コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ハッと、自分が息を吸い込んだ音で目が覚めた。
4月初旬の東北の朝だ。まだ布団を被っていても肌寒いはずなのに、琴子は全身汗でびっしょりだった。
「なんちゅー夢を・・・」
半身を起こして、四方八方に跳ねている頭を手櫛で整える。
昨夜はベッドに入った後もなかなか寝付けなかった。
殺された櫻井秀人のことを想像するに、どうしても解せない点がいくつもあった。
昨夜は壱道の話を聞いて、これは殺人事件なんだと一旦は納得したものの、考えれば考えるほど、謎が謎を呼び、犯人像がぼやけてくる。
答えのでない思想は空回りして幾度もループし、とりとめのない思考から逃れるために咲楽のインタビューを鑑賞して、ガラスアートの動画を見て、同姓愛者の実態を調べて、なぜかBLコミックにたどり着いて、とネットサーフィンしているうちに朝方になり、力尽きて寝たと思ったら変な夢を見てしまった。
男と男が交わる夢。
その一方は櫻井だった気がするが、起き抜けの数秒で、細かい描写はすべて霧のように忘れてしまった。
食パンをトースターに突っ込んだところで携帯電話が鳴る。
「もしもーし」
相変わらず電波が悪いのか、風が強いのか、久々に聞く兄の声は聞き取りにくかった。
「元気にしてるかー。刑事さん」
「まあまあですよ、海上保安官さん」
4つ上の兄は海上保安庁で勤めている。
一度海に出ると、10日は戻らないらしく、最近の電話はもっぱら海上からだ。
「どうしたの」
「いや、ど~もしてないけど。俺のエクストレイルは元気かなって思っただけ」
「元気だよ。風邪引いてないよ」
「ホントにー?擦ってないだろうな」
「はいはい、大切に乗ってますよ」
沈黙が続く。電波が途切れたらしい。用があるならメールにすればいいのに。
「おーい、おーい」
やっと繋がる。
「聞こえてるよ。それで何なの?用事は?」
「あー、これと言って無いんだけどさ」
暫し黙る。
「何?早くして」
「いや、母さんが心配しててさ。大丈夫かなって」
母も直接連絡してくればいいのに。気を使っているのか。
「ほら、ばあちゃんがあんなことになったし、俺達は危険な職業に尽くしで、母さんも実は心配してるんだよ。たまに電話してやろーな。お互い。俺もさ、この間……」
電話が切れた。いや、電波が切れたのだろう。
パンが焼けた。
琴子はそれを口に突っ込むとと、アパートの天井を仰いだ。
松が岬署の入口を潜ると、普段は車庫証明手続きやら免許証関係やらでごった返している交通課の窓口に閑古鳥が鳴いていた。
かわりに外で鳴く鳥の声さえ聴こえるのが新鮮だ。
階段を早足でかけ上ると、ちょうど見知った顔が下りてくるところだった。
「琴子ちゃん、おはよ」
鑑識課の二階堂巡査部長だ。
「非番じゃないのー?頑張るねぇ」
「そういう二階堂さんもお仕事ですか?」
鑑識課の制服でも白衣でもなくスーツを着ている。
「今日はこれから表彰式なんだ。式場のホテルに出発するとこ」
そう言えば今日は年間優秀賞の表彰式典だった。上へのおべっかが特技な狭間も出席するはずだ。
「琴子ちゃんは捜査?壱道と?」
言いながら自然と壁に腕をかける。
背が高いので、こういう動作が嫌味無く極ってしまう。
頷くと、へえ、と呟いて意味深に笑う。
昨日、壱道から釘を刺されていた。
「当分、この事件が殺しだと言うのは、他のやつには言うな。
確信がないわけではないが、客観的に見ると状況証拠のみで説得力がない。
今のところ手が足りていないわけでもない。
下手に殺人事件の捜査に切り替えると、犯人が警戒するかもしれないからな」
それに、と吐き捨てるように付け足した。
「狭間のように、現場を見ても自殺だと言い切る馬鹿を、説得する時間が惜しい」
捜査一課の人間は壱道に対して距離があるし、彼自身も他の刑事を見下しているようだ。
二階堂がいた頃はどうだったのだろうか。一昨日の様子を見る限り、二人の関係性は悪くなさそうだったが。
「壱道はどう?」
まるでこちらの気持ちを読んだかのように聞いてくる。
「洞察力とか行動力とか学ぶところは多いです」
