。顔を合わせば小突き合い、何だかんだでお互いを頼りにしてるいるような──……そんな、気の置けない友人同士の仲。
噺家は胸の内からわっと湧き上がる感情を必死に抑え込み、またひと口水を飲む。冷たい水が喉を潤して、それでも癒えない渇きと熱が、腹の奥にぐずぐず溜まっている。
きみの、と声にならない声を出す。
「……きみの友達になりたかったんだよ、僕は」
飴屋ははっと目を見開くが、何かに気付いたというよりは単に驚いただけのように思えた。それはそうだ、噺家からそんな素振りを見せたことはただの一度だって無かったのだから。
「……なんで? 恋人じゃだめ?」
「それは……でも、違うんだよ。たとえばだけど──きみ、僕を殴れって言われたら殴れる?」
「はあ……? ……いや、無理だろ。お前にそんなことしたくねえし」
「んふふ、そう言うと思った。……じゃあさ、情報屋の彼は?」
「あー……まあ、理由があれば……?」
「……ね。そう。それが良かったんだよ、僕も」
訳知り顔で頷かれても飴屋は疑問符を増やすばかりだ。噺家は『あぁ、今の僕ってすごく女々しいな』と自嘲しながら、ペットボトルについた結露を指先でつうっとなぞる。
「きみ、『走れメロス』って作品知ってる? その小説の中では最後、苦痛に呑まれて親友を裏切りそうになった主人公と、そんな主人公を疑ってしまった親友とが、お互い殴り合ったあとで涙ながらに抱き合うんだ。……それってけっこう、友情と呼ばれるものの本質なんじゃないかって思うんだよ」
「……悪いけど俺、教養がねえから、」
「うん、つまりね──僕はきみと、対等になりたかったんだ」
そう言って口を閉じた噺家はどこか遠い目をして飴屋のことを見つめている。葡萄色が一瞬微かにゆらめいて、誤魔化すように視線が逸らされる。
水を嚥下する喉仏には、うっすらと赤い跡がついていた。
「上とか下とか、もう嫌なんだ。ただ隣にいてくれればよかった、それが僕にとっての特別だった。ただ隣で馬鹿やって、僕が間違えそうになったら殴ってでも止めてくれるような……そんな『親友』が、きみだったらよかったのに」
「……テツ、」
「ごめん、全部僕のわがままだ。だから聞き流してくれていい。きみは、『彼』とは違う人なんだから──、」
「テツ」
いつの間にか間隣まで来ていた飴屋が、丸まった噺家の肩を掴む。
「お前は……俺に誰を重ねてるんだよ」
「……っ」
否定しようとした口は何も言えぬまま閉じていき、噺家は下唇を噛み締めた。
詰め寄っているんじゃない。責められているのでもない。飴屋はただ橙と薄荷の瞳に憂いを湛えながら、ただ純粋に真実が知りたいだけなのだろう。……実際のところ、それが一番の難題なのだ。噺家は唇をきつく噛んだまま前髪をぐしゃりと掻き乱す。
こうして黙っていたところで自分は飴屋に殴られもしなければ、捨て置いていかれることもない。何故なら自分は飴屋の『特別』だから。
特別だから、どれだけ正気を失っていようと手を上げられることはないし、冗談であろうと暴言を吐かれることもない。人に優しくする術を知らない飴屋が唯一、真綿で包むように、硝子細工に触れるように、おっかなびっくり慣れない手つきで愛おしむ相手が噺家なのだ。
嬉しくないはずがない。愛おしくないはずがない。贅沢なのだ。今の時点で、この上などないほどに。
けれど、──けれど。
「……重ねてなんかいないよ。だって彼ときみとじゃ全く別人なんだ、全然、どこもかしこもちがう。……そんなの、分かってるから……ねぇ、だんな。
──抱いてよ」
は、と困惑に開いた口は、よく冷えた薄い唇で塞がれてしまう。今まで何度も体を重ねてきても、それだけはしようとしなかったのに。それだけが、噺家から与えられる唯一の『特別』だったのに。
一度目は咄嗟に反応できず、角度を変えて二度目。そこでようやく思考が追いついた飴屋は、弱々しく縋りついてくる胸板を押して離した。
「ッ、おい……! ヤケになるなよ、一回落ち着けって」
「自棄じゃないよ。これしか思いつかないんだ、きみを宥める方法も、それを証明する方法も──」
「だから……ッ一緒にすんなって!」
痺れを切らした飴屋は、虚ろな目で迫る噺家を最低限に加減した力で突き飛ばした。支えを失った噺家は座布団の上へ倒れこみ、それを飴屋が覆い被さる形になる。
いつもの彼とも客を相手している彼とも違う、激しい感情が震える手のひらから伝わってくる。怒らせてしまったのか、と噺家は叱責に耐える準備をした。
「……俺は、お前を普段散々良いように使ってる兄弟子共とは違う。機嫌が悪いからってひどくしたりしないし、そんなことで誤魔化されたりもしない。お前の望む方法じゃないかもしれないけど、ちゃんとお前と対等でいたいと思ってる。……だから、そんなふうに自分の価値を下げるような真似すんな」
「はは、下がる価値なんざもう残ってないよ。きみだって分かってるだろ。今だって、……他の男の匂いをさせてるような男なんだぞ、僕は」
苦しげに眉根を寄せながら、噺家は自虐的に笑ってみせる。
