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暗がりの中、観客のざわめきがゆっくりと沈んでいく。
木の舞台はわずかに湿っていて、靴裏に張りつく感触がある。汗か、それとも昨夜の雨か。
——落ち着け。
喉が乾く。
声を出せば、すべてが終わる気がした。
いや、違う。
終わるのは“彼女”だ。
ここにいるのは——リンデン。
少年役者、リンデン。
幕の向こうで合図が鳴る。
光が差し込む。
その瞬間、呼吸を変える。
浅く、速く、軽く。
胸ではなく、喉で息をする。
視線を上げ、息を吐く。
ーーそれは、彼女の声では無かった。
観客の視線が、一斉に突き刺さる。
怖さは、置いてきた。
舞台の上では、何もかもが許される。
名前も、声も、身体も。
ここでは、誰も“リンダ”を知らない。
だから、ここだけ、本当になれた。
ーーー
その朝、リンダという名前を捨てた。
テムズ川の水は濁っていて、春だというのに冷たかった。
震える手で髪を掴み、短剣で切り落とす。
ばさり、と重みが消える。
肩が軽くなったのに、胸の奥は妙に重かった。
水面を覗き込む。
そこに映ったのは、見知らぬ顔だった。
輪郭は同じはずなのに、何かが違う。
「……リンデン」
口に出してみる。
風にさらわれそうな、小さな声。
もう一度。
今度は、少しだけ強く。
「リンデン」
その名前は、不思議と体に馴染んだ。
嘘のはずなのに。
いや——だからこそかもしれない。
後ろから、怒鳴り声が飛んだ。
「おい、そこのガキ!」
振り向くと、男が立っていた。
古びた外套、鋭い目つき。煙草の匂いがする。
反射的に背筋を伸ばす。
「お前、どこから来た」
「……仕事を探してます」
少し低く、短く。
言葉を削る。
女の喋り方は、柔らかすぎる。
それがばれる。
男はじろじろと彼女ーーいや、彼を見た。
髪の切り方。
痩せた身体。
まだ変わりきらない声。
「年は」
「十六です」
「……役者はやったことあるか」
一瞬、息が止まる。
脳裏に浮かぶのは、母の声だった。
ーー物語はね、嘘じゃないのよ。
ーー人が信じた瞬間、本当になるの。
リンダは、母の真似をして何度も演じた。
夜、路地で、ひとりで。
けれど、それは“遊び”だった。
舞台ではない。
仕事でもない。
それでもーー
「あります」
言い切る。
嘘を、本当にするために。
男は、ふっと鼻で笑った。
「ほう」
沈黙が落ちる。
遠くで鐘が鳴る。
どこかで犬が吠える。
街はいつも通り動いているのに、自分だけが止まっている気がした。
やがて男は言った。
「女は舞台に立てない。——知ってるな?」
心臓が強く跳ねた。
だが顔には出さない。
「はい」
短く答える。
男の目が細くなる。
「じゃあ、お前は何だ」
一歩、踏み出す。
逃げれば終わりだ。
ここで引けば、もう戻れない。
リンダは帽子の縁を押さえた。
そして顔を上げる。
「……リンデンです」
その瞬間。
何かが、決定的に変わった。
男は数秒、黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑う。
「いい目をしてるな」
そう言って背を向けた。
「ついて来い。使えるかどうか、見てやる」
心臓の音がうるさい。
足が震える。
それでも、彼女は歩き出した。
少年として。
役者として。
嘘を生きる者として。
その日、リンダは消えた。
ーーリンデンだけが、残った。