「何、その棒読みな感じ」
二階堂が吹き出す。
「正直言っていいんだよ。ついていくの大変?」
「…大変じゃないですけど、少々不安なときも。他の人には事件のこと話すなって言うし、この先誰にも相談もできないと思うと。壱道さん、けして評判がいい方ではないですし。ついていって大丈夫かなって思うときはたまにあります」
二階堂は面白そうに覗きこむ。
栗毛の髪の毛が揺れる。
「でもね、俺が言うのもなんだけど、あいつの捜査で間違った方向に暴走したのは見たことないよ。
まあ、しばしば爆走、独走はするけどね」
ケラケラと笑う。
壱道とは対照的によく笑う人だ。
「でも、つい先日も壱道さんの勝手な捜査で犯人取り逃がしたって聞きましたけど」
「あー、火事のやつ?そんな風に琴子ちゃんには伝わってるんだ。
相当あいつ嫌われてるんだなー。お兄ちゃんは悲しい」
おちゃらけた顔が急に寂しそうになる。表情がコロコロ変わる。
「あれね、違うよ。まあ勝手な捜査だったけどさ。
事故として処理されそうだった事件を、壱道が解決したんだよ」
「え、そうなんですか」
「建築中の現場で火の気が上がったんだけどさ、結局発見が早くて、燃えたのは玄関付近に置いてあった建材と、中の備え付けの下駄箱の一部だけで済んだんだ。
担当の大工は午前中だけそこにいて、午後から他の現場に応援に行ったみたいなんだけど、結局その大工のタバコの不始末ということで、いったん捜査は打ち切りになった。
でも現場の状況を見て納得できなかった壱道が、その後も独自で捜査を続け、植込みの中からルーペを改造させた望遠鏡のようなものを発見したんだ。
でもあいつはそれを誰かに相談することなく、独自で張り込みを開始した。
犯人は必ず外溝工事にはいる前に仕掛けを回収しにくるはず。
そう思った壱道は隣家の植込みに隠れ、雨の中、ただただ犯人を待ち伏せた。
次の日の早朝、犯人が仕掛けを回収にきたところを取り押さえたはいいものの、夜通し徹夜で張ったことと、雨に打たれたことで、風邪をこじらせ、肺炎になってたんだと。
それで犯人を取り逃がし、ぶっ倒れて入院。
でも顔をみられた犯人は、逃げられないと思い自ら出頭したんだって」
「え、それって壱道さん、お手柄じゃないんですか。だって事故処理されるところだったんですよね?」
「そーだよ。でも上に言わせると、『上司の許可もない単独捜査で、犯人を取り逃がした大失態』ってことになるんだと。
まあ確かに犯人に気づかれないように捜査することもできただろうからね」
それにしても。事件性に気づけなかった自分達の非は認めず、壱道だけあんな悪評に晒すのもいかがなものか。
刑事課に配属されてからの数日間、主に狭間や小國から散々聞かされた壱道への陰口を思い出した。
口を結んで黙っていると、二階堂はまた首を傾げた。
「俺の話、信じられない?」
「いえ、二階堂さんの言っていることが正しいんだと思います」
「じゃあなんで怖い顔してるの?」
「…腹に据えかねる話だな、と」
一瞬間があったのち、今度は盛大にゲラゲラ笑われる。
「それ、壱道の真似?」
そんなつもりはなかったが、何だか恥ずかしくなってきた。
「そろそろ失礼します」琴子がトートバッグを肩に引き上げると、二階堂の大きな手が肩を掴んだ。
「だけど、それってさ、壱道の味方になってくれてるって解釈していいのかな」
口許は笑っているが、思いの外真剣な眼差しに思わず素直に頷くと、二階堂はまるで子猫や赤ん坊を愛でるような目線になる。
「あいつも、悪いやつじゃないんだよ。上にはいろいろ言われてるけどさ。
信念とか覚悟とか、ある程度はあるやつだと、俺は思ってるんだよね。
そうそう。あいつ、意外と硬派なんだよ。高校のとき、合気道で国体に行ったらしいぜ」
「合気道で?国体?」
琴子はあきれた。成瀬壱道。やはり信用できないやつだ。
「まあさ、捜査の方向性のことで、疑問に思ったことは、どんどん本人に聞いていけばいいんだよ。
それで教えてくれることもあるだろうし、逆に壱道が気づくこともあるだろうし。
そういうの、待っていると思うからさ」
また思わず頷いてしまった琴子を満足そうに見て、