いくら鈍い飴屋だって最初から気付いていたはずだ。徹夜で文書を作成したという本部への用事が、何故こんなにも夜遅くまでかかっていたか。噺家は『接待はさせられなかった』と言った。逆手に取ればそれは『それ以外のことはさせられた』とも言える。
白檀に似た甘い匂いと、整髪料、噺家の吸っているメントールの澄んだ煙の匂い。──その奥から微かに顔を出している下品な香水の臭い。不自然に乱れた髪、首筋の跡、朝から晩まで外に出ていたはずなのに、皺のひとつも見当たらない衣服。
それらから連想される出来事は噺家にとっては日常茶飯事で、飴屋にとっては直視することもできないような悲惨な行為だ。
飴屋は噺家の頬か髪に触れようとして、すぐにその手を引っ込めた。今の噺家を労わるのにそれは相応しくないと思ったから。
「──それを言うなら、俺だって平気で人を殴るような男だろ。別に好きでやってるんじゃねえけど、それ以外に生き残る方法がなくて……でも、俺はテツが大切だから。他の奴がどうであろうと、お前を使うような真似はしたくない」
「……、……あぁ、そうだね。きみはずっと、そういう奴だ……」
飴屋の言動はいつだってちぐはぐで、矛盾していて、わがままだ。けれど彼はそれを正当化なんてしていなくて、絶えず思考を繰り返して自分なりに折り目をつけて生きている。自分とはこういう人間だといつだって少しばかりの謙遜をしながら、彼はずっと、そういうふうに生きていた。
まっすぐにこちらを見下ろす薄荷色が眩しくて噺家は目を細める。彼を見ていると苦しくなるのは、いつだって自分の中の暗がりが照らされてしまうからだ。
「僕たちはさ、きっと似た者同士なんだよ。どうやったってきみは暴力から逃げられないし、僕はこういう方法でしか自分の価値を示せないんだ」
「っそれは、」
「違うって言うんだろ、僕だってそう思ってるよ。……僕の本当の価値はこんなものじゃない。こんなものであっていいわけがない。──きみと同じだ。こんなこと、好きでやってるわけないだろ……!」
噺家は飴屋の胸ぐらを掴み、目尻いっぱいに涙を溜めて叫んだ。噺家の細腕ではその身を引き寄せることすら叶わずに、表面張力の限界を迎えた涙は頬を伝って流れてゆく。
こんなのはただの八つ当たりだ。頭ではそう分かっているのに、一度堰を切ってしまった感情は自分ではもう止められず、ずるりと力を無くした両腕で噺家はぐしゃぐしゃになった顔を覆い隠す。
「……頼むよ、お願い……僕を慰めてよ、リトくん。僕にも分かるくらい、単純な方法で……ねぇ……」
「……」
さめざめと泣きじゃくる噺家にどう接していいか分からず、飴屋は右手を宙で彷徨わせる。大の大人を歯の根が合わなくなるまで泣かせる方法はざっと十通りほど思いつく飴屋だが、目の前の想い人を泣き止ませる方法などはただのひとつも知らなかった。
考えあぐねた飴屋は一度噺家の顔を隠している腕を退けることにした。顔さえ見れば、今の噺家には何をしてやるべきなのか少しは分かる気がしたから。噺家は当然抵抗しようとしたものの、隙間から見えたまなざしがあまりにも頼りなげに揺れていたものだから、つい力を緩めてしまった。
そうして見えた顔は涙で濡れて真っ赤に染まり、鼻を啜りながらこちらを弱々しく睨んでいる。飴屋は張り付いた髪を除けてやり、濡れそぼった頬を拭ってやった。
何を、と言いたげな唇に、飴屋はそっとキスを落とす。顔を離してから見た表情は、思わずたじろいでしまうほどにあどけない。
「俺、こんなんだからさ。お前を慰めてやる方法とか何にも思いつかないけど……何も考えなくてよくなることなら、ひとつ知ってる」
「……り、とく──」
「──ごめん」
飴屋は大きな手のひらで噺家の目元を覆い、三度のキスをする。ちゅ、と軽いリップ音を鳴らしたあとで下唇の跡を労わるように舐め、薄く開いた隙間からそろりと舌を忍ばせる。
噺家の言う通りだ。今の自分たちはこの窮屈な暮らしの中でやりたくもないことを強いられながら、傷を舐め合って生きていくしかないんだろう。
手繰った先にあったのが極楽などではなく、もうひとりの助けを求める罪人だったとしても、今更手を離すことなどできやしないのだ。
──ああ、俺はきっとこの選択を、あとになってから死ぬほど後悔することになるんだろう。そう頭のどこかで理解していながら、意識は低い体温の中へと静かに飲み込まれていった。
コメント
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おつかれさま〜!第38話読んだよ…!!😭💕 もうね、この回は感情がぐちゃぐちゃになったよ…。飴屋の「人殴るの怖くなくなってた」って気付きのシーン、めちゃくちゃ胸に刺さった。自分でも気付かないうちに、生きるために身につけちゃったものってあるよね…。そこをテツ(噺家)が「でも守るべき人の区別はついてる」って拾ってやるところが優しすぎて泣く。 あと情報屋出てきたときの空気の変わりようがすごかった…!あの人の「そいつ多分ずっとそんな感じだからさ」って一言がもう全てを語ってて、そしてラストの「抱いてよ」からの展開…!!😭✨ 二人とも不器用すぎて応援せずにいられないよ…!続きめっちゃ気になる!!🔥💕