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時也は、ふと何かを思い出したように
そっと席を立った。
静かな足取りで部屋の一角──
壁際の古い棚へと向かい、その扉を開ける。
中には、封筒や記録帳
控えの契約書が丁寧に並べられており
彼はその奥から一冊の手帳を取り出した。
ペンを走らせる音が、部屋に柔らかく響く。
動作は手慣れていて、無駄がなく
そして迷いもなかった。
やがて、破る音。
時也は一枚の厚紙を
ライエルの前に差し出した。
「⋯⋯どうぞ」
ライエルは反射的に受け取り
視線を落とした。
──その瞬間、動きが止まる。
「⋯⋯っ⋯⋯こ、れは──」
──小切手だった。
桁を数えることに時間がかかるほどの額面。
金に詳しくなくとも
ライエルにすらそれが
〝常識を逸した数字〟であると理解できた。
一瞬、思考が空白になる。
「こ、こんな大金⋯⋯っ
受け取れません⋯⋯!」
ライエルは思わず立ち上がりかけ
両手で小切手を抱くようにしながら
目を見開いた。
声は震え、顔には混乱と動揺
そして責任の重さに
圧し潰されそうな誠実さが滲んでいた。
ちょうどその時──
廊下の方から、扉が音もなく開く。
「おーい、時也。
客の予約帳どこ──って
なんだよライエル、顔真っ青じゃねぇか」
ソーレンだった。
眉を顰めながら部屋に入りかけた彼は
ふとライエルの手元にある紙を見て
ぴたりと足を止める。
次の瞬間、破顔した。
「ははっ!あー、それ渡したのか。
⋯⋯そりゃ、そうなるわな?」
ライエルは狼狽のまま
ソーレンに縋るような視線を送った。
「これは⋯⋯本当に⋯⋯?」
「ああ。本物だよ。
時也が出すもんに偽物なんてねぇ。
⋯⋯つーか、お前まだ知らねぇのか。
アリアの〝涙の宝石〟の話」
「いえ
アリア様の宝石のことは知ってます。
でも⋯⋯まさか、それを──」
「売ったんだよ」
ソーレンは、あっさりと告げた。
「アリアが自分を涙の宝石で封じた時
それはバカでけぇ結晶になった。
不死鳥の力が詰まってるもんだから
どこに出しても最高級の神秘素材だ。
封印を解いた時に砕いたそれを売って──
喫茶桜を建てた」
ライエルの瞳が大きく揺れる。
「アリア様が、御自身を封じた⋯⋯?」
言葉が喉の奥で震え
あまりの事に思考が付いていかなかった。
その表情に気付いたのか
ソーレンは肩を竦め
少しだけ声を和らげた。
「ま、細かい話は時也に聞けよ。
とにかく──
その売却益がまだガッツリ残ってんだ。
ここにいる全員が
人生三回分は遊んで暮らせるくらいな?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
ライエルは言葉を失い
手の中の紙を改めて見つめ直した。
あまりに重く、それでも確かに温かい
──信頼の証。
その時、静かに──時也が言った。
「……これは、投資ではありません。
あなたの〝意志〟に対する信頼と
僕自身の願いでもあります。
僕が、ノーブル・ウィルの──
スポンサーとなりましょう」
その言葉に
ライエルの胸が締め付けられるように
熱くなる。
時也の声は
いつものように柔らかく、静かで。
だが、そこに宿っていたのは
圧倒的な〝信頼〟と〝覚悟〟だった。
「⋯⋯ありがとうございます、時也様⋯⋯
必ず、この想いに応えてみせます!」
掌で小切手を包むように抱きしめながら
ライエルは深く、深く頭を垂れた。
誰よりも慎ましく、誰よりも誠実に──
世界を変えようと歩き出すために。
リビングに静寂が落ちる。
時也の穏やかな言葉が
部屋に残響のように漂い
ライエルの震える手元には
未だ桁外れの小切手が握られていた。
──そしてその時。
精神世界の底
闇の水面の奥で黙していたアラインが
ふいに目を見開いた。
「⋯⋯⋯は?」
水音も立てずに広がる虚無の中
アースブルーの瞳が見開かれ
驚愕の色に染まっていく。
黒髪がふわりと揺れるほどに
感情が動いた証だった。
(ちょっと待って⋯⋯え?
今、時也⋯⋯あいつ
自分でスポンサーって言った?)
アラインの思考が
ひゅっと冷たい空気に切り裂かれる。
(え、えぇ⋯⋯?
待って、それってつまり──
ライエルが
〝正面から堂々と善意〟でやるってだけで
あの狂信者が全力で
金と権威を注ぎ込むってことじゃないか)
震えるように水面が波紋を広げる。
アラインの手が
精神の闇の底で無意識に拳を握っていた。
(馬鹿か、あの天使⋯⋯!
いや、馬鹿なのはライエルか⋯⋯?
違う、いや⋯⋯違わない⋯⋯なにそれ⋯⋯
〝善〟ってだけで、そんなに人は動くの?)
彼の眉間に深く皺が寄る。
自分は、巧妙な記憶改竄で操作し
圧倒的な力で抑えつけ、懐柔し、計算して
動かしてきた。
だというのに──
ライエルは、ただ〝信じたい〟という
心を差し出しただけで。
時也のような
あの〝狂気の塊〟すら動かした。
(⋯⋯ふざけてる。
いや、違う。
ボクの予測から完全に外れてる──)
アラインの額に、見えぬ冷たい汗が滲む。
(あの天使は
敵対するなら⋯⋯
〝殺さなきゃいけない〟相手だった。
それなのに──
味方につけたら
こんなにも〝厄介〟だったなんて)
精神の底で、アラインは唇を噛む。
(⋯⋯面白い。
ほんっと、面白いよ、ライエル。
ボクの仮面がどこまで通用するのか。
キミの善意が、どこまで世界を変えるのか。
試してみようじゃないか──)
静かな狂気の熱が
波打つ闇の底で微かに火を灯す。
(ただし、一つだけ覚えておいて──
〝その天使〟は、ボクのものだ)