コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
いつもの通り、グリュエーにもよく分からない、が結論だった。西から東へ目的地が変わった理由。使命の変化を自覚できていなかった理由。このクヴラフワの中で目的地を通り過ぎただけならまだしも、もしもクヴラフワから東にグリュエーの使命の行く先があるならば、シグニカに舞い戻らなくてはならない。
気になって仕方がないが、どのみち東へ進むのだから、とユカリは気を取り直して荒野を進む。
「ここは気色が悪いね」とグリュエーが沼地の葦を揺らす風のように囁く。
ユカリにとってただひたすらに魔導書の気配を追うことなど慣れたものだが、この陰鬱な荒れ地にはあらゆる点で人を不調にする不可解な力が働いていた。不毛とはいえ、確固として盤石な大地の上を歩いているはずだが、その一歩をきっかけに崩れてしまいかねない空洞を足元に隠した砂の上のような危うさがある。歩けど歩けど様相に代わり映えはない。起伏の乏しい荒れ地を覆う草花と僅かな灌木の景色には、打ち棄てられた廃墟にかつてそこで営みを送っていた人々の最期を示す痕跡を見出した時のような痛ましさがある。クヴラフワの天の玉座を奇妙な緑の太陽が簒奪したように、この荒れ果てた大地も新参者で、かつては生命を育む豊かな力を持っていたのかもしれない。
ユカリは入るべきでない忌まわしい場所を侵してしまった時のように、じわりと冷や汗をかく。夏の到来を控えているはずの空気が冷たい。何もかもがクヴラフワを呑み込んだ呪いの作用のように思えてくる。
「ううう」とユカリは気を紛らすべく小さく唸るような声を漏らす。
ふと、唯一ここの雰囲気に似た場所を訪れていたことに気づく。それは迷宮都市ワーズメーズ、それも迷いの呪いによって深みに呑み込まれかけた時の雰囲気だ。ユカリはこの世ではないどこかに接し、また目にもした。まだあの時ほどの不安感はないが、産毛が逆立つような危うい予感があった。
改めて祝福を失った荒野を眺め、意味ありげな起伏に注意を払って見つけた他より高い丘を、水の気配に気づいて急き立てられる遭難者のように一息に上る。何かが見つかるかもしれない。人や街じゃなくても、ただ当てもなく彷徨わずに済む、何か目印が欲しかった。
丘を上り切ると、突然に押し開かれる両開きの窓のように新たな景色が広がる。すぐ目の前に現れた崖から落ちないように立ち止まる。そこは大きな窪地になっていた。丘の裏側は何段にも分けて、まっすぐに削られている。石切場だ。
そしてその最下段、石の切り口の直線に囲まれた広場には数十人の人々がいた。幾人かが、丘の頂に現れた紫に朧気に光る魔法少女ユカリに気づいて仰ぎ見ている。残りの大多数は同じ方向を、ユカリのずっと下にある何かに向いて跪いている。どうやら祈っているらしい。石切場にあって多数が祈る様子は、その広場自体が巨大な祭壇のようだ。
特に下りられる場所もなく、回り込むにも遠いのでユカリはそこから飛び降り、グリュエーに受け止めてもらう。
人々は魔法少女を指さし、口々に言い合っているが、恐れているという様子でもない。ユカリは警戒心を露わにしている人々の元へ近づく。ユカリに気づかず一心に祈り続ける人々もいる。
人々の姿を見て、ユカリは悲しいようなやるせないような気持になった。誰もが、顧みられることのない枯れ木のように痩せていて、目が落ちくぼんでいる。罅割れた肌は垢と泥に塗れ、髪や歯も痩せて抜け落ちている。ほとんどが老人で、最も若い者でも三十は超えているだろうか。
泥のように濁った沢山の瞳は、必ずしもユカリだけを見ているわけではなかった。彼らの朧な視線の先を振り返る。今しがた飛び降りた丘の裏側の崖には、地下への洞窟の口がぽっかりと開いていた。今にも口をきいて悪しき予言を紡ぎ出しそうな洞窟だ。
