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ユカリはいまだかつてこれ以上の速さで空を飛んだことはない。グリュエーに身を任せても、ユビスの全力で野原を駆けても、硬直した空気という壁に押し付けられるような気分になったことはない。竜の背に跨った睡蓮の君も、世界の縁から落っこちた罪人鋼の長もこれほどの速さを感じたことはないだろう。
世界の初めからどこにもあったはずのない八つの緑の太陽が睥睨する薄暗い空を、見えない何かに引っ張られて飛んで行くユカリは空気の圧に耐えるので精いっぱいだった。その異常な状況でユカリの張り詰めた精神は極限に達し、肉体は石のように強張っている。せめて第五の魔法の空気の【放出】で逆噴射し、勢いを殺せはしないかと試す。しかしまるで激しく回転した時のように酔い、天地も方角も分からず、勢いの変化も感じられなかった。
籠城を決め込むも打開策の見当たらない兵士のように何かにすがりたい必死な思いで、「グリュエー!」とユカリは叫んだ、はずだった。しかし自分の声さえよく聞こえない。グリュエーの風の音は区別がつくはずもない。
縛り首のように真上に引っ張り上げられていると思っていたが、やがて弧を描いていることに気づき、暫くして少し速度が落ちたことに気づく。しかし体の自由は取り戻せていない。魔法少女の煌びやかな杖を手でつかみ、何かに触れはしないかと手首に可能な範囲で振り回す。
ユカリにはこの状況に一つだけ心当たりがあった。それは実母エイカの使役していた透明蛇カーサだ。あの蛇は単に色のない透明なわけではなく、こちらから触れることができないのにあちらからは触れることができるという厄介な悪霊のような存在だった。
もしかしたら目に見えない巨大な鳥にでも運ばれているのかもしれない。ユカリはそう思って見えない何かを叩きのめそうと杖を振って、念のために魔法少女の第四の魔法で【破壊】を試みたのだが、何の手応えも歯応えなかった。嵐に弄ばれる木の葉のようにされるがままにユカリの変身した小さな体はどこかへ運ばれる。
ユカリの体は放物線を描いて弧の頂点を過ぎ、下り始めた。空ではなく地上のどこかへ連れて行かれるのか、あるいは見えない巨人か投石器に投げ飛ばされたのかもしれない。
このままでは地面に叩きつけられる。何とか体勢を変えようと杖から空気を放出しつつ、蜘蛛の巣に捕まった憐れな餌食のように身じろぎして、気づく。いつの間にか見えない何かから解放されている。全身が自由だ。
しかし落下の勢いを弱めて空中に停止するのはやめにする。今では一刻も早く地上に降り立ちたい気分になっていた。呪われた土地に降り立つ前に、改めて魔法少女に変身していることを確認し、ユカリは地上へと帰還した。地面に触れると全身から力が抜けたように膝をつき、掌の下に広がる世界を支える大地の揺るぎなさに安堵の溜息をつく。ただしまだ安心すべきではない。ここは踏み入れる者の少ない危険な大地だ。
古今の英雄たちが常にそうしてきたように、ユカリはとにかく前へ進もうと顔を上げる。
荒野だ。封呪の長城近くには青々とした――それは奇怪な太陽のせいでもあるが――野原が見えたが、ユカリの目の前に広がっているのは砂と雑草とわずかな低木ばかりの不毛の土地だった。世を憂えた隠者ですら、人の目を掻い潜る罪深い賊ですら、このような土地には近づかない。ただ人を糧とする邪悪な精だけが、太陽を呪う陰鬱な魔性だけが、人の寄り付かない痩せた大地で歓呼と共に転げまわる。そして荒野もまた喜び無き地上を良しとする。
ユカリは改めて空を見上げ、眺める。あいかわらず太陽は緑に灯っていて、八つもあって、そのくせこの荒れ地を生き生きと輝かせられない薄暗さだ。世界を爽やかな青空と清らかな白雲に染め、生きとし生けるものに溌剌さを吹き込むべき夏の気配は彼方に消え失せた。ユカリを連れ去った存在の姿はどこにも見えない。空には鳥一羽見当たらない。
