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茶々が「完全な適合」を終えてから一週間。あのアンプルの効果は絶大だった。かつて彼女を苛んでいた激痛や痙攣は消え去り、肌に浮き出ていた不自然な血管も引いた。彼女の茶色の耳は健やかに震え、白や黒と一緒にリビングで寛ぐ「平穏」という名の日常がようやく形を成し始めていた。
だが、その代償として、俺の首筋には消えない「違和感」が重く居座り続けていた。
「……っ」
ふとした瞬間に、首筋の奥がチリリと熱を持つ。激痛ではないが、皮膚の下に冷たい異物が食い込んでいるという確かな不快感。施設のサーバーが低出力で同期を行うたび、微かな耳鳴りと共に視界の端をデジタルノイズが横切る。俺の身体が施設という巨大なシステムの末端に組み込まれたことを示す、呪いの合図だった。
「……また、そこ触ってる。今日で五回目だよ」
背後から白の声がした。振り返ると、彼女は掃除の手を止め、鋭い目で俺の首筋を凝視していた。白の直感は、俺が隠そうとしているわずかな仕草も逃さない。
「……いや、少し凝ってるだけだ」
「嘘。ご主人様、あの夜からずっとそこを気にしてる。……それに、時々すごく遠くを見てるような目をする。意識だけがどこか冷たくて遠い場所に引っ張られてるみたいで……嫌なの」
白の指摘に、黒と茶々も動きを止めた。特に茶々は、自分が救われた代償を誰よりも重く受け止めていた。彼女は手に持っていた布巾を握りしめ、おずおずと俺に歩み寄る。
「……お兄さん、もしかして。アタシを治すために、施設の人と……恐い約束をしたの?」
「⋯⋯ん。⋯⋯体温、⋯⋯首筋だけ一度高い。⋯⋯拍動に、⋯⋯微弱な電気信号。⋯⋯これ、⋯⋯神経直結型の通信チップ」
黒が音もなく背後に立ち、冷たい指先でチップの箇所をなぞった。その瞬間、チップが外部からの接触に反応したのか、脳内に施設の監視ログのような文字列が激しく明滅した。黒の瞳が、怒りと哀しみが混ざった色に沈む。
「監視チップね。アタシたちの標識か、ご主人様を操るためのリモコン?」
白の声が低く震える。彼女たちにとって、俺は唯一の光だ。その光に、かつての主たちが再び「首輪」を嵌めたという事実に、彼女たちの野性が牙を剥き始めていた。
「⋯⋯ん。⋯⋯解析する。⋯⋯周波数を特定すれば、⋯⋯外からジャミングできる。⋯⋯今すぐ無効化する」
黒が即座に工作キットを広げようとし、茶々も「アタシも手伝います!」と身を乗り出す。だが、俺はそれを強い手つきで制した。
「……やめておくんだ。それには触らないでくれ」
俺の言葉にリビングの空気が凍りついた。白が、信じられないという顔で俺の袖を掴む。
「どうして!? ずっと覗き見されるのよ? また変な実験をされるかもしれないのに!」
「わかってる。だが、信号が途絶えれば施設側に即座に通知が行く。そうなれば……あいつらは、また総力を挙げてここへ来るだろう」
俺は三人の顔を順番に見つめ、彼女たちの心に楔を打つように言った。
「茶々の体は安定した。白と黒のデータも抹消させた。……今、俺がこの『首輪』を外せば、ようやく手に入れたお前たちの平穏がまた壊される。今度は交渉じゃ済まない。みんなに危害が及ぶかもしれないんだ。だから、俺一人が少し不自由なだけで済むなら、それが一番いいんだ。分かってくれ」
「……そんなの、勝手だよ」
白の声が激しく震えていた。彼女は俺の腕を乱暴に振り切り、涙を溜めた瞳で俺を睨みつける。
「自分の身を犠牲にすれば、アタシたちが喜ぶと思ってるの? 誰かのために自分を殺して……そんなのが『一番いい』なんて言われたくない! ご主人様がそんな悲しい顔をしてる場所なんて、アタシにとってはもう、温かい家じゃないわ!」
「⋯⋯ん。⋯⋯一人で背負いすぎ。⋯⋯アタシたち、⋯⋯そんなに弱くない。⋯⋯守られるだけの、⋯⋯お人形じゃない」
黒も明確な拒絶を込めて俺を見据えた。茶々は、決意を秘めた瞳で俺の足元に膝をつく。
「……お兄さん、アタシ……もう逃げるだけの失敗作じゃありません。守ってくれたこの命、今度は、お兄さんの自由を取り戻すために使わせてください。危害が及ぶのが怖いんじゃない。お兄さんが一人で傷つくのが、何よりも怖いんです」
三人は、俺の「自己犠牲」という名の好意を、真っ向から叩き伏せた。彼女たちが求めているのは、与えられる安全ではなく、四人で肩を並べて困難に立ち向かうための「対等な絆」だった。
「……ご主人様。わがままだって言われても、絶対に諦めないから。その首輪、いつか必ずアタシたちの手で壊してあげる」
白が俺の胸に頭を押し当て、宣言した。彼女の瞳は暗闇の中でピンク色に鋭く輝いている。首筋の疼きはまだ消えない。だが、三人の強い意志と温もりが、組織の冷たい信号を確実に押し返していた。
「さあ、作戦会議よ。黒、茶々。ご主人様が文句を言えないくらい完璧な方法を考えなさい!」
白の号令に、黒が短く了解と答え、茶々が力強く応じる。俺一人が背負い、泥を被る時代は終わったのだ。救った命たちは、いつの間にか俺を救い出すための最強の味方へと成長していた。
「……わかった。だが、絶対に無理はするな」
俺がようやく折れると、白は満足げに鼻を鳴らし、俺の首筋を慈しむように舐めた。
「もう遅いわよ。アタシたちはもう、共犯者なんだから」