「神官様なのか?」「光ってるぞ」「だがマルガを踏みつけてきた」「いや、丘はマルガではないだろう」「しかしマルガの上から現れるのはどうだ」「不敬だ」「だが子供だぞ」「だが魔法使いだぞ」
大嵐に羽根を奪われた鴉のような襤褸を纏った沢山の人々がざらついた声で囁いている。彼らの他に少しばかり上等な、多少薄汚れてはいるが白い服を着ている自信に満ちた表情の者たちがいた。立ち居振る舞いや恰好を見るに、そちらは宗教的指導者のようだ。
何やら気まずい空気に気づかない無垢な子供のふりをして、ユカリは彼らの独特な合掌――掌ではなく五本の指の腹を合わせている――を観察する。あるいは花のつぼみを表現しているようにも見えた。
そこへ指導者たちの一人が進み出た。その男も痩せぎすではあるが、襤褸を着た者たちに比べると恵まれた生活をしていることが窺える。肌艶もよく、比較的まともな食事をとれているに違いない。鋭い眼は鴉のような抜け目なさを表し、弧を描いて固く閉じた口から岩のような厳格さが窺える。有力者然とした堂々とした佇まいで、威厳を保つ姿勢は微動だにしない。無手だが脅すような威圧感を放っている。
「貴女は旅人ですね。ええ、言わなくとも分かります。しかしこの呪われた世に、それも兎穴領に旅人とは」男は声にも態度にも拒むような雰囲気を醸し出している。「あまつさえこれほど幼い魔法使いが。一体貴女はラゴーラのどこから来たのです?」
挨拶もなしだ。あまり友好的とは言えない。
「クヴラフワの外からやってきました」とユカリははっきりと伝える。
人々の間にざわめきが起きる。信徒たちは呆れているような恐れているような様子になり、指導者たちはより疑わしげな眼差しを向けてきた。
「つまり西から来た、ライゼン大王国の手の者ということですか?」と男は問いかける。
「クヴラフワに、なら私は東から入って来ました。少し通り過ぎて、戻ってきたところです」とユカリは全てではないが正直に説明する。
「つまりシグニカの、救済機構の手の者ということですね?」
「違います。単独でやってきました」とユカリははっきりと否定する。「どちらとも繋がりはありませんし、クヴラフワに入ってからはライゼン大王国や救済機構の関係者を見かけたこともありません。救済機構に与するものではありません、父母と義父母に誓って」
最後は特に強調しておく。
シグニカ統一国とライゼン大王国の戦争の舞台となったが為にクヴラフワ諸侯国連合は呪われたのだ。当然彼らは二大国に対して呪わしい気持ちでいるだろう。
彼らに隠すべきことがあるとすれば魔導書関連くらいでいいだろうとユカリは結論する。魔法少女の嘘ばかりの噂もクヴラフワまでは届いていないらしい。
「それほど強力な魔法使いである、と。独自の魔術で境界をも越えられるほどに」
「封呪の長城なら上を越えましたね」
越えるつもりはなかったが、とユカリは心の内で呟く。
指導者らしき男は首を横に振る。「私の言う境界とは残留呪帯のことです」
知らない言葉にユカリは困惑する。「すみません。正直に言えばクヴラフワの現状のことは、まだ、ほとんど知らないんです」
男もまた困惑し、それを面に出さないように堪えているようだった。歪みかけた眉がゆっくりと元に戻るが、ものを知らない余所者に対する眼差しはそのままだ。
さらに姿の見えない何者かに攫われてきたという話を加えると、永遠に信用してもらえないかもしれない。
「それで、そもそも何をしに来たというのですか? 魔の者さえも蝕む呪いに沈められ、神々にさえ見放され、ただシシュミス神の一抹の慈悲に縋るこの土地に」
ユカリは少しだけ躊躇いつつも口にする。「私は、クヴラフワを解呪する手立てを探しています」