そして最早慣れ親しんでしまった禍々しい気配に包まれていることにユカリは気づく。砂を肌に擦り付けるような魔導書のざらつく気配だ。
魔導書の気配には種類が二つある。その在り処の方向すら分からないが確かにあることだけは分かる気配と、その位置まで掴める気配だ。そしてベルニージュと共にユカリの経験を分析し、前者の魔導書は羊皮紙もしくは完成した魔導書であり、後者は魔導書の衣だけだと認める。付け加えて魔導書が何かに憑依している時、気配は完全に消える。
ただしベルニージュに何度も何度も注意されたことだが、資料、判断材料が少なすぎるので仮説にしてもまだ弱い、とのことだった。魔導書の衣に関しては他にも例外的な特性があったので判断するには時期尚早、というわけだ。
そしてその通り、確かにまだ結論は出せないのだとユカリは思い知る。その気配の在り方は今までにないものだった。何となくの方向は分かるが、はっきりと位置までは分からない。濃い霧の向こうから呼びかけられているような気配だ。どちらかといえば魔導書の衣寄りだとも思ったが、判断を保留する。思い込みが目を曇らせるのだとベルニージュは繰り返し言っていた。
「一体何があったの? とんでもなく遠くまで飛ばされてきたね」と声をかけられ、ユカリはびくりと震える。グリュエーの声だ。
「よかった。グリュエー、ついて来れたんだね」
「もちろん。当たり前でしょ。グリュエーがユカリからはぐれたことある?」
何度かあった。
「何があったのかは私も分からないよ。ただ見えない何かに締め付けられて運ばれて、いつの間にか拘束が解けていて……。グリュエーは大丈夫?」
「風だもん。大丈夫だよ」と平気そうに答えるが、どこか歯切れが悪いことにユカリは気づく。
「本当に? 呪われた地、大地そのものが、国そのものが呪われてるんだからグリュエーだって気を付けないと」
「どうやって? グリュエーも魔法少女に変身すればいいの?」
その言葉の刺々しさにユカリは少し驚く。しかし思い返してみると、しばらく前からずっとこのような棘を秘めていたようにも感じられた。いつからだろう、と思い返すがあるいはシグニカにいた頃からそうだったような気がしてきて一旦思い悩むことを中断する。
「それは、そうだけど。とにかく何かに気づいたら教えてね」
「ユカリは無事だね」とグリュエーは言った。
その言葉の意味が分からずユカリの喉が詰まる。「え? どういうこと? 無事だけど」
「グリュエーの助けなんてもういらなさそう」
ようやく意味が分かる。だとすれば【蓄えたものを放出する魔法】を会得してからずっとグリュエーの内に降り積もっていたのだ。
要するに活躍の機会が減って不貞腐れ、拗ねているらしい。
「そんなことないよ。例えばもしもさっき私が気絶していたならグリュエーしか助けられないし、あの魔法の吐き出す空気は事前に取り込んでおいた分しか出せない。色々な点に置いてグリュエーの方が優れてるよ。最近は方向を間違えることも減ってきたしね。私でも何とかできる場面だったに過ぎないってことだよ」
「本当にそう思ってる?」グリュエーは欲しい答えを求めている。
「私がそう思ってなかったとしても本当のことだよ」
「じゃあ、良いけど」と言う言葉は少しばかり元気を取り戻したことを教えてくれる。
ユカリの気分も、戦場にたどり着く前に勝利の報せを聞いた兵士のように少しばかり晴れる。
ともかく魔導書の気配の方へ進もうと東へ向かう。飛んできた方向へと戻ることになる。あの何よりも背の高い封呪の長城は見えない。とても遠くまで運ばれたようだ。
「ほら、久しぶりにあれ言ってよ。景気づけにさ」とユカリは懐かしむような気分でグリュエーを囃し立てる。「使命が何とか、西方が何とかってやつ」
「もう、仕方ないなあ」グリュエーは嬉しそうに、少し勢いよく口上を述べる。「野原を吹き渡る緑風! 遥か東方へ誘う者! 噂と使命を運ぶ風! グリュエーの名を背負う者!」
「え?」ユカリは呆気にとられる。「東?」
「ん?」グリュエーは気づいていないようだった。
「通り過ぎたの!?」