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雨はついに、家の外壁を叩き壊さんばかりの豪雨へと変わった。
リビングの床では、茶々が自分の体を掻き毟るようにして悶絶していた。薬が完全に切れた彼女の不完全な神経系は、制御を失って暴走を始めている。
「あ、が……あ……っ! 熱い、体が……焼ける……!」
彼女の茶色の耳は力なく伏せられ、首筋に浮き出た血管が不自然に脈打っている。白は狼狽しながらも、濡れたタオルで彼女の額を拭い、黒はその傍らで無言のまま、茶々の心音を確かめ続けていた。
「⋯⋯ん。⋯⋯心拍、⋯⋯限界。⋯⋯このままじゃ、⋯⋯一時間も、⋯⋯もたない」
黒の冷徹な宣告に、白が俺を振り返った。その瞳には、かつて自分たちが地獄から救い出された時と同じ、祈るような色が宿っている。
「……ご主人様、どうにかして! この子、アタシたちの家で死なせたくない……!」
俺は濡れたコートを羽織り、車の鍵を掴んだ。向かうべき場所は決まっている。第14話で白と黒を連れ戻そうとした追手たちの本拠地――あの忌まわしき「施設」だ。
車を走らせること三十分。辿り着いたのは、街の外縁部にある、地図に載っていない廃化学工場を隠れ蓑にしたあの施設だった。
かつて白や黒が「製造」され、茶々が「失敗作」として放り出された場所。雨に打たれる錆びた鉄扉が、巨大な獣の口のように開いている。
俺は武器を携帯せず、ただ両手を挙げて敷地内に足を踏み入れた。暗闇から無数の銃口が向けられ、赤外線のポインターが、俺の胸元にいくつもの紅い斑点を作った。
「止まれ。それ以上進めば、肉片も残らんぞ」
拡声器を通したノイズ混じりの声が響く。俺は足を止め、雨の中で声を張り上げた。
「……個体識別番号『CC-04』。その安定剤を渡しに来い! 交渉の材料はある!」
工場の奥から現れたのは、第14話でも顔を合わせた、冷徹な目をしたあの管理官だった。彼は俺の顔を見るなり、嘲るように口角を上げた。
「ほう。あの失敗作のために、わざわざ飼い主が自首しに来たか。だが、あの個体の欠陥は深刻だ。一時しのぎの錠剤を渡したところで、いずれまた同じことになるぞ」
「……だから、ここへ来た。生涯、薬を必要としなくなる『適合アンプル』があるはずだ」
管理官は一瞬、意外そうに目を見開いた。そして、粘つくような笑みを浮かべる。
「あれはまだ実用段階ではない。極めて高いリスクを伴う。……何より、タダで渡すわけにはいかんな。お前自身が、そのリスクを肩代わりしてもらうのが条件だ」
男が提示したのは、あまりにも非道な交換条件だった。
茶々の神経系を正常化させるための最終安定剤を彼女に投与する対価として、俺の延髄に「監視と実験用のデータチップ」を直接埋め込むこと。それは、俺の身体情報をリアルタイムで施設へ送信し続け、必要があれば施設側から神経に干渉できる「首輪」を嵌めることに他ならなかった。
「そのアンプルを渡せ。その後なら、好きにしろ」
「交渉成立だ。お前のその強靭な生命力、実験データとしては最高級の素材になる」
施設内の無機質な手術台の上で、局所麻酔とともに首筋に冷たい感触が走る。施設の技術者が手際よく、俺の神経系に未知のチップを食い込ませていく。視界が白濁し、脳を直接掻き回されるような不快感が全身を突き抜けた。
手術が終わるや否や、俺は放り出されるように渡された銀色のアンプルを掴み取り、すぐさま自宅へと引き返した。
意識が混濁し、もはや呼吸すら止まりかけていた茶々の腕に、その鋭い針を突き刺す。
数秒後。
嵐のような痙攣が収まり、茶々の荒い呼吸が、静かな寝息へと変わっていった。肌に浮き出ていた不自然な血管が消え、彼女の神経系は一生涯、薬を必要としない完璧な状態へと再構築された。
「……助かったんだよね。この子、もう苦しまなくていいんだよね」
白が安堵のあまり俺の腕に縋り付く。黒もまた、静かに胸を撫で下ろしていた。
だが、俺の首筋には、かすかな熱を持ったチップの違和感が、消えない楔のように残っていた。
「ああ、もう大丈夫だ」
俺はそう答え、彼女たちの頭を撫でた。茶々の命を繋ぎ止め、白と黒の安息を守るために、俺は自らの自由を施設に「担保」として差し出した。
外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。
茶々がゆっくりと目を開け、ぼやけた視界の中で、俺たちの顔を見つける。
「……お兄さん、……みんな。アタシ、もう……痛くない」
茶々のその笑顔を守るために。俺はこの先、施設の不可視の支配下で生きていくことになる。それでも、三人の猫娘が笑って暮らせるこのリビングだけは、何者にも壊させないと誓った。