嘘は言っていない、とユカリは自分に言い聞かせる。もしもクヴラフワ衝突を終わらせた呪いの災害というのが魔導書による呪い、災いならば魔導書を完成させればこれ以上クヴラフワを呪うことはなくなるはずだ。
男の表情は読めない。喜ぶでもなく嘲るでもない。ユカリの主張を味わうことなく、ただ飲み込んでいる。
「つまり貴女ならば、貴女の魔法ならばそれが可能だと?」と男は試すように挑むように尋ねる。
「あるいは」とユカリは練達の魔術師になりきって答える。
男はゆっくりと首を横に振る。拒みはしないが受け入れがたいといった様子だ。
「正直に言えば、信じるに足りません。この土地にもかつては諸国に名を馳せる優秀な魔法使いが多数存在し、幾人かは呪いに挑み、その全てが敗れ去りました。その誰もが言ったものです。自分こそがクヴラフワを救う者だと」と苦々しげに語りつつも男は少しばかり柔和な表情になる。「とはいえ希望を抱き、困難に挑む者の魂は汚れなき光を湛えているもの。貴女の在り方を否定するつもりはありません。これもマルガ洞の思し召しでしょう。ご挨拶が遅れました。私はシシュミス教団はマルガ洞付き神官長来たる者。どうぞお見知りおきを」
カルストフは決められた聖句のように唱える。その差し伸ばされた手をユカリは握る。
「私はユカリです。大陸の遥か南東ミーチオンの素朴な丘の間からやってきました。どうぞよろしく、カルストフさん」
その瞬間カルストフは弾かれたように手を引っ込め、黒い瞳で己の掌を凝視する。
ユカリもつられて自分の手を見るが特に異常はない。窺うようにカルストフを見上げる。「どうかなさいました?」
「いえ、気のせいでしょう」
こういう反応は以前にも見たことがある。まさにこの旅の始まりの夜、チェスタがユカリの首を絞めつつ呪おうとした時だ。呪いは魔法少女の衣に弾かれ、手で触れていたならささやかな衝撃を返す。
まさか出会って間もない人間を呪おうとしたというのだろうか。機先を制するにも程がある。しかし他には考えられない。ユカリは神経を張り詰め、人々の動向に注意する。
変わらず祈る者。訪問者を見つめる者。ひそひそと言葉を交わす者。疑い出せばきりがない。
「シシュミス神は霊峰に座する神の一柱ですよね」ユカリは探るように言葉を紡ぐ。「マルガ洞、というのは皆様の神様の御名前でしょうか?」
ユカリは荒れた丘にぽっかりと開いた暗い洞窟の方を振り返り、一心に祝詞を捧げる別の神官の大袈裟な身振りを観察する。藪の中を掻き分けて進む者のような手振りをしながら祈りの言葉を連ねている。
「ええ、その通り。ラゴーラに古くから伝わる熱烈な信仰です」カルストフは微笑みを浮かべてユカリの視線を追う。「いと貴きシシュミスの化身であり、この呪いに塗れたクヴラフワにあって我々を災いから遠ざけてくださる御心深き御方です」
災いを遠ざけているのだと聞き、ユカリは辺りを見渡す。この不毛の土地はこれでもましだというのだろうか。
「『這い闇の奇計』も、ご存じないのですね?」
カルストフの問いを受けて、ユカリは申し訳なさそうに頷く。聞いたことのない計略だ。そもそも計略の名前など一つも知らないが。
「クヴラフワ諸侯国を蝕む数多くの呪いの中でも、ラゴーラ領を最も苦しめる呪いです」
「『這い闇の奇計』。呪いの名前なんですね」
カルストフは錆びた蝶番のように重々しく頷く。
「ライゼン大王国の放った強力な呪いの一つです。あちらこちらを這いずるように彷徨い、人を呑み込み、喰ってしまいます」
「そんな呪いを遠ざけてくれるのがマルガ洞というわけですね?」
カルストフは相槌よりも説得力のある自信に満ちた表情で頷いた。
ユカリも感心したような表情を浮かべることにする。しかし魔導書の気配は石切場の祭壇に穿たれた洞窟の奥からユカリを呼び寄せていた。