「迷ったら俺が話きくからさ。相談して」
二階堂はヒラヒラと手を振りながら階段を下りていった。
刑事課までの廊下を歩く。
壱道はもういるだろうか。
もしいなくても監視カメラの映像を見直したり、音声を聞き直したり、滝沢隼斗が言っていたオーシャンを調べてみたり、何かできることがあるはずだ。
壱道のことはまだよくわからないが、二階堂があんなに肩を持つのだから、もう少し信用してもいいかもしれない。
彼の推理力には確かに唸るものがあるし、事件に対しても真剣、全力なのは疑いようがない。
一緒に行動していればそのうちもっと彼のことを理解できるかもしれない。
琴子は一人頷きながら捜査一課のドアに手をかけた。
「おはようございます!」
ドアの前に立っていたのは、スーツスカートにレースのついたブラウス1枚の浅倉だった。
濡れて滴が落ちる髪の毛を拭きながら琴子を見ている。
「昼からじゃなかったの?」
「…あ、そうなんですけど、何かやることないかと早めに…」
「へぇ。そーなの」
つまらなそうに髪の毛をシャカシャカ拭いている。
どうやら署内のシャワー室を使ったらしい。
滴る水で白いブラウスが濡れ、紫色のブラが透けて見える。
「浅倉さんこそ当直は8時で終わりでは……」
「成瀬くーん」
あからさまにスルーを極め込んで踵を返すと、ピンヒールをならしながら奥のソファに近づいていく。
「ねえ。新人ちゃん、早くて来ちゃったわよ」
低いうなり声が聞こえて、ソファが軋む。
「三時間は眠れると思ったのにね」
ため息混じりに、誰に向けて発したのかわからない捨て台詞を吐くと、浅倉は給湯室へ消えていった。
むくっと起き上がった壱道が、ソファの背もたれ越しに見える。目頭を押さえている。
「コーヒー飲むでしょ?」
給湯室から、浅倉の艶っぽい声がした。もちろん壱道に対しての問いだ。
まるで気心知れたカップルがホテルで一戦終えた後のようだ
思わずソファで乱れる二人の姿を想像する。
他に誰もいないオフィスで、しかもどちらかといえば見目麗しい若い独身男女が二人、何もないわけはない、気がする。
二階堂にこの二人の関係も、それとなく聞いておけば良かった。
こちらの動揺をよそに壱道がやっと目を開けた。
「おはようございます」
一つ重そうに瞬きをして眉間にシワを寄せたまま頷く。
顔色は昨日より悪く、白目は充血し、その下には隈が出ている。
「す、すみません。何かお手伝いすることあればと思って、早めにきたん…」
「今はない」
被せ気味に返答がくる。
顔色とは対照的に、マスクはしているものの声は随分マシになった。
「ついさっきまでは山ほどあったのにね」
浅倉が嫌味たらしく付け加えながらコーヒーを置く。
「すみません、何もお役に立てず」
「呼んでないんだから当然だ」
どうやらお呼びでなかったらしい。
壱道がソファから立ち上がる。
「あ、寝てていいです。私、なにか指示していただければやっておきますので」
「お前一人でできることは何もない」
一言一言ぐさりと胸に突き刺さる。
「じゃあ、お昼まで時間潰してくるので、休んでてください」
「馬鹿言うな。せっかく来たんだろうが。時間の無駄だ。行くぞ」
言葉とは裏腹に、掌で目を強く擦りながらだるそうに上着を手にする。
昨日と同じワイシャツ、同じネクタイだ。まさかまた帰っていないのか。
コーヒーカップを手に喉を鳴らしながら飲んでいる。
淹れたてなのに熱くないのだろうか。
そういえば湯気がたっていない。
適度な温度に浅倉が調整したのか?
それが当たり前にできる間柄なのか。
もう下世話な想像しかできない。
給湯室から乱暴なドライヤーの音が響き始めた。
……いやいやいやいや、おかしいでしょ。
琴子は小さく首を振った。
どちらかの家に、夜中に突然お邪魔したのならともかく、琴子は仕事場である警察署の捜査一課に、朝の九時過ぎに仕事をしに入ってきただけなのだ。
なぜこんなに萎縮しなければいけないのか。
冷静に考えると二人が醸し出す雰囲気に腹が立ってきた。
「車回してこい」
宙に弧を描いて投げられた捜査車両の鍵をなんとかキャッチすると、琴子は逃げるように一課を飛